〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ チャールズ・ヴィダーの映画『 ギルダ 』( 1946 ) を哲学的に考える

 

はじめに

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この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。

 

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監督   チャールズ・ヴィダー

公開   1946年

出演   リタ・ヘイワース   ( ギルダ・マンスン・ファレル 役 )

     グレン・フォード   ( ジョニー・ファレル 役 )

     ジョージ・マクレディ ( バリン・マンソン 役 )

     ジョゼフ・カレイア   ( オブレゴン刑事 役 )

 

 

1章  ホモソーシャルな世界と独占性

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 ジョニー・ファレル ( グレンフォード ) は、カジノでイカサマをして勝ったのがばれて殺されかける所を、バリン・マンソン ( ジョージ・マクレディ ) に助けられる。バリンに目をかけられたジョニーは、バリンがオーナーであるカジノで彼の片腕として働くことになる。

 

 賭博の世界に対する女の危険性をジョニーに諭したバリンだが、バリンが妻 ギルダ ( リタ・ヘイワース ) と共にカジノ場に隣接する部屋で生活をしながら皆を支配する事をジョニーに非難される、賭博の空間に女を持ち込んでいるじゃないかという事でしょう ( 1~4. )。左がバリンで、右がジョニー。

 

" ギャンブルに女は禁物のはずだ " by ジョニー

" ほかの女と一緒にするな " by バリン

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 しかし、バリンはいかなる意味で賭博の世界にとって女が危険であると言っているのでしょう。これは映画の中で説明されることはなくスルーされるのですが、それこそがこの映画を規定するものなので考えていきます。

 

 映画研究者のリチャード・ダイアーは『 ギルダ 』について次のように言っている。 

 

 『 ギルダ 』において、男らしさと正常さがとくに問題となるのは、ジョニーとバリンの間の同性愛的な関係が示されていることによってである。バリンがジョニーを拾い上げたいきさつとか、二人の間で交わされる目くばせや会話のニュアンスなどが、彼らが同性愛的な関係にあることをよく示している。しかし、私にとってもっとも重要に思われるのは、ジョニーがこの映画では女性的なあり方に位置づけられていることだ ( ホモセクシュアルを扱っているほとんどの映画と同様に、この映画でも、バリンとジョニーの関係はどちらかが女の役割を果たす、歪んだ性的関係として描かれている )。

 

 

リチャード・ダイアー「 Ⅵ 『 ギルダ 』におけるリタ・ヘイワースp.148~149 フィルム・ノワールの女たち 性的支配をめぐる争闘 』所収 監修 / E・アン・カプラン、訳 / 水田宗子、田畑書店 ( 1988 ) 

 

 ジョニーとバリンの関係を、リチャード・ダイアーのようにホモセクシャルだと言い切る ( 精神分析的な側面からしても ) のは難しいが、性的欲動のみに照準を絞るのではなくより全体的背景を包括する意味で ホモソーシャル と言う方が適切でしょう。つまり、賭博において象徴的に賭けられるものが命であり、命の遣り取りにつきまとう、支配・反発・従属・裏切り、などの変動的要素が渦巻く世界を代理表象するのが男性主体のみであるという "独占性" が形成されている、という事なのです。

 

 実は、この "独占性" こそがホモソーシャルのみならず、何らかの特定の集団のために閉じられた世界を可能にするものです。話が進むにつれて、この映画を特徴づけるその独占性は "転移" していき、男たちが集団的権力を形成する上での決定的役割を果たすようになる。賭博場の運営が、利益を上げる、イカサマや裏切りを許さない、などの支配性に基づかなければ維持出来ないというのは、必然的に 特定の集団による独占とその結果としての閉塞的世界 へと行き着く事になる。それはバリンが単なるカジノのオーナーであることに満足せず、タングステン鉱山の特許を手に入れることによってビジネスの世界を "独占" する野望を持つ話として展開されていきます。

 

 この野望を達成するためにバリンは、アンダーグラウンドビジネスの非情な世界を生き抜くために命を賭けることも厭わない。その彼がギルダと結婚したというのはいかなる意味があるのでしょう。それはまさにビジネスと同様に、"独占の対象" として見ていると言うのは、女性の尊厳という視点からは問題がある。しかし、ここで働くバリンの欲望を分析すると、彼にとっての女性がいかなる意味で欲望の対象であるのかが見えてきます。

 

 ギルダの独占とは、男たちの闘争の果てにあるものが、その行為自体に価値があるかのように思わせる魅惑の "宝" として機能している 事を意味する。宝とは、それ自体で単独的に魅力があるのではありません。宝の外見上の美しさや表面的利益は、それを手にいれる行為自体の価値を吊り上げるための契機でしかない。バリンはギルダという宝を手に入れ、他の男たちに対して優越性を誇示する。自分はこれだけの美しい女を手に入れた、のだと。なのでバリンは、この宝が、自分が目にかけたジョニーによって奪われる事を心配し憎しみを覚えながらも、このスリルに興奮し、三角関係 ( バリン ― ギルダ ― ジョニー ) を秘かに楽しもうとする倒錯性すら露にする ( 8~14. )。バリンにおけるこの冷徹な悪を体現するジョージ・マクレディの演技はグレン・フォードを完全に喰ってますね。

 

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 タングステン鉱山の特許を巡る争いの中で、ドイツの独占企業から送られた刺客との殺傷沙汰に巻き込まれるバリン。パーティーの場からギルダを連れて帰るようにジョニーを諭す ( 15~22. )。自分は残り、刺客と最後まで戦うと言う。

 

"「 勝つには大きな賭けを 」それが私のモットーだ" by バリン

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 バリンは、刺客と警察の捜査から逃れるために、脱出用の飛行機の墜落事故によって死亡したように装う。もちろん、これはジョニーとギルダをも騙すことにもなっている。バリンの嘘の遺書に従い、ジョニーは彼のアンダーグラウンドビジネスを引き継ぐ ( 23~30. )。

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 バリンが亡くなったと信じるギルダとジョニーは、かつて ( 彼らは結婚・離婚の過去があった ) のように暮らし始める。しかし、ジョニーは、ギルダが他の男性と仲良くする自由奔放さを許さず、あろうことか、バリンと同じように彼女が他の男性と接触しないように "独占" しようとする ( 35~38. )。

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2章  独占される対象から独占する対象へ移行するギルダ

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 ジョニーの囲い込みによってギルダは、特定の男性と遊ばないようになったものの、鬱憤を晴らすかのように、クラブ歌手として大勢の男性の視線の対象になる。ただし、これは彼女の尊厳を取り戻す行為などではない事は明らかですね。ここでの彼女は、1人の男に独占され監禁状態にされるくらいなら、誰からも独占されないが、多くの人間の視線を逆に独占するという、独占される側から独占する対象へと移行 している という事なのです。


 なので、前述の批評家リチャード・ダイアーのように、ギルダに男性社会の閉塞性を突破する可能性を見ようとしても、そうではない事が分かるのです。実際は "独占の主導権" が、男性側からギルダ、いや、リタ・ヘイワースに移った事が暗喩的に描かれている のがこの作品の無意識的モチーフなのです。女性を自分たちの舞台の登場させないようにする男性的独占は、最後に戻ってきたバリンが殺されることで終わるのですが、それと同時に、男性を魅了する自分の性的側面を理解する ギルダ / リタ・ヘイワース はそれを利用すること ( 現在のフェミニズムではそのような性的魅力の利用は表向きに否定される ) で男の視線・興味を独占する。

 

 そのための舞台こそが、 40~48. におけるリタ・ヘイワースのダンスシーン ( * ) なのですが、この舞台はここで終わらず、スティーヴン・キングによる1982年の『 刑務所のリタ・ヘイワース 』、そしてそれを原作とした映画、フランク・ダラボンによる1994年の『 ショーシャンクの空に 』へと続き、男たちを魅了し続けたのです ( * ) 。ここから男性の性的欲望を利用する ギルダ / リタ・ヘイワース が未だ、自立的主体としての女性からは程遠いという批判が成されるのは当然だとしても、その時、性的なものとは何か、言い換えると、男性に一方的に性的独占をさせないように主導権を取り戻そうとするギルダ / リタ・ヘイワース の中にも潜む 性的なものの根源としての非性的欲動 とは一体何かという問い を避ける事は出来ないでしょう ( 終 )。
 

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( * )

リタ・ヘイワースと彼女のダンスについてリチャード・ダイアーは言う。

 

 この映画の中でリタが確固たる存在になってしまうのは、もちろん彼女がこの映画の売り物スターだったからだが、それ以上に、みごとな踊りのためでもあった。リタが「 エロスの女神 」として男性観客に性的対象だったことはいうまでもないが、『 ギルダ 』がつくられる頃には、多くの女性ファンもいた。リタはミュージカルのパートナーだったし、それに加えて、彼女の私的な生活の消息がよく知られていたからである。リタは、1942年にビジネスマンの夫と離婚し、翌年、オーソン・ウェルズと結婚して、この『 ギルダ 』に出演する直前には娘を生んでいる。つまり、ギルダ=ヘイワースという存在は、男たちの性的幻想のスクリーンへの投影というばかりではなく、女性が結婚や家族といった実人生も考える上で、自分たちの関心や願望をそこに見て、一体感を持つことができる存在でもあった。

 

リチャード・ダイアー「 Ⅵ 『 ギルダ 』におけるリタ・ヘイワースp.153~154 フィルム・ノワールの女たち 性的支配をめぐる争闘 』所収 監修 / E・アン・カプラン、訳 / 水田宗子、田畑書店 ( 1988 )

 

 リタ・ヘイワースまでは、フィルム・ノワール のどんなファム・ファタールも踊らなかった。『 ギルダ 』の中の歌や踊りは、リタがすばらしいダンサーだから存在したので、ギルダというヒロインから必然的につくられたものではない。〈 中略 〉。リタのスタイルは、これらと対照的にラテン舞踊である ( リタの両親はスペイン人であり、彼女はスペイン舞踏団の一員としてデビューした。1940年代のラテン音楽とダンスの流行にさいして、スペインからラテン・アメリカへの横すべりは、彼女にとって容易だった。なお、『 ギルダ 』は南米を舞台にしている )。

 

前掲書 p.154 ~155

 

ただし、リタ・ヘイワースが『 ギルダ 』で歌っているように思われる "Put the Blame on Mame" と "Amado Mío" ( * ) は アニタ・エリス ( 1920~2015 ) による吹替。

 

( * )

フランク・ダラボン監督の『 ショーシャンクの空に 』から。刑務所内で『 ギルダ 』のリタ・ヘイワースを見て盛り上がる囚人たち ( 49~52. )。左はレッド役のモーガン・フリーマン。右はアンディ役のティム・ロビンス。銀行員だったアンディが、妻とその愛人を射殺して刑務所に入ったのが1947年。1940年代のセックスシンボルだったのがリタ・ヘイワースであり、刑務所部屋に張られた彼女のポスターの裏側で脱獄用の穴を掘り進めていった。やがてポスターは1950年代のセックスシンボルであるマリリン・モンローに張替られ、最後にそれは1960年代のセックスシンボルであるラクウェル・ウェルチへと至ったところで脱獄が成し遂げられる。時は1966年だった。

 

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( * )

この映画『 ギルダ 』からの影響を受けた小説が ピエル・パオロ・パゾリーニ ( 1922~1975 ) Amado mio 。邦訳タイトルは『 愛しいひと 』。アルゼンチン発祥 ( 定かではない ) の曲である名残りを示すスペイン語タイトルをパゾリーニはそのまま自分の作品名に使っている。

 

ただし、この映画を観た観客の多くがセックスシンボルとしてのリタ・ヘイワースに魅せられて終るのに対して、パゾリーニはそこを通り越し、この映画の隠れたテーマである男性同士のホモ・セクシャリティ に強く心を惹かれている。実際に小説では、主人公のデズィデーリオが、映画内でギルダ ( リタ・ヘイワース演ずる ) が歌と踊りで男たちを魅了するのと同様に、少年たちの憧れである少女が彼らの中で踊る、のを気にも留めず、彼女越しにイネースを始めとする少年たちの美しさに心を奪われてしまう描写が為される。そんなデズィデーリオは少年たちと映画『 ギルダ 』を観ながら、リタ・ヘイワースではなく、少年たちへの "欲望" ( "desiderio"、欲望という意味のこの言葉自体が主人公の名前になっている ) を強めていく。

 

 

 やがて明かりが消えて、デズィデーリオの見た映画のなかで最も素晴らしい映画となるはずの映画が始まった。ギルダを前にして何か驚くほどありふれたものが全観客を襲った。愛しいひと ( アマ―ド・ミーオ ) の歌声が襲いかかってきた。だから平土間に飛び交う卑猥な大声、「 それそれ、お前、ボタンがはじけ飛ぶよ 」とか、「 今夜は何回やったの 」とかの大声も、あるリズムの中に溶け込んでゆくように思えたし、そのリズムの中はようやく時が宥められて、ハッピーエンドなしの繰り延べをゆるすかに思えた。デズィデーリオに抱かれたイアシースがその肩に頭をあずけたときにも、そして時のかなたに尽きたあの大饗宴の雰囲気の中で、死の前に、デズィデーリオの胸はようやく溶けだしたみたいだった、それは涙の凍るレベルまで高められた感動であった。リタ・ヘイワースの大きな身体、その微笑みと妹であり売春婦である - 曖昧で天使的な - おろかで神秘的な - その乳房、冷淡なくせにけだるいまでに優しいあの近視の眼差しで - 神々しくも撫でるように優しく無表情に、大河小説の、戦後のラテンアメリカの涯から、彼女は歌った。けれどもアマ―ド・ミーオの歌の詞が、その農夫の美しさといっしょに、疲れ果てたかそれとも情事のあとのありさまか、そのままに、口には出せない青年のかたわらにうずくまる彼女を思い起こさせた …… 。モンテヴィデオからラ-プラタの並木道から見れば、カーオルレのあの映画館とかたわらに座るあの少年とはデズィデーリオにとっておのれの悲劇的な諦めのかたちのほかに何になりえただろう? 歌の調べと詞に蠟みたいに溶けた胸に、意志を捨てて屈しながら、デズィデーリオは肩にもたれる少年の頭を、弟を撫でるように撫でていた。そして流す涙の合間に、訣別の決意を告げるはずの長い話の代わりに …… 、少年の耳もとに囁いていた。「 ゆるしておくれ、イアシース! 」。が、イアシースはデズィデーリオの洩らしたそんな聞き取りにくい言葉に、微笑みながら、上の空で答えた、「 今夜ね 」。

 それは喜びの叫び、映画館とカーオルレ全体を揺すぶるほどの甘い突発的大変動 ( カタクリズマ ) であった。その間にも、夜空に向かって、息をはずませる観客の上に、優美な愛欲と荒れ狂う忍耐をこめてギルダが片腕から手袋を抜き取っていた

 

 

『 愛しいひと 』 ピエル・パオロ・パゾリーニ / 著 花野秀男 / 訳 青土社 1997 p.266~267

 

 

 終

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