〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アラン・ロブ=グリエの映画『 不滅の女 』( 1963 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

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  上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 

 

 

 先程までは、誰かに見られていた男が、今度は窓から何かを見る側になっている ( 26. )。この見る主体と見られる客体の交替は、意味のない美的混乱などではなく、視線の権利視線の唯物論動線、が人間主体の支配を脱して、それ独自の運動として機能している 事を意味する。

 

 つまり、人間が何かを見ていると意識する行為から抜け出てしまう 〈 視線 〉 は、こちらから何らかの対象を見ているにも関わらず、向こうの対象の方がこちらを見る 同一線上の 視線自体に、こちら側の人間は上手く同化出来ない ( 相手が自分を見ているのが分かっても、それはあくまでも自分の立場に固定されている限りの見方でしかない ) という意味で ( この現象は相手側も同じ )、自分にも相手にも属さない 脱属人的物質性 を備えているのです。

 

 ここで起こっているのは、人間とは 視線という唯物論動線 から差異化された存在でしかない事を浮かび上がらせる 人間と物との関係が逆転した形而上学世界の話 であり、これこそがアラン・ロブ=グリエが描きだそうとするものなのですね。

 

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 振り返った男の前には女がいるのですが、女は先程の踊り子の動きを反復するかのような振舞いをして男を魅惑する ( 27~33. )。視線 + 反復 というアラン・ロブ=グリエの定番的記号化が見て取れますね。

 

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 〈 女 〉が実在するのか、しないのか …… 追い求める男 ( 34~37. )。

 

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 夜の街角で偶然見つける ( 38~42. )。

 

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 〈 女 〉の方から話しかけるのですが、このシークエンスで面白いのは、男を連れていこうとする 〈 女 〉の顔は左向き である ( 434447 ) のに対し、男を拒否する〈 女 〉の顔は右向き になっている ( 454648 )。一見支離滅裂に見える〈 女 〉の振舞いは、男の思い通りにならない〈 女 〉の筋の通らなさ を示している。それこそが男を魅了するのですね。

 

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 〈 女 〉が運転する車でのドライブ中、犬を避けて木に激突して〈 女 〉は死ぬ ( 49~53. )。同乗していた男はなぜか生きている。

 

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 さて、ここで〈 女 〉の事故死で以て〈 女 〉が 死 の象徴であると早急に結論付けたくなるのですが、その前に、〈 女 〉が死に至るまでの詳細を考えてみましょう。〈 女 〉が死ぬほどの事故であったのに男は平然としている ( 51. )。このことの精神分析的意味は、まさに男が〈 女 〉を殺したがっていた …… いや、実際に既に殺していたのだ という事です。もちろん、そのシーンはないのですが、それを匂わせているのです。

 

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 自動車事故が助手席の男が故意にハンドルを切った為に起こったと証言する女性のシーンがあるので、その時に、〈 女 〉は死んだのだと思う人もいるでしょうが、以下のシークエンス ( 54~58. ) から分かるように男は 既に 実在の〈 女 〉を殺していた …… イスタンブールに来る前に。いや、殺したからこそ逃げるようにイスタンブールに来たというのが物語の出発点だったという訳です。

 

 そして、なぜイスタンブールだったのか、という事については、1章でも述べたように、そこに〈 女 〉を囲うハーレムを通じての 幻想 を未だ抱いていたからだといえるのです。その 幻想 とは、 を思い通りにする というものです。

 

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 以下の場面で男が女の首を絞めているのが分かりますね ( 55~56. )。むろん、女は死んでいる ( 57. )。男は何らかの事情で女を殺してしまった。おそらく女はその下着姿や 30~33. の場面での振舞いから娼婦ではないかと思われるのですが、一介の教授の手には余る女だったのでしょう。だからこそ男は〈 女 〉をどうにかしたいという幻想を持ち続けたと言えますね。ちなみに首を絞める場面は 12~13. の男が女の首に手を置く場面の反復になっている。

 

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 イスタンブールで男の幻想は終わってしまう、彼の死と共に。間違っても彼は〈 女 〉は思い通りにならない事を、女性の自立性の尊重や道徳的観点から知ったなどという凡庸な結論は避けるべきでしょう。それどころか、彼は〈 女 〉を思い通りにしたのです、ただし殺すことによって。殺すことによってしか を思い通りに出来ない。殺し続けるために女を〈 不死のもの 〉として、〈 女への幻想 〉として、生かしたのです。 

 

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 この幻想は自らの欲望に気付かない男の無知によって支えられているのですが、幻想の横断が男による死の実行であるのなら、そこに死への欲望があるのを知らずにいる事は出来ないのです、無意識的には。男は〈 女 〉が自分を見る視線にこちらからは同化出来ないからといって、〈 女 〉が 〈 死への欲望 〉を告げるものである事を 見ないでおこう としても、無意識は 脱属人的な同一線上の視線 に沿って男に知らしめるのですお前の望んでいるものは 〈 死 〉 と ( 65. )。〈 終 〉

 

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