〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ヒッチコックの映画『 白い恐怖 ( 1945 ) 』を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

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監督  アルフレッド・ヒッチコック
公開  1945年
出演  イングリッド・バーグマン  ( コンスタンス・ピーターソン 役 )
    グレゴリー・ペック     ( ジョン・バランタイン 役 )
    レオ・G・キャロル      ( マーチソン院長 役 )
    マイケル・チェーホフ    ( アレックス・ブルロフ博士 役 )

 

 

 

 『 白い恐怖 』、もう70年以上前に公開されたこの作品は、精神分析、夢の場面におけるサルバドール・ダリの美術協力、などの視点で語られる事が多かった。『 白い恐怖 』という邦題もそのような見方に拍車をかけていた。しかし、邦題とは全く違う原題の『 Spellbound 』を考慮すると、別の見方をそろそろすべきかもしれません。Spellbound …… 魅了された、うっとりした、という受動的ニュアンスのこの形容詞は、ここでは名詞的用法として『 魅了されたもの 』と解釈出来るでしょう ( A )。

 

 問題なのは、そう解釈すると、『 魅了されたもの 』とは一体何に対してそういう状態になっているのかという事です。映画を冒頭から素直に観れば、これは コンスタンス ( イングリッド・バーグマン ) が素性の怪しいジョン・バランタイン ( グレゴリー・ペック ) に魅了される、つまり、一目惚れするという話であることが分かりますね。 

 

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 実はジョン・バランタインはある事件で記憶喪失となり、精神病院を退任するマーチソン院長の後任となるエドワード博士に成り代わって訪れていた。彼がエドワード本人ではないことにコンスタンスは気付く ( 2 )。記憶を "不完全に" 思い出すジョン。自分がエドワードを殺したと打ち明ける ( 3~7 )。

 

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 ここで大切なのは、ジョンという男がエドワードに成りすましているという事実しか分からないのに、コンスタンスのジョンを好きな気持ちは揺るがない という事です。彼女に迷惑をかけられないと姿を消したのに、コンスタンスはわざわざ彼を追いかけていく程なのです ( 15~17 )。これを、盲目の愛が最後には真実の愛になるなどという映画におけるラブロマンスのよくある一例に過ぎないと見過ごしては、この作品を今までとは違うように解釈出来なくなってしまう。それについては次で考えましょう。

 

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( A )

Spellbound 』…… このタイトルは、ヒッチコックに詳しい人ならば、ヒッチコックのスキャンダラスな性的側面を明らかにしたドナルド・スポトーの "いわくつき" の本『 Spellbound by Beauty : Alfred Hitchcock and His Leading Ladies  / 美しさの虜 : ヒッチコックと彼の主演女優たち ( 2008 ) 』〈 未邦訳 〉を思い起こさせるでしょう。言うまでもなく、この本のタイトルはヒッチコックの『 白い恐怖 / Spellbound 』から採られているのですが、それはここの記事での考察とは違い、ヒッチコック自身が主演女優たちの美しさに性的に魅せられてしまっていたというスキャンダル性へと読者の読み方を誘導するものになっている。

 

スポトーのその本においては、ヒッチコックの『 鳥 ( 1963 ) 』( B )、『 マーニー ( 1964 ) 』に出演した ティッピ・ヘドレン によるヒッチコックからのセクハラ行為の告白が記述されているのですが、それを基にしたTV映画 ( 『 The Girl 』) が HBO、BBC、WOWWOW、などで 2012年には放送されている。ただし、その信憑性には問題があり、『 めまい / Vertigo ( 1958 ) 』( C ) に出演した キム・ノヴァク はイギリスのデイリー・テレグラフにおいて、ヘドレンの発言をはっきり否定こそしないが、ヒッチコックのそのような振舞いは見たことがないし、彼のことをそう言う人たちを残念に思うと言っている。つまり、彼女は、ヒッチコックを優れた作品とは裏腹の怪しい人物像に仕立て上げようとする風潮に疑義を呈している訳ですね。

 

(B ) 

『 鳥 ( 1963 ) 』については次を参照。

 

( C ) 『 めまい / Vertigo ( 1958 ) 』については次を参照。

 

 

 

 コンスタンスは記憶を失ったジョンを精神分析することによって、彼を助けようとする。もちろん、この助けると言う行為の根底には、ジョンがエドワードを殺していない、彼は無実だ、という根拠のない信用があるのは言うまでもありません。ここでコンスタンスが持ち出すのが、子供時代のトラウマという偏倚的な精神分析理論です。偏倚というのは、トラウマという概念が、子供時代の経験の最初の純粋な衝撃であるのか、それとも当時の経験を後から遡及的に再構成しよう ( トラウマとして ) とする隠された意志による自己正当化のための構築物であるのか、の見極めが難しいからです。

 

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 ここでは、ジョンの子供時代の偶然の事故による弟の死を自分の責任として、つまり、弟を殺したのは、結局、自分だという "罪悪感" を形成するものとしてのトラウマがあったと素朴に推測されています ( もちろん、これを全く逆に、ジョンに弟を殺す悪意があったと解釈する事も出来るのですが ) ( D )。この罪悪感は物語の冒頭でも示唆されていて、エドワード博士の主著『 罪悪感の形成 』が写されている。

 

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( D ) 

このような少年を悪の象徴として描くのが以下の映画。

 

 

 

 ジョンのトラウマである弟を死なせてしまった罪悪感 …… 一見すると、この精神分析的視点は隠れた真実を暴き出しているかのように思えるかもしれません。しかし、この作品を観た人ならば、この場を支配しているのはジョンではなく、得体の知れなかった彼を無条件に信用し続けたコンスタンスであるのが分かりますね。このコンスタンスの振舞いこそ、この作品の真実なのです。

 

 この真実に触れる前に、まずヒッチコック"欲望" について考えておきましょう。1章でこの作品の原題『 Spellbound 』を『 魅了されたもの 』と解釈出来ると言いました。既にここにヒッチコックの欲望が示されている。ジョンに一目惚れし 無条件の愛 を捧げるコンスタンに、ヒッチコック"崇高なもの" を重ね合わせ、欲望の対象としているのです。

 

 『 魅了されたもの 』と『 崇高なもの 』、この両者に基盤である "もの" は、女性という "対象"精神分析における昇華作用を受ける事で出現する。この "もの" とは一体何なのでしょう。それを考えるためには昇華について知る必要があるのですが、通常、昇華とは性的衝動を抑圧するのではなく、社会的・文化的なものへと向かわせる事だというのはよく知られた話です。

 

 しかし、奇妙な事に、性的衝動という数量化・画定化を施し得ない波のようなイメージでしかないものを、対象というひとつのものに収斂させる作用を、当然であるかのように受け入れられているのは疑問に思うべきです。誰が一体そのような結びつきを為し得るというのでしょう。誰が性衝動を、どれだけを対象に注ぎ込めば昇華の成功といえるのか測定出来るのでしょう。半分? 全て? いや、それは不可能な話です。この性的衝動を対象に向ける事の困難の乗り越えは、"ものというひとつの一者" の出現なしにはあり得ません。性衝動の主体にも、対象にも共通する基盤としてのものこそが、昇華を可能にする。この "一者" の主体的形象が "もの" なのです

 

 どこまでも広がる海のように自らを境界画定出来ない性的衝動の中に出現する "もの"。性的衝動の海の中にぽっかりと空いた穴の中に注ぎ込まれる衝動の渦の中で "もの" はそれを受け止め形作ろうとして姿を現す。この地上における性的衝動及びその根源である欲動の充満はそれだけでは何も起きません。その充満が外部に向かおうとする時に発生する "裂化" の中から "もの" は出現するのです。

 

 この時、一者は数量化出来ない性衝動の全体を止揚する大文字の "数字的形象" として "もの" となる。この事の意味とは、ものとはそれに先立つ実体に対応する写像などではなく、生物の存在に先立つ欲動の狂った世界を止揚 "特異点としての一者" である という事です。そうすると、昇華とは、主体による性的衝動の社会的具現化である以前に、主体が存在している時点で "既に" 主体を支える基盤において構造的に為されていたという事になりますね。

 

 以上にように考えなければ、ジャック・ラカンが「 昇華は対象をものの尊厳にまで高める 」( E ) と言う時の、"ものの尊厳" はほとんど意味が理解出来ないでしょう。主体が、世界という象徴界が閉じられていない不完全性によって引き起こされる特異点的な空虚であるのと同様に、いやそれ以前に、"もの" とは欲動の世界における裂開という現象が引き起こす "一者の形象化" であるが故の主体の根源となっている。

 

 ものが "一者" であるとは、ものが世界の中で自分自身に与える存在論的地位を確定させるのに必要な原初の知的行為、つまり、自分は1人で世界に向かい合う、自分は全体を止揚するひとつである、という自らの "数字的形象化"、こそがもの自体の尊厳を生み出している という事なのです。部分的形象化それ自体は全体を止揚する偶然の現象なのですが、それは部分の全体からの離脱であるのと同時に、部分の存在によって全体を浮かび上がらせる境界画定的効果も引き起こす ( なので、ある意味では、部分は既にそれ自体が全体の縮小的形象化ともいえる )。

 

 以上の事を踏まえると "昇華 / 崇高" とは、下方においてそこに留まろうとする停滞性を越えて、欲動という下方世界においても、他者が知らない、誰も見ていない、その下方世界においても、下方を乗り越えようとする志向性、自分は一者であるという尊厳、を保持する事こそが崇高に他ならない という事です。

 

 おそらくはこれこそが頻繁に議論されてきた "昇華 ( sublimation ) / 崇高 ( sublime )" の語形論の舞台裏で作用している事のひとつなのです。sublimesublimitsubliminal、等これらの "限界・閾 ( limit )" のさらに " ( sub )" という連なる下方要素を考慮すると、第一義的には、よくある精神分析的理解における性衝動という下方から社会という上方への実在的移動ではなく、下方 ( 欲動が渦巻く世界 ) を超克しようという "意志 / 狂気が形象化されたもの ( The thing )" が上方ではなく "下方自体" において出現したという事こそが "崇高 ( The sublime )" なのだと言うべきでしょう。一者 ( Oneness ) は形象化され、"ひとつのもの ( the One ) という神聖さ" から、"物事 ( the Thing ) という普遍的な尊厳 / 崇高" へと至る のです。

 

 誰も知らなくとも、自分は既にひとつであるし、誰に承認・認知されなくとも、自分はひとつのものとしての一者である事は揺るがない。この "ものそれ自体 ( Thing in itself )" が既に根源的な崇高であり、主体を揺るぎない信念・信仰といったイデオロギーの崇高な対象 ( The sublime object of ideology ) へと駆り立てる契機となっている のです。それは周りに何と言われようが、ジョンへの愛を持ち続けたコンスタンスの振舞いに他なりません。

 

( E )

ここで語呂合わせというのは、ラカンの使うフランス語での〈 もの / la Chose 〉が、参照元フロイトが使うドイツ語では〈 もの / das Ding 〉であり、〈 尊厳 / dignité 〉と掛けられているということ。

昇華に関して皆さんに示すことのできる最も普遍的な定式は、昇華は対象を引き上げる、です。どこへ引きあげるのでしょう。ここで語呂合わせを許していただくと、昇華は対象を〈 もの 〉という尊厳 ( dignité ) にまで引き上げるのです。

 

精神分析の倫理  ( 上 ) 』 ジャック・ラカン / 著 ジャック=アラン・ミレール / 編 小出裕之、鈴木國文、保科正章、菅原誠一 / 訳 岩波書店 p.167

 

 

 

 『 Spellbound / 魅了されたもの 』というこの作品のタイトルは、ヒッチコックの女性に対する幻想 ( ファンタスム ) に浸食されていて、こうあって欲しいという男性中心主義的な欲望が溶け込んだものである事は否定できません。しかし、それは同時に "女性というもの" が男の思い通りにはならない畏怖すべき "崇高なもの" であるのをヒッチコックが無意識的に知っていた からだと解釈出来るでしょう。だから彼の作品においては女性に対する幻想が違う形で執拗に描かれるのですが、この作品におけるような "女性に対する崇高な幻想" は、やがて "母なるものへの畏怖" に取って代わられてしまう。

 

 ここでいう "母なるもの" とは現実の母と呼ばれる人間のことではなく、"女性というもの" に対する、崇高な幻想ではもう理解出来ないというヒッチコック固執の末に現れた女性の象徴なのだと理解すべきものです。この母なるものへの畏怖は『 サイコ 』、『 鳥 』、『 マーニー 』において顕著に表れていて、このことは以前の作品から窺がえます。それは ヒッチコックの映画における女性は母なるものへと向かうべく運命づけられていた とも解釈できるものであり、ヒロインのファーストネームに共通するイニシャルの "M" ( 言うまでもなくそれは "母なるもの Mother" を示す ) によって導かれているのです。このことを『 ヒッチコックによるラカン 映画的欲望の経済 』において ズデンコ・ヴォードウヘッツ が、担当した『 マーニー 』の章で上手く説明しているので引用しておきましょう。

 

同様にして、彼女は絶えず名を変える。保険証だけでも、少なくとも四つの名が確かめられる。どれもイニシャルが M で始める名 ― マリオン、マーガレット、マーサ、メアリー。このイニシャルは他のヒッチコック映画のヒロインに与えられたファースト・ネームに少なからず共通している。マデリン (『 めまい 』)、ミリアム (『 見知らぬ乗客 』)、マーゴ (『 ダイヤルMを廻せ 』)、マリオン (『 サイコ 』)、メラニー (『 鳥 』)、といった具合である。このうち、マーニーとの関係で、最後の二つの名が注意を引く。マリオン、メラニー、マーニー、という三つの名はどれも死と母を、死を招く母を想起させるからだ。

 

ヒッチコックによるラカン 』監修・スラヴォイ・ジジェク 訳・露崎俊和 他 TREVILLE p.329

これらヒロインの名に共通する M という文字は超自我としての母へと送付される。

 

前掲書 p.330

 

 ここで、母なる超自我という観点からヒッチコックのその後の作品を眺めるのも興味深いかもしれません。というのも『 マーニー 』以後 ヒッチコックは母なる超自我への固執から撤退してしまった 事は明らかだからです ( それと共に以後の作品の評価が低くなっていく )。これを決着を付けたが故の満足と見るか、それとも納得はしていないがこれ以上描いても仕方ないと諦めたのか、は微妙な所なのですが、いずれにせよヒッチコックの興味が別の方に向かったのは間違いないでしょう。しかし、1章の ( A ) で述べたように、『 鳥 』、『 マーニー 』のヒロインだったティッピ・ヘドレンが近年ヒッチコックのセクハラを告発したのは、ヒッチコックの予想を越えて、母なる超自我がいかに強力なものなのかを示しているといえるでしょう〈 終 〉。