〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 『 対談: 國分功一郎 × 若林正恭 真犯人を捜して生きている 』

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雑誌 文學界 2021年3月号の対談:國分功一郎 × 若林正恭 『 真犯人を捜して生きている 』p118 ~135. から

 

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 1. スピノザの事を考えるお笑い芸人

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a. 若林正恭の『 表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 』、『 ナナメの夕暮れ 』を読んだことのある人でも、この文學界での対談を読んだ人は少ないかもしれません。お笑い芸人と哲学者の対談? 何か難しそうだなあと読みもせずに敬遠する人は放っておいて ( そもそもそういう人は文學界のような雑誌を読む気もないでしょうから ) 、哲学者と芸人の対談が成立している事の面白さを楽しむべきでしょう。


 

( 國分 ) 若林さんがキューバやモンゴルへの旅を綴った紀行本『 表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 』は本当に面白くて、たくさん傍線を引いてしまいました。大変失礼ながら、東京の都会の生活に疲れてキューバを目指すって、それだけ聞くとよくあるパターンに思えます。でも若林さんは、根本的なところに猛烈な知識欲があるんですよね。疲れたから逃げてたくてというじゃなくて、知りたい、わかりたいという欲望があの本を貫いている。いまも東大の院生の人に家庭教師をしてもらっていることを綴った一節にもそれがあらわれていますよね。

( 若林 ) その家庭教師に、國分さんの『 中動態の世界 』をわかりやすく解説してもらったんですよ。僕は文法ということがまったくわからない人で、主語と述語もよくわからない。『 中動態の世界 』は二回読んだんですが、二回とも意味がわからくて、東大の家庭教師に図解してもらったりして。それから國分さんの本をざーっと読ませてもらったんです。

( 國分 ) 『 中動態の世界 』を最初に読んでいただいたんですか? それは驚きです。そういう出会いだったのか。

 

p.120

 

 

( 若林 ) 『 中動態の世界 』のスピノザのところで、欲望について書かれているじゃないですか。僕は、欲望が勝手に出てくるという考え方と出会ってすごく楽になったんです。芸人だからネタをつくるんですけどそこに努力しているとか頑張っているという感覚はあまりないんですね。笑わせたいという欲望が勝手に出てくるから、それに従っているだけであって、誰かに褒めてもらいたいことでもなんでもない。文章もなぜ書いているかわかんなくて、出版するときにいちばん困るのが「 誰に読んでもらいたいですか?」という質問で。「 ねーな、正直 」と思ってたし。でも、スピノザの欲望という考え方に出会って、いろんなことに説明がついたんです。

 

p.120~121


 

b. 対談の冒頭を読んでスピノザについて語るお笑い芸人なんて聞いたことないよってツッコミたくなったのですが、それすら下らないことだなって以下を読み進んでいくうちに思いましたね。お笑い芸人が物事をお笑いに昇華させるという意味で色々考えているというような通俗的な視点を越えて、彼は "考えるという行為自体" に取り憑かれている、それこそが彼のお笑い以前の人間の根底である、という事が対談から読み取れるのです。笑わせるために何かを考えるという行為が必要になったというよりかは、物事を真面目に、深刻に考えるという行為自体が彼の存在のアイデンティティの一部となっていて、彼にとって笑いというのは、そのような考える行為につきまとう憂鬱さ・自己閉塞感などの "否定性" を外に解き放つための技術として獲得されていったのではないか と解釈したくなるくらいです。いや、そうでなければ國分の『 中動態の世界 』をお笑い芸人が読むなんて普通では考えられませんからね。

 

c. この対談を読んで、若林がスピノザを理解できるはずがない、とかそもそも國分がスピノザの事をよく分かってないとか、そこで話されているのは哲学的思考ではない、などと冷笑的に思う哲学専門家がいるとしたら、思い上がりも甚だしいと言うべきです。たしかにこの対談は哲学に特化されたものではないですが、そんなことは問題ではありません。人が何かを考え始める時、デカルトのコギト ( 我思う、故に我在り ) を意識して考えるわけではないし、諸々の哲学的概念を知っていなくとも、自分が思考行為を担う主体である事には間違いないのです。哲学概念や哲学史などは、自分の思考の客観性を図るための指標でしかありません。

 

d. 大切なのは、自分の思考の世界を捨てて、より広大な哲学の世界に飛び込むことではなく、自分の世界の中に哲学の世界における思考や概念をどうにかして "落とし込む事" なのです。それによって無自覚だった自分の存在や自分の世界が、"自分自身" に対していかなる姿をとっているのか、いかなる意味をもつのか、を知る事が出来る。それが哲学や思想などの外部を自分の中で "消化 / 昇華" させる事に繋がり、自分を成長させる事になる のです。

 

e. その意味で、面倒くさい、ひねくれ、人見知り、などの初期 ( 2020年代の安定した現在周辺を中期と見ればの話し ) の若林のキャラが、彼の存在の原型である "考える事の沼" にどっぷり浸っていた結果であるとするならば、現在の他人とのコミュニケーションを積極的に図る振舞いは、外部を通じて自分自身に反省的 ( 道徳的ではなくヘーゲル的な意味での ) に関わる主体へと変化していると分析できるでしょう。僕なんか、この対談を読み終えて、彼のTVとは違う姿を垣間見たというよりかは、それこそ『 あちこちオードリー 』( テレビ東京 ) の延長というか、真面目ヴァージョン ( 対談相手が芸人から哲学者に代わっただけ ) のように思えてTVと同じように若林が楽しんでいるなあと思いましたね。

 

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 2. 対談という形式について

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a. 以下のシークエンスの内容についてはそれぞれで考え頂くとして、若林が上手いなと思うのは、対談の流れから國分のいくつかの著書に言及してみたりとか、浮いている人を白い目で見るという箇所でお笑い界での経験談をさらっと語ったり ( ここでは長いので中略化してます ) して、対談が自然に流れてるかのように進行させているところです。この対談で語られる若林のエピソードは他所で聞いたことがあるものがあったりするのですが、その差し込み方が自然すぎて國分に対して、この場を回しているのが若林だということなんか微塵も感じさせていないのではないかと思えます。これは彼がそういう能力に秀でているなどという持ち上げではなく、そのようなテクニックは、相手の話をちゃんと聞こうとする姿勢から来ている、細かく言うと、人の話の中には自分自身について考えさせる何かがある ( 話し手の意図とは別に ) のを無意識的に知っているという事なのです。自分自身を知ろうとする人は、相手の話を聞く事が出来る ( その内容を受け入れるかどうかは別の話になりますが ) のですね。実際、オードーリーのTV番組には『 あちこちオードリー ( テレビ東京 ) 』、『 しくじり先生 俺みたいになるな!! ( テレビ朝日 ) 』、『 激レアさんをつれてきた。( テレビ朝日 ) 』、『 オードリーさん、ぜひ会って欲しい人がいるんです! ( 中京テレビ ) 』、などのゲストの話を聞くという形式のTV番組が多いですし。

 

 

( 若林 ) 僕がすごく気になっているのが、Twitter のような SNS 上に誹謗中傷があふれていることです。人を自殺にまで追い込んでしまうこともある。なぜ、そこまでして人を攻撃したいのか、よくわからないんです。

( 國分 ) 基本にあるのはねたみという感情だと思います。ねたみって、人間が持っている一番強い感情かもしれません。たとえば、革命もねたみで起こるわけです。一部の人間だけが得をしているのはおかしいってことですから。スピノザが非常に構造的にねたみを分析しているんですね。ねたみの根っこには、他人と自分は同等なはずだという意識がある。だから、自分が同等だと思っていた人間が優遇されたり、活躍したりすると、「 なんであいつだけ …… 」とねたみの感情に襲われる〈 中略 〉。

( 若林 ) 比較するのは難しいかもしれませんが、人類の歴史から考えて、現代の日本はねたみが生まれやすい状態なんですかね。

( 國分 ) 昔の人はうまいことを言うと思うんですが、やっぱり「 貧すれば鈍する 」という言葉で説明できるところは大きいんじゃないでしょうか。経済的に苦しくなると、ねたみが生まれやすい。

( 若林 ) 格差社会ってことですか。

( 國分 ) ええ。経済的条件があると思いますね。いろいろと苦しいからこそ、「 他の連中も自分と同じはずだ 」と強く思っている。そう強く思っているから、優遇された人間に強くねたみもする。

( 若林 ) たしかに國分さんの『 暇と退屈の倫理学 』では、ブッシュマンのような狩猟民は、食料を平等に分配するということが書かれていましたね。さらにブッシュマンは過度の賞賛を求めないというくだりが衝撃的で。自分が獲ってきたきた食料を分け与えるのに、賞賛を求めないなんて信じられないんですよ。

 

p.124

 

 

( 若林 ) 変化といえば、僕は二一歳のときに芸人の世界に入って、もう二十年たちますけど、お客さんの引くスピードがすごく早くなりました。まず、手を上げたらガンと引く。見た目や美醜のネタもすぐ引きます。ただその一方で、浮いていることを嘲笑する風潮も強まっている気がするんですね。〈 中略 〉。そうやって浮いている人を白い目で見るのは、若い人に多い気がします。中二病という言葉もここまで浸透しているし。〈 中略 〉。そういう様子を見ると、日本は多様化する方向に向かっているというけれど、やっぱり村っぽいところが残ってるように思うんです。「 多様性 」とか「 ダイバーシティ 」とか言われているけど、あれは「 差別をしちゃいけません 」ということをみんなが共有しているだけで、多様なものを認めているわけじゃないんですよね。

( 國分 ) いまのは太文字にしたいぐらい、すごくいい指摘ですね。そうなんですよ、「 差別はダメ 」というのが共有されているだけで、多様なものが受け入れられているわけじゃない。SNS のことですけど、やはり鬱憤ということを考えますね。徳や価値観は時代によって大きく変化するけれど、同じ人間だから鬱憤が溜まるのはあまり変わらないんじゃないか。そうすると、その鬱憤を晴らす機会が以前とは変わってきていて、かつては考えられなかった方法で鬱憤晴らしが行われているということはありえますね。

 

p.125~126

 

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 3. 孤独であること

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( 若林 ) キューバやモンゴルに行って思ったのは、承認欲求と所属の欲求の両輪があるとして、その二つが同じくらいのサイズだと人は安定するのかなということです。いままでの僕は、承認欲求のタイヤがめちゃくちゃデカくて、所属の欲求不満が強かったんですが、同じような走り方をしている人が多いんじゃないかという気がしています。たとえば Instagram で、フォロワーが何十万いても、夜は孤独になってしまう。そういう感じの人はけっこういるんじゃないでしょうか。哲学って、そういう所属の欲求というか、仲間の意味に対してはけっこう研究は積み重なっているんですか。

( 國分 ) 承認ついてはそれこそヘーゲルから始まる研究の伝統があります。でも、若林さんが承認と所属や仲間の問題を分けられたのは非常に鋭くて、他者から承認されることと、何かに所属したり、誰かと仲間になることって全然違いますよね。承認というのはやはりどこか独りぼっちなんですね。そして、やっぱり哲学には一人で考えるというのが基本にある。だから、さきほど言ったように、哲学は仲間みたいな関係についてはあまり考えてきていないと思います。

( 若林 ) それも興味深いですよ。思索ってひとりのものなんですか。

( 國分 ) そこが大問題なんですよ。若林さんの文章は、自問自答を台詞のかたちでよく書いてますよね。あれは素直な感覚として、自分の中で対話している感じがあるということですよね。

( 若林 ) そうですね。ずっと、自分としゃべっているような人間なんです。

 

p.132

  

 

( 若林 ) 『 暇と退屈の倫理学 』の終わり近くの、「 人間というものは、いったい誰かと一緒にいたいと願うものなのか、そうでないのか?」というくだりがを読んで、自分が見た一番好きな映画より感動したんです。〈 中略 〉。

 

p.132

 

 

( 國分 ) 寂しさについても最近ずっと考えていて、いつも参考にしているのが、先程も名前を出したハンナ・アレントなんですね。彼女は、「 孤独 solitude 」と「 寂しさ loneliness 」は違うと言っています。孤独とは私が私自身と一緒にいること。さきほど、ものを考えるのは自分自身との対話だと言いましたけれども、人は孤独の中で自分自身と一緒にいるからこそ、自分自身と対話できる。つまり孤独であることはものを考える上での必要条件なんですね。その意味で、人は複数の人間と一緒にいるときにもものを考えるわけだから、他人と一緒にいても孤独というのはありうるわけです。でも、世の中には自分自身と一緒にいられない人がいる。あるいはどんな人も、孤独の中で自分自身と一緒にいることができなくなることがある。そういうときに人が感じているのが、寂しさだとアレントは言っています。〈 中略 〉。

( 若林 ) 自分自身と一緒にいるって面白い表現ですね。メンタルがタフなときは、自分との格闘にもなるじゃないですか。でも、スマホによって自分格闘する時間が奪われている感じもするし、自分と格闘することに抵抗を感じる人もいるでしょうね。なんか中二病っぽくて笑われそうだからと。

( 國分 ) 自分との格闘か。いいですね。

( 若林 ) 自分との格闘だとすると、打たれ強さもあるでしょうね。打たれ強い人は、植物のように揺るがないですよね。

 

p.134

 

a. 若林の "承認と所属" というふたつの欲求の話から國分がヘーゲルの承認論 ( というかヘーゲルを経由したアレクサンドル・コジェーヴの承認論という意味でおそらく國分は話している ) とハンナ・アレントの孤独概念を引き出すのは哲学者らしいのですが、ただここでの若林は國分が思っている以上にラディカルな事を言っていて、アレントにおける哲学的孤独と複数の中で感じる寂しさという常識的区別では到底解消できない事 を訴えているのです。

 

b. 若林がかつてハマっていた "考える事の沼" 、それはまさに彼が語った 承認と所属の相反する両立性の中で生まれた主体の過激な行為である ということまで國分は見抜けていないのかもしれません。若林は別に複数の人間の中での寂しさを感じているわではないし、それどころか 何かに所属している事に意味不明な怒りすら覚えていた ( 現在は違うと思いますが ) といえます ( それが彼のかつて尖っていたことの所以でもある )。だから彼は所属の欲求不満が強かったと言っているのですね。

 

c. この所属の欲求不満の原因を、自分が承認されていない事の不満から来ている ( 多くの人の場合はそうなのですが ) と単純に考えることも出来るのですが、若林の場合は少し話が違うでしょう。もちろん、彼も売れていない若手の頃とかは周囲に認められたいという単純な承認欲求があったと思いますが、そういうのが解消された現在でも、何かに所属している事に対する異和感を持ち続けている。地位的にも経済的にもある程度安定した今でも残る異和感に対してこれは何だろうという無意識的メッセージを対談で発しているのですね。

 

d. この異和感は承認欲求ではないものとしての 考える行為が何かに所属している事の反撥から生まれる という極めて哲学的かつ狂気的起源を示しています。何かに、何処かに所属しているという安心感は周囲に流される "個人" しか生まないが、所属に対する反撥は自分で自分の存在を支えるための考える行為に関わる "主体" を生み出す。それは周囲 ( 家族であれ、学校であれ、職場であれ ) との反撥関係において初めて自分自身である事が出来るというアンビバレントな状況の産物なのです。周囲に反撥するが、周囲がなければ自分である事が出来ない。自分である事に拘るには周囲を必要とする。この難しさが若林の面倒くさいキャラに繋がる事は容易に推測出来ますね。そう考えると、彼は安定した現在でも、かつての自分を切り捨てずに向かい合うという自分自身への誠実さを持っている。もちろん、その誠実さを支えているのが、彼の "考える行為" にあるのは言っておくべきでしょう〈 終 〉。

 

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