ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』 第一次世界大戦と論理哲学論考
■ 著者 : ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
■ 翻訳 : 丸山 空大
■ 解説 : 星川 啓慈・石神 郁馬
■ 発行所 : 春秋社
■ 2016年4月29日 第1刷発行
1章 哲学者の日記
1. ウィトゲンシュタインの代表的著作『 論理哲学論考 』は哲学にそれ程詳しくなくても一度は目を通したことがあるという方もいるでしょう。この著作『 秘密の日記 』が面白いのは、それ ( 『 論理哲学論考 』) に至る "構想" が、ウィトゲンシュタインの研究室や自宅ではなく、彼が従軍した第一次世界大戦での戦中生活において、為されたという事です。
2. この "構想" は元々、日記として書かれたものなのですが、その日記の "一部" はウィトゲンシュタインの遺稿管理人によって1960年に『 日記 1914 -1916 』として出版され、1975年には邦訳全集の第1巻に『 草稿 1914 -1916 』( 奥雅博・訳 ) として収められています。
3. 興味深いのは、この日記全体は、遺稿として公開された部分と公開されなかった部分から成るものであって、その公開基準が遺稿管理人たちの恣意的な判断に委ねられていたという事です。ウィトゲンシュタインに関する学問的探究に役立つであろう部分は公開され、彼の学問的名誉を貶めるかもしれない私生活の赤裸々な告白部分は公開されなかった のです。これについて本書の訳者である丸山空大は次のように解説している。
さて『 秘密の日記 』は、この同じ日記のうち、当初公刊を差し控えられた部分に相当する。公刊された部分とこの秘密にされた部分には幾つかのはっきりとした差異が存在する。まず、前者は基本的に哲学的な事柄をその内容とし、日記帳の見開きの右側の頁に書きこまれている。これに対し、後者は本訳書を見てわかる通りごく私的な事柄をその内容といし、見開きの左側の頁に暗号で書かれている。つまり、ウィトゲンシュタインは ― 少なくとも1916年のある時期に至るまでは ― 、自覚的に1つの日記帳の中に2種類の異なる日記を書き入れていたといえる。このような史料を前にしたとき、遺稿管理人たちはその哲学的な部分のみを公表し、かつ、私的な部分については可能な限り隠匿しようとした。彼らは出版に際して暗号で書かれた左頁に言及しないばかりか、あたかもそのようなものが存在しないかのように振る舞ったのだ。
ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』p.126~127
4. この『 秘密の日記 』の公刊に対して、暗号化されていたのなら、それはウィトゲンシュタインが隠したがっていたという事であり、遺稿管理人たちが隠したのも当然だろうという疑似道徳的正義感による短絡的反応は、丸山の主張により斥けられるでしょう。
注意しなくてはならないのは、これが「 秘密の 」日記であるのは、必ずしもそれが暗号を用いて書かれていたからではない、という点である。確かにウィトゲンシュタインが暗号を用いたのは、他者に読まれないようにするためであった。彼はこれらの日記を従軍中に書いたが、例えばそこに書かれた戦友に対するあけすけな批判や侮辱の言葉を彼らに読まれるわけにはいかなかった。この意味で、確かに暗号は情報を読み取られないようにするために用いられている。
しかし、そもそも、ウィトゲンシュタインはこれらの日記帳のいかなる部分も公刊されることを望んでいなかったのだ。ウィトゲンシュタインは死がさし迫った晩年、自ら書いた様々な原稿類の整理を行った。この結果、遺稿管理人の手に委ねられたものを除いて、「 彼の著作活動の全ての時期に属する、[ 後の著作の ]準備作業をも含んだノート類の大部分は、1950年には彼の命によって破棄された 」。これら3冊の日記帳は、たまたまウィトゲンシュタインの姉の家に保管されたため、破棄を逃れたのである。だからこそ遺稿管理人たちはこの日記帳の哲学的な部分を出版するに際して、殊更に『 論理哲学論考 』の研究の進展のためという目的を添える必要があったのだ。つまり、この意味では本来1960年に公刊された部分も秘密だったのである。
ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』p.127~128
5. さらに丸山は、暗号を使った事の意味を解釈しながら、『 秘密の日記 』の公刊の意義について考えていく。
この暗号というのは極めて簡単に解読できるものであった。そして、イルゼ・ゾマヴィラも指摘するように、ウィトゲンシュタインはこの暗号を他者の目を避けるためだけではなく、しばしば重要な着想を「 急ぎ足のうわべだけの読者がすばやく読んでしまうことから護る 」に用いている。つまり、彼は読者の目から本質を隠すやめだけではなく、読者を選び、その読者の注意を惹くためにもまた暗号を用いたのだ。このことはもちろん、『 秘密の日記 』の内容が全て注意深い読解を要する重要な内容であることを保証する訳ではないが、われわれを次の問いにへと連れ戻す。すなわち、そもそもウィトゲンシュタインは何故、一見するところ書かなくともよいような、もっと言えば書かないほうが良かったのではないかと思われるような内容を、あえて記録したのかとう問いだ。彼は果たして隠したかったのか、それとも露にしたかったのか。
ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』p.128
6. 丸山は考察を進めてウィトゲンシュタインは露にしたいと思っていたとする。僕もそれに同意する。そのためには赤裸々な私生活をスキャンダルなものとして片づけるのではなく、それを哲学的に考える、いや、新たに定義し直す必要があるのですが。哲学と性的なものを交わらせないようにする事こそ、思考するという行為の力を奪ってしまう。性的なものを卑猥で野蛮なだけだと固定させていては、思考の力は失われていく。
この問いに対する答えは単純ではない。ウィトゲンシュタインは1929年の終わりにノートに次のように書いている。「 僕の中の何かが、自分の伝記を書くよう話しかけてくる。そして、確かに、僕は自分の生を一度開け広げ、自分自身の眼前に、そしてまたほかの人々のためにも明瞭にしておきたいと思う 」。そして、実際にこのような内なる声の呼びかけに応じるかのように、彼は1930年の4月に「 いくばくかの勇気なしには、一度とりとも人は自分自身に関するまともな考察を書くことはできない 」という書き出しで、いわゆる『 哲学宗教日記 』を書き始めている。ここからいくつかの文章を抜き出してみたい。「 お前が何なのか暴き出せ 」( 同書74頁 )。「 私の自己叱責的な考察の中で、それでもやはり自分の欠点を自分で見つめるのは素晴らしいことだ、という感覚を抜きにして書かれているものは、ほとんど1つとしてない 」( 同書96頁 )。つまり彼は ― とりわけ明示的には1929年の冬以降 ― 、自分自身の正体を自分に対して、そして他者に対して暴露したいという衝動を抱えていたのだ。
ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』p.128~130
2章 再読の契機
1. この本を読み返してみようと思ったきっかけとなった最近の出来事があるのですが、それは哲学者の千葉雅也の Twitter での呟き ( 2021年1月22日のもの ) とそれに対する炎上です。そこでは〈 男性の自慰 〉と〈 女性の生理 〉が "ある種の対応関係" にあるという事が語られています。曰く、「 男性の射精はできるときにする、しなければしないでいいのだろうという認識は、男性を「 能動的、自由意志のジェンダー 」だと前提する誤りと結びついている。男性には射精切迫に振り回される受動的面が多分にあり、マスターベーションを必要性で捉える方が、ジェンダー対等的見方だと思う 」 というものです。
2. これに対する Twitter 上の多くの否定的反応は、〈 男性の自慰 〉と〈 女性の生理 〉の結びつきの "哲学的意味" を全く考えようとしない ( あるいは考える事が出来ない ) 無理解なものであり、それどころか〈 女性の生理 〉に対する抑圧的言説だという自分の思い込みを投影させた一方的糾弾に終始する有様になりましたね。
3. その他の否定的反応としては、男性と女性を生理現象で結びつけるのなら、排泄でいいではないかという〈 女性の生理 〉を粗末に扱うべきではない的反応、あるいは〈 男性の自慰 〉の対応するのは〈 女性の自慰 〉でなければおかしいだろという極端な短絡的反応、などがありました。
4. 〈 男性の自慰 〉と〈 女性の生理 〉の結びつきの "哲学的意味" については千葉雅也が Twitter 上で考えるヒントを出してくれているのに考えてもらえないのは、彼にとっても残念な事だったでしょう。
"性に関わる自然的な「 そうならざるをえない 」が定期的に訪れるという意味では、女性の生理と男性のマスターベーションには似たところがある ( 2021年1月22日のもの )"
5. 「 そうならざるをえない 」…… この定期的生理現象は、男女の身体が "種の存続という謎の現象" のために構造化されている事に抵抗出来ない事を意味する。そう、男女というふたつの性は、この謎の現象のサイクルが別個に具現化された生き物なのです。種が存続する …… これは当然の出来事ではありません。なぜ種は存続するのか、なぜ種が存続するように構造化されたものとしての2種類の身体が産み出されたのか、この存続の現象の "意味" を説明することは不可能 ( どれだけ生殖機能や遺伝子構造が解析されようとも ) なのであり、それはまさに意味不明な事が現実に起きているというジャック・ラカン的な意味での "現実界" であり、古代的宗教ならば "母なるもの"、人格的宗教ならば "神の摂理" とでも呼ぶべきものであり、哲学的に言うなら "偶然の必然" だと理論化されるものでしょう。
6. その観点からすると、男女を結びつける生理現象は〈 男性の自慰 〉と〈 女性の生理 〉というよりは〈 男性の射精 〉と〈 女性の生理 〉という方が正確かもしれません。しかし、これは〈 男 〉と〈 女 〉の対応関係を "接続、あるいは結合" という概念の方に引っ張り過ぎている。千葉雅也は、もっと、〈 男 〉と〈 女 〉を構造的差異によって切断されていながらも隣接する "離接的2項関係" として状況分析しているかもしれません。つまり、男女がいかに種の存続現象にため構造化された身体を持たされているとはいえ、両者は年がら年中結合している訳ではない。むしろ社会的状況 ( 生活の経済的維持、職業従事、趣味への没頭、政治参加、など ) のため結合しているよりも近くにいながら距離感を持って共存する事の方が多い。
7. どういうことかというと、種の存続のための構造化された身体は、本来、生物学的結合という目的のために差異化された性別を持った はずなのに、社会的状況が各々の身体を、各々の考える性の中に個別化・細分化されるジェンダー的主体として切り離していく 離接的関係に置かれているという事です。この捻じれた関係性はおそらく性的なものを犠牲にして各々の主体の権利を強く主張する方向に社会を進めていくでしょう。
8. そのような状況を踏まえて彼は露骨な〈 男性の射精 〉ではなく、性的衝動をひとつの様式化したもの ( フーコー的意味での ) として〈 男性の自慰 〉という "哲学的表現" を Twitter での前文脈を受けた上で使っている。政治的ジェンダー論が性の暴力を糾弾したり、各々の権利を主張したりする事は間違っていないのですが、それと共に、人間の根源である "性的なもの" が政治的無意識のもとで抑圧される事に千葉雅也は用心をしているのですね ( 抑圧されたものは政治的権力として回帰してくる可能性もある )。だからこそ、哲学的解釈というフィルターを通じて "性的なもの" を考えようとしている訳です。
9. 少し話が長くなりましたが、ここで話した "性的なもの" を踏まえて、次から『 秘密の日記 』についての話に戻りましょう ( 続く )。
■ ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』を読んで考える〈 2 〉 へ続く