〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ スタンリー・キューブリックの映画『 アイズ ワイド シャット 』( 1999 )を哲学的に考える〈 1 〉

 

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監督  スタンリー・キューブリック
公開  1999年
原作  アルトゥール・シュニッツラー『 夢小説 ( 1926 ) 』
出演  トム・クルーズ     ( ビル )
    ニコール・キッドマン  ( アリス )
    シドニー・ポラック   ( ビクター・ジーグラー )

 



 1章  無意識の欲望に踏み込むことの危険



スタンリー・キューブリックのそれまでの映画からエキセントリックなイメージを抱いていた人は、『 アイズ ワイド シャット 』を夫婦についての退屈な映画だと思うことでしょう。しかし、そういう方々は、キューブリックが示してきた "エキセントリック" の意味を自分で何一つ考えることがなかったのだと気付くべきです。

 

キューブリックの "エキセントリック" とは "人間の狂気" に他ならないのですが、それまでは『 時仕掛けのオレンジ ( 1971 ) 』や『 シャイニング ( 1980 ) 』のように外面に露出した暴力的狂気が特徴的だったのに対し、『 アイズ ワイド シャット 』では人間の内面に潜む欲望の狂気を描いているのです。

 

これはキューブリックが年を取って丸くなったが故の過激なものからの撤退なのでしょうか。たしかに、そういう面は否めませんが、過激な作品は十分に撮ってきているのだから、人間の内面に向かったのは、撤退というより、狂気の真実に向かう必然だった と考えられるでしょう。

 

では、狂気の真実とは何か。それは 欲望が個人的内面の領域から溢れ出て、人間関係を破壊する強力な奔流になる事 なのです。個人が自分の中で欲望を制御出来ずに、相手に対して執拗に絡むようになり、皆自滅していく。その人間関係の舞台として選ばれたのが、トム・クルーズニコール・キッドマンが演ずる "夫婦" だったという訳です。

 



 2章  壊れゆく夫婦



夫婦関係が制御できない欲望によって破壊されてゆく、それは夫婦が自滅してゆく過程でもあるわけですが、興味深いことに、キューブリックは最後の最期で一線を越させないよう配慮する。これは夫婦関係への賛辞などの表面的な事ではなく、人間関係を維持する上ではどちらかが相手に服従しなければならない というキューブリック流の皮肉なメッセージだといえるのです。相手の欲望を暴露させてしまえば、もう後には尊厳は残らない、つまり、決定的なことが分かってしまえばもうこれ以上知る必要はない という見下しが生まれ、対等な関係性は崩れてしまうのですね。

 

ここには、人間の愚かさがあるのであり、知りたいのは"決定的な秘密事" でありそれ以外の多くのことは知りたくないというヒステリー なのです。それが愚かなのは、自分が決定的であると思いこんでいるものが、本当に決定的であるという保証はどこにもないという事です。むしろ下らないものこそが相手の "尊厳の礎" であるかもしれない のです。

 

映画の内容に即して言うなら、物語の最期でビル ( トム・クルーズ ) が、アリス ( ニコール・キッドマン ) に懺悔して、他の女に対する欲望を告白した時、アリスは彼に軽蔑の眼差しを向ける。彼女は彼の欲望を知ってしまったからです。アリスは、この時、彼の卑猥な欲望を、ビルという人間を特徴づける決定的なものとして 彼の精神的尊厳を終わらせた のです ( しかし、私たち観客はビルがそれほどダメな男ではないことを知っている )。つまり、自分へのビルの精神的服従を完了させた のです。映画ではそれによって全てが丸く収まるというハッピーエンドであるかのように見えますが、キューブリックはそんな素直な監督ではありませんね。いうまでもなく、これはキューブリック流の悪夢なのですが、それについては後で話しましょう。

 



  3章  よくある夫婦の口論

 

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 4章  性的なものの開放か、それとも ……

 

この作品を観てから、原作であるアルトゥール・シュニッツラーの『 夢小説 ( 1926 ) 』を読まれた方もいるでしょう。意外と原作に忠実だなあと思われたりしたでしょうが、しかし、両者の主題は微妙に違う。シュニッツラーは当時のウィーンの社会背景のもとで、抑圧されていた性的なものを言語化を通じて開放しようとする社会的探究の側面を含んでいた ( フロイトなども ) といえるのですが、20世紀後半では事情は少し違ってくる ( 性産業の発展などによって )。

 

つまり、20世紀後半の性の社会的開放がある程度進んだ状況 ( 映画公開当時 ) においては、端的に言うなら、性的開放は夫婦関係においては破綻に行き着くしかないという現実問題を露呈させる のです。もっと、細かく言うなら、ここでは、性の解放か、夫婦の絆か、という二者択一ではなく、人間関係の一つである夫婦の結びつきの不安定さ が問題になっているという事です。

 

そこでは、性の問題は、危機的夫婦関係における問題のひとつでしかない。性的に満足しても、経済的に不満があったりするだろうし、それどころか、経済的問題が性的なものを遠ざける場合もあるでしょう。この映画ではビルは医者なので、経済的問題はないのに、夫婦は倦怠期にある。

 

さて、それは性的不満足によるものなのでしょうか。いや、それは性的技術・工夫・回数などの問題なのではなく、性的行為を不快にさせる空気が夫婦間で出来上がっている 事によるといえるでしょう。その空気は、相手を疑い、別の誰かへの欲望を潜ませているのではないかと探ろうとする "覗き見" によって形作られる。場面 1~12. のアリスの言動にそれが表れていますね。それどころか、彼女はおそらくビルに妄想を告白させようとして別の男性との妄想まで語りだすのです ( 場面 2936. )。

 

もちろん、ビルにも他の女に対する下心はあるのですが、彼はフラフラしながらも最後の一線は越えないのは分かりますね。そのような彼の欲望が具現化されたのが、郊外の館での乱交パーティーに参加する下りです。ここでも、彼は自分の貞操を守り通す。正体を隠し勝手に参加したのがバレても、身代わりの女が彼の代わりに罰を受けることによって難を逃れるという話は、彼の貞操観念から作られた夢物語だと言えるでしょう〈 続く 〉。

 

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 以下 ( 次回 ) の記事に続く。