〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ デヴィッド・クローネンバーグの映画『 クラッシュ 』( 1996 )を哲学的に考える

 

 はじめに

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この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。

 

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監督  デヴィッド・クローネンバーグ

公開  1996年

原作  J・G・バラード ( 1973 )

出演  ジェームズ・スペイダー   ( ジェームズ・バラード )

    デボラ・カーラ・アンガー  ( キャサリン・バラード )

    ホリー・ハンター      ( ヘレン・レミントン )

    エリアス・コティーズ    ( ヴォーン )

    ロザンナ・アークエット   ( ガブリエル )

 

 

1章  性的な領域の拡大

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 今では『 クラッシュ 』というと、2006年にアカデミー賞の作品賞を受賞したポール・ハギスの映画を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、かつては『 クラッシュ 』といえば、デヴィッド・クローネンバーグの戦慄的かつセクシャルな映画が思い出されたはずです ( 2021年1月には4K版『 クラッシュ 』が公開されますね )。この映画の恐るべきところは、通常の性行為に満足出来なくなった人間が、故意の自動車事故によって快楽をさらに拡充させようという普通の人には到底理解出来ない性的欲求に貫かれている事でしょう。

 

 性行為のマンネリ化を打破するために、性衝動以上の衝撃、つまり、交通事故 ( クラッシュ ) という衝撃 を利用して、そこに性衝動を重ね合わせる ( 衝動=衝撃 ) のです。性衝動の閉じた領域 ( マンネリ化した日常 ) に、物理的圧力によって原初の獰猛な力を取り戻させようとする 訳ですね。

 

 違う言い方をするなら、性欲の根源である "欲動 ( リビドー )" の領域に立ち戻り、性欲を活性化させようという試みなのですが、その試みは、欲動が "死" を背景にしているからこそ可能になる。欲動それ自体は、生にも死にも向かう無差別的なもの であり、性欲とは欲動が生の方に向かったものに過ぎないのです。

 

 低下した性欲を刺激するとは、欲動の死の方向に赴く事に他なりません。この映画における死の方向とは、衝突事故であり、死に向かっての "運転 / ドライブ ( drive : 欲動 )" の中で性欲を高めようとする試みにとりつかれた人間の姿が描かれるのです。以下は、車の中でのバラードとヴォーンの会話。

 

" すごいと思うが俺には理解できない " by バラード

" だがバラード 君はすでに仲間なんだ "

" 君も徐々に分かるようになる。愛に満ちた精神病理学があるってことを " by ヴォーン

 

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" 自動車事故は破壊的ではなく生産的出来事だ。性的エネルギーの解放なんだ " by ヴォーン

 

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" 最新技術による人間の体の再生がテーマじゃなかったのか? " というバラードのセリフは以前のヴォーンのセリフ " 最新技術による人間の体の再生だ " を受けてのもの ( シーン17. )。しかし、これはヴォーン自身が否定するような切り捨てられるものではありません。というのも自動車事故と同様に、補助機械などの装身具、手術痕、もまた人間の性欲を刺激するものとなっているのですから、少なくともこの映画では。

 

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2章  機械的なものとの融合

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▨ 以上のことから、この映画では自動車だけでない、〈 機械的なもの 〉を人間に接続させる事が秘かなテーマになっているのが分かるはずです。いや、この場合、接続というのは正確ではない、機械と人間の "融合" というべきでしょう。私たちが通常、抱く "人間的なもの" の概念が別のものと混ざり合う事によって溶けていくのです ( 例えば、人間とハエが融合するクローネンバーグの映画『 ザ・フライ ( 1986 ) 』)。 

 

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 シーン18. はガブリエル ( ロザンナ・アークエット ) のこの映画を象徴するバックショットですが、これは彼女の太腿の手術痕が女性器を想像させるという意味での性的喚起だと単純に受け止めるべきではないでしょう。重要なのは、手術という "人工的なもの" が性的刺激を強める、別の言い方をすると、本来、人間の内奥由来の性欲が外部で人工的に再生され、内部にフィードバックされるという "倒錯的回路" に気付く事なのです。

 

 この倒錯的回路は、性欲を人工的に作り出すだけではなく、人間性を融解し、性欲の根源である欲動 ( リビドー ) を猥褻な形で露呈させる のですが、それは極端であるため、一部の人間の性的嗜好を満たしても、大部分の人は気持ち悪さを覚える。それこそが、クローネンバーグの映画につきまとう性的なものに留まらない "グロテスクな猥褻性" なのですね ( 『 裸のランチ ( 1991年 ) 』におけるタイプライターの奇形虫など )。

 

 しかし、欲動は、死の領域から発生するものであるので、性的興奮を求める行為 ( 故意の自動車事故 ) も限界を越えると、人間主体は死ぬしかありません ( ヴォーンは結局、事故で死ぬ )。ヴォーンの死にもかかわらず、自動車事故を求めるジェームズとキャサリンは倒錯的回路の中で 反復行動を繰り返す "死の欲動 ( drive )" に囚われたまま脱出出来ない 、つまり、車、人生、そして人間である事、から離れる事が出来きず、乗ったままでいるしかないのだ ( 27. )、と解釈するしかないでしょう〈 終 〉。

 

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 終

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