〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの小説『 すべては消えゆく 』を読んで考える

 

 

 『 すべては消えゆく -マンディアルグ最後の傑作集 ー 』光文社古典新訳文庫
 
著者  アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
訳者  中条省平
2020年4月20日 初版第1刷発行
発行所 株式会社 光文社
 
 目次
クラッシュフー    P7 
催眠術師       P37                
すべては消えゆく   P47
 
解説 中条省平    P280
年譜         P300
訳者あとがき     P307

 

 


 本書は、フランス文学者の中条省平が日本の読者のために選んだ3編から成るアンソロジー。「 クラッシュフー 」は短編集『 薔薇の葬儀 ( 1983 ) 』に収められているもの。イギリスにかつて存在した自動車メーカー、トライアンフが製造したスピットファイア ( A ) が主人公ブラン・ド・バリュの運転する自動車として登場することから分かるように、マンディアルグの1963年の初長編小説『 オートバイ 』を彷彿とさせる。もちろん、中条省平がこの短編を選んでいるのは、その『 オートバイ 』を翻訳した生田耕作へのオマージュだといえるでしょう ( 彼と澁澤龍彦が日本におけるマンディアルグ作品の浸透に貢献したことを解説で述べてますからね )。

 

■ 車と接触し転倒した女性と性交に至るという「 クラッシュフー 」のストーリーを読んだ映画好きの方なら、デヴィッド・クローネンバーグ の『 クラッシュ ( 1996 ) 』を思い起こすでしょう ( もちろんフランス語の crache と英語の crash では意味は違うのですが音読で連想される人もいるでしょう ) ( B )。わざと自動車事故を起こすことによって自分たちの傷ついた身体同士での性行為でしか興奮しなくなった男女関係を描いたもので、原作は J・G・バラード ( 1930~2009 ) の『 クラッシュ Crash ( 1973 ) 』。マンディアルグの「 クラッシュフー ( 1980 ) 」より前に発表されているのですね ( もっとも、マンディアルグが J・G・バ ラードを読んでいたかどうかは分かりませんが )。「 クラッシュフー 」では主人公ブラン・ド・バリュと性交した娘が、別の男のスピットファイアによって衝突されて亡くなるのですが、この辺は『 オートバイ 』のラストに重なるもので、「 クラッシュフー 」は『 オートバイ 』の短縮版ともいえるものになっているといえますね。

 

 

( A )

■ 現在ではバイクメーカーとして存在するのですが、トライアンフ ( E ) と聞いて、車を思い浮かべる人はクラシックカーマニアでしょう ( かつては車を製造していた )。第二次世界大戦中のイギリス空軍の主力戦闘機に由来する名称であるスピットファイアは1962年から1981年までモデルチェンジを繰り返しながら生産された。"spitfire" という車体名称を敢えてフランス語の "crachefeu" に訳し、それを愛称にするという事からは、"spitfire" "火を吐くもの" という意味からある種のイマージュを汲み取り、それを物語の核心に据えるというマンディアルグの創造性の一端を垣間見ることが出来ますね。

この場合、ある種のイマージュとは、車が人間の乗り物であるという通常のイメージではなく、娘を "攻撃するもの" というイメージです。車と接触し転倒した娘と性交に至るというストーリーから、単純に車を "男性"、あるいは "男性器" の象徴だと解釈する人もいるかもしれませんが、ここでは エロティシズムを増幅させる "もの" だというべきでしょう。マンディアルグの『 オートバイ 』についても同様の事が言えますね。

 

(B )

■ 中条省平自身は、「 クラッシュフー 」を訳しながら カール・テオドア・ドライヤー ( 1889~1968 )  の超短編映画『 彼らはフェリーに間に合った ( 1948 ) 』を思い出したと言うのですが、それはフランス文学者らしいというか、趣味が良すぎるよって思いましたね ( 笑 )。もちろん、カール・テオドア・ドライヤーが偉大な映画監督であるのは言うまでもないのですが、そこにマンディアルグを引き合わせても余り刺激的ではないということです。

 

 

■ マンディアルグに引き合わすべきは、デヴィッド・クローネンバーグ、そして『 オートバイ 』を映画化した ジャック・カーディフ ( 1914~2009 ) ( C )、さらに『 満潮 』、『 余白の街 』などを映画化した ヴァレリアン・ボロヴツィク ( 1923~2006 ) でしょう。B級的娯楽性、卑猥性などの要素を備えてた彼らの作品が興味深いのは、原作の世界観を上手く消化できず、自分たちの手法に囚われながら墜落的軌跡を示してしまう事 です。これは原作との乖離なのですが、逆説的に原作の世界観を近づき得ない形式で浮き彫りにするのですね ( クローネンバーグはマンディアルグを映画化してはいないが、ウィリアムズ・バロウズの『 裸のランチ 』を映画化した時、原作の世界観とは違うと一部の批判的声があった )。

 

■ それは監督の力量不足にのみ帰せられることではないのです。反道徳性、退廃性、エロティシズム、などは各々文字通りの映像描写で再現してしまっては原作から離れてしまう。どういうことかというと、マンディアルグなどの反道徳的な原作は、たんに最初から反道徳的であるだけの作品ではないという事です ( バロウズも然り )。人類の進歩が野蛮から知性への移行であるとするのなら、知性とは野蛮の中にその萌芽 ( それはまだ知性ではないが ) を宿している と考える事が出来るのです。知性とは野蛮とは正反対のものではなく、野蛮がその暴力的内実を脱ぎ捨てた時に現れる。つまり、無意識的な野蛮行為それ自体が反復によって自らに折り重なる時、そこには自らを意識する反省的次元 ( ヘーゲル的意味での ) が出現し、知性が生まれる ( ただし、それは野蛮な行為者自身に現れるとは限らない。それをある種の悪だと認識する別の主体の視線の中に現れたりする )。

 

■ まさにマンディアルグなどは快楽の為の反道徳性を追求するのではないし、反道徳性に向かうために知性を捨てる訳でもありません。彼は知性の為のエロティシズムを追求するのですね。反道徳性の中に知性を孕ませる事に興奮を覚えるという知的快楽主義者 なのです ( この先駆者こそ、牢獄期のマルキ・ド・サドに他ならない )。まさのその見えない知、快楽や反道徳性の中に溶け込んでしまった知、こそが映画では描写出来ないのですね。

 

( C )

■ ジャック・カーディフについては、彼が撮影監督を務めたマイケル・パウエルの映画『 黒水仙 ( 1947 ) 』でアカデミー撮影賞 ( 第20回 ) を受賞したのを受けて、撮影監督としての功績がよく引き合いに出されますが、『 戦争プロフェッショナル ( 1968 ) 』、『 あの胸にもういちど ( 1968 ) 』( D )、『 悪魔の植物人間 ( 1973 ) 』、などを観れば偉大なるB級映画監督だと称えることが出来るでしょう。

 

( D )

■ ジャック・カーディフの『 あの胸にもういちど ( 1968 ) 』については、以下の記事を参照。

 

( E )

■ トライアンフは現在では、バイクメーカーとして有名。トライアンフのバイクを一躍有名にしたのが ジョン・スタージェス ( 1910~1992 ) の映画『 大脱走 ( 1963 ) 』で スティーヴ・マックイーン ( 1930~1980 ) が同社のバイクで逃走するシーン。マックイーンに関連した記事としては以下を参照。

 

 


 マンディアルグの遺作『 すべては消えゆく 』。中条省平は解説で、この作品は、売春と演劇が二重化された幻想世界を描いたものだと指摘する。事実のような話のたんなる描写によって物語を進めるのとは違って、演劇がそこで行われているのを敢えて分かる ( 読者に ) ように、いや、まさに 読者に演劇を観させているかのような想像的可視効果に訴える演劇的手法 が採られているのですね ( それはフランスの文学や映画に特徴的なものだといえるでしょう )。以下は、それを示すユゴー・アルノルドと女性ミリアムの演劇的やりとり。


「 ああ! 」とミリアムは心から楽しそうな様子で、「 あの子たち …… 」。「 そう、あの娘たち、客に交渉可能だと分からせるために、戦闘の準備を整えたインディアンのような髪型をして …… 」「 というより、あえて髪を整えず、交渉可能ではないふりをしたうえで、男に身を任せるのは、男の支配力に屈したからだという幻想を相手にあたえてやる、そういう手練手管なのよ 」「 そんなことを思っていたとき、列車がサン=ジェルマン=デ=プレ駅に到着し、私がじっとまなざしを注いでいた若い女が立ち上がり …… 」「 扉のほうに向かうのを見て …… 」「 化粧箱をもった女に続いて、彼女を邪魔しないように、私も立ち上がり …… 」「 女があなたのほうも見ずに、外に出ようとした瞬間、ガラス扉についた女の手にあなたは急にキスをした、泥棒が鞄から財布を抜きとるように。けれど、扉はあなたの鼻先で閉じてしまい、後ろ髪引かれる思いとともにあなたは車内にとり残されたのね、いとも気高きセニュール 」とミリアムはますます面白がる調子だ。 

 

『 すべては消えゆく 』 p.103~104

 

 ユゴーは美しい顔をじっと見つめる。そして、「 君はほんとうに女優なのか 」とついにはっきり疑問を口にする。「 ほんとうに舞台で演じたことがあるのかね? 」「 むかし、パリにいくらもあるほとんど無名の劇場で、たしかに 」と思い出をかき集めるような一瞬ののちに、ミリアムは答えた。「 わたしの唯一の大役は『 ルル 』、ドイツ人ヴェーデキントの大作をピエール・ジャン・ジューヴがフランス語にした戯曲、フランス語でうなら『 ルウルウ 』の役。主役を演じる予定だったのよ。けれども土壇場になって、主役はあばずれ女に回されたわ。その女のおかけで、興行は失敗。わたしのほうが完璧にこの役を知りつくしていたのに。そのときゴルがこういってわたしをからかったの。『 下着が見えてるぞ、隠さなくちゃ 』『 着なきゃよかったのよ、邪魔なだけだもの 』とわたしは答えてやったわ。そしたら、ピエール・ジャン・ジューヴが『 そいつはいい! 』ってわたしの肩を軽く叩いてほめてくれたのよ 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.111~112

 

  ユゴーが黙っているので、ミリアムは言葉を続ける。「 ルルを演じる …… それができなかったのは、本当に悲しかった! この戯曲とわたしのすべてを注ぎ込んだ演技のなかで残ったのは、パプストの二本の映画でルルを演じたルイーズ・ブルックス (F ) を模範にしたヘアスタイルだけ。あなたがいま見ている髪形よ、セニュール 」「 わが愛しの娼婦よ、なんとも味わい深い髪形だ。君自身と、ルイーズ・ブルックス、そして、ルルを演じようなどとは夢にも思わなかった悲惨で壮麗な星、キャサリンマンスフィールド、また、はるか古代の帝国でおそらく春を売っていたエジプトの娘たち、彼女たちにはこれよりほかに似合う髪形はなかっただろう。君は、この驚くべき天賦の美をもつ稀有の女族に属しているのだね   

 

『 すべては消えゆく 』 p.112~113

 

 「 幸せにも、わたしたちが存在していると思いこんでいるこの広大なからくりのなかでは、分かっていることは、つねに、分かっていると思うことにすぎないのよ。本当にあなたが、すべてのことについて分かっていると思うにすぎないと分かっているのなら、そのときあなたは、わたしたち役者、とくに女優がもつ認識に近づいたことになるわ。つまり、眠りや死にも似たかぎりない非現実のなかで、自分たちが非現実の断片でしかないというある種の認識のかたちよ 」ミリアムが説得するような口調でこういうと、唇の上の剥げた紅がその権威をいささか損ないながらも、彼女の美しさをなんら損なうことがないため、その口調はさらに感動をそそるのだった。「 抽象的な話はかなり退屈だし、じつをいうとほとんど興味がない 」ユゴーは一蹴する。「 私の関心は、この舞台の幻影のなかで、いとも簡単に自分の分身である娼婦に化身する女優、そして、その女優の役を喜々としてつとめるミリアムをよく知ることにあって、愛する女に親しく呼びかける理由として、先刻から私がほのめかしていたのは、この世のからくりでもなんでもいいが、体の交わりのことなのだ 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.145~146

 

■ そして、注意すべきは、"演劇" が、読者への可視効果以外に、登場人物たちが、自分たちのやりとり自体が、演劇的なものであると分かっている事です。ユゴー・アルノルドはミリアムとの性行為を望んでいるが故に、彼女の演劇的振舞いにしぶしぶ付き合う内に、性的なものを餌にした幻想世界に巻き込まれていく。反道徳的なものと演劇が結びつき、妖しい幻想世界が産み出されているのであり、ここでは 売春という反道徳的なものが演劇の素材となっている のです。

 

 

( F )

 ルイーズ・ブルックス ( 1906~1985 ) といえば、ショート・ボブ・カットといわれるくらいその髪型で一世を風靡したサイレント映画を代表する女優。現代でも、ショート・ボブは一般的な人気がありますが、彼女のように、黒髪で分け目のない前髪パッツンの超ショートは、映画女優や芸能人、ファッション界でよく見られるものですね。その髪型は、ドイツの映画監督 G・W・パプスト ( 1885~1967 ) の『 パンドラの箱 ( 1929 ) 』を観ていただければわかるのですが、これとは別に面白いのが、イギリスのシンセ・ポップ・デュオ、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク ( Orchestral Manoeuvres in the Dark ) の1991年の曲、その名も "Pandoras' Box" ( アルバム『 Sugar Tax 』に収録 ) のMV。ボーカルのアンディ・マクラスキーが、ルイーズ・ブルックスの写真や切り抜きが大量にある部屋の中でひたすら歌うという、オマージュを通り越したある意味変態的な趣向が見られるMVでは、映画『 パンドラの箱 』が引用されていてルイーズ・ブルックスの姿がすぐに分かる。

 

 

 


 さて問題なのは、この幻想世界が売春を素材としているから、スキャンダラスであるという単純な事ではありません。幻想世界の "ゲームの規則" が演劇行為の遂行である事、つまり、素面の本気になって演技を捨ててはいけない、という事なのです。それは文中で明言されないので哲学的に読み取らなければならないものなのですが、性行為がユゴーを "本気" にさせて、この演劇的幻想世界を壊してしまう事の報いが彼を待ち受けるのです。

 

■ どんな男性でも、性行為への興奮と最終的な射精時の快楽、において "本気" にならざるを得ない定めにあるのは分かるでしょう。どれほど性行為を演技的にこなすと強がっても、快楽を感じている時点で、それは本気になっているという事なのですね。 "快楽" を取り除いてしまえば、性行為の "意味" がなくなってしまうのですから、性行為とは、そもそもの初めから、演技に対立するもの なのです ( 少なくとも、性欲の "増大 / 減退" の分水嶺である射精現象を有する男性にとって )。

 

■ そのような快楽に溺れていくユゴーに対して、ミリアムは彼に征服される受動的な女性を演じながら、冷静にユゴーを観察する。

 

「 腹に打ちこまれた肉串が君の体を支えているように、その尻をぐっともち上げてみてくれ。そうすれば、この優雅な枕を君の腰の下に横から滑りこませることができて、われわれの鍛錬も楽になるし、もしこれを見ている観客がいれば、その観客をの目にわれわれを美しく装ってくれるだろう 」「 たしかに 」と女は答え、男が思った以上の体の柔軟さで彼の命令に従う。「 実際に観られているにせよ、たんに頭で想像しているにせよ、つねに観客のことを考えなくてはいけないわね。それこそ、わたしが誇りとする職業のいちばん肝腎な規則なのよ 」「 どっちの? 」と、新たに強く一発打ちこみながら男が訊く。「 わたしを傷つけようとして、淫売であることを思いだせようというのなら、淫売も女優の力量をあらわす役柄のひとつにすぎないことを分からせてあげるわ。それより、自分の雄鶏 ( コック ) のことを考えなさいな。いまにもへなへな崩れそうよ 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.213~214

 

■ 快楽のあまり、演技を捨て本気になったしまったユゴーに、ミリアムは自分たちの性行為が監視・記録されている事を告げ、一気に冷めさせ、主導権を奪い返す。 

 

 「 ばかなことをいうのはやめて、その場を動かないで、わたしを待ってるのよ。もう知っておいたほうがいいと思うけれど、サラ・サンドの契房には、たくさんのマイクやカメラがおもに長椅子に向けて備えつけてあるの。あなたがここに入ってからの行動はすべて記録され、監視され、聴取されているから、どんな代償でもあなたに要求できるでしょうね 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.221

 

  彼は従った。もはや友情が期待できないというのなら、この女が自分の頭を持ち上げて下にクッションを入れたのは、名残りの愛のためか? 男はそう考えたが、幻想はすぐに破れた、なぜなら女が彼を跨いで、じかに馬乗りになり、顔に全体重をかけて、体を前後に動かしながら、自転車をこぐように背を丸め、彼の腹と腿の上で指の剣を踊らせ、触れあわせて音を立て、最初は男の自負心をくすぐったのだが、すぐに男は平静さを失うことになったからだ。「 さあ 」と女は迫る。「 口を開けて、舌を出して、菊座をお舐め。その格好なら、いちばんお得意の演目でしょう 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.225

 

  それから女は我を忘れて、激しく動きまわったが、男の全身の無力と好対照の狂ったような身ぶりは、私設の見世物小屋で取りまき連中とともに彼らを観察するサラ・サンドのモニターへの効果を狙ったものにちがいあるまい、とこの最悪の事態に翻弄されるがままになりながら、男は考えていた。  

 

『 すべては消えゆく 』 p.229

 

 


 しかし、なぜ性行為の快楽に溺れたユゴーは、その結末で、メリエム殺しの犯人として捕まらなければならなかったのでしょう。思い起こすべきは、ミリアムとの売春演劇に基づいた幻想世界は、あくまでも演劇、つまり、人間の日常的振舞い ( この場合は性行為 ) の "再演" に過ぎず、自分と距離を取るための "形式化" に他ならないという事です。

 

■ 我を忘れて、性行為に没頭してしまっては、自分と再び癒着する事になり、自分を、いや、人間の存在を客観的に反省する契機としての演劇世界を台無しにしてしまう のですね。ミリアムはそのようなユゴーを性行為の最中にありながらも冷静に見ていた。

 

  「 わたしの肉体に関しては 」と、ミリアムはわずかに不安をそそるような笑みを浮かべ、命じられた姿勢を取りながらいう。「 わたしは自分から脱けでたように、自分の意志を捨てて、あなたの意志のまま、でも、あなたの要求する戯れを演じているときわたしの外へ出てしまうもの、つまり、ほかの人たちが魂と呼ぶはずのわたしの思考は、あなたが唸り、喘ぎながら奮闘しているあいだ、高みからあなたを見下ろすこともできれば、花咲くアイリスや、わたしの目の青と競って宙で羽ばたく大きな蝶のなかに紛れ込んでしまうこともできるのよ。だとしたら、無条件で譲られたわたしの肉体をあなたが自分の持ち時間だけ自由にしているあいだ、わたしの思考がこの部屋を出て、まさにその粗野な男らしさのせいであなたがけっして入ることのできないもっと快い場所へと行かないはずがないでしょう? だから、あなたの望むかぎり、あなたのできるかぎり、なんでも好きなようになさい。たとえわたしがこの部屋から脱けだしても、わたしの肉の享楽と、あなたの体の享楽を許されたものは、おそらくわたしの肉のなかに残り続けるわ。でも、でも、あなたがわたしの肉から引きだす虚栄は、芝居がはねたあとはもうほとんど続かないし、人間を弄ぶ戯れのつねとして、あなたはまた悲しみに落ちこむことになるでしょうね 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.210~211

 

■ 肉体と魂 …… この組み合わせは、ある種の神秘主義を連想させます。しかし、魂が肉体から離脱するという描写から、即座に肉体、あるいは肉欲の否定という帰結をマンディアルグに求めるのは性急すぎるでしょう。詳細に読み解くのならば、マンディアルグは、肉欲の否定を訴えるのではなく、"魂の複数性"、いや、もっと率直に言うのなら、"魂の乱交性" というモチーフに関心が向かっているのですね。

 

■ ただし、この乱交性とは、肉欲的な快楽に結びつくものではありません。ひとつの肉体にひとつの魂が閉じ込められているという拘束性から、魂を解き放ち、魂は他の魂と混じりうるという複数性 に至る乱交なのですね。この複数性は、主体に課せられた人格的同一性という紋切型を打ち崩し、主体に "多様性という強度" をもたらすもの なのです ( *G )。

 

  サロメの義父の名前を聞けば 」とユゴー、「 ヨルダン河のことが心に浮かび、この川を思えば、彼女の娘時代の夢想に誘われる …… 。いったい君はだれなのだ? 私を固い牢獄に閉じこめることになるこの一幕が終わる前に教えてはもらえないのか? 」「『 屍 』を閉じこめることのない『 墓 』、『 墓 』に閉じこめられることのない『 屍 』、自分自身の『 墓 』でもある『 屍 』」女はそれらの名詞の最初の音節を強く発音しながら答え、目はまばゆい黄金の坩堝と化していた。「 『 ボローニャの石 』だ 」ユゴー・アルノルドは語るというより叫ぶ …… 。「 消え去りつつある碑銘の最期の部分、『 石 』のことに通じている数少ないボローニャの住人のひとりから来た最新の連絡で知ったことだ …… 。男でもなく、女でもない、両性具有でも、娘でも、若者でも、老婆でも、貞女でも、娼婦でも、淑女でもなく、しかし、いうまでもなく、そのすべてを合わせたもの、それは君そのもの、あらゆる時代のニンフだ。だから、君を、私を、どうとでも君の望むようにしてくれ。君が決めたすべてを合わせたものにしてくれ 」  

 

『 すべては消えゆく 』 p.271~272

 

■ ユゴーが手荒い仕打ちを受けるのは、まさに彼の人格的同一性ゆえだという事が分かりますね。ラストにおいてユゴーは、自ら命を絶ったかのように見えるメリエム殺しの容疑で警察に捕まるのですが、その後は、すべては消え去り、彼の魂はメリエムと混ざり合ったかもしれないという妄想を付け加えておきましょう〈 終 〉。

 

 

( G )

■ 現代思想に詳しい方なら、以上の説明からフランスの思想家 ピエール・クロソウスキー ( 1905~2001 ) の『 バフォメット ( 1965 ) 』をすぐに思い出すはず。形而上学的ポルノグラフィーと称されるその小説は、中世のフィリップ4世の顧問ギョーム・ド・ノガレの企みによって処刑されたテンプル騎士団員とその首領ジャック・ド・モレ-たちの霊が混じり合い、変容し、回帰してくる物語ですが、それはクロソウスキー自身のニーチェ解釈 ( 永遠回帰 ) を下敷きにした新たなる『 ツァラトゥストラ 』といえるものです。邦訳の『 バフォメット 』の訳者解説で小島俊明は、ドゥルーズの賛辞文と共に、マンディアルグのそれも紹介していますね。

 


すばらしい創意、すばらしい想像力! 読み始めるや否や別の世界へ連れ去られてしまう。これはクロソウスキーの最高傑作だ。クロソウスキーはとりわけ両極端を好む。恐らくかれは、片足を神学校に、もう一方の足を淫売宿に入れることを今後も決して止めはしまい。 -アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ ( フィガロ・リテレール誌 )  

 

『 バフォメット 』ピエール・クロソウスキー 著 / 小島俊明 訳 ぺヨトル工房 1985年 p.238~239