〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 肉体と幻想・第三話 』( 1943 : directed by ジュリアン・デュヴィヴィエ ) を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 
タイトル   『 肉体と幻想・第三話 』
監督     ジュリアン・デュヴィヴィエ
公開     1943年
出演     シャルル・ボワイエ ( Charles Boyer : 1899~1978 )  ポール・ギャスパー
       バーバラ・スタンウィック ( Barbara Stanwyck : 1907~1990 )  ジョン・スタンリー  / ジョン・テンプルト
       チャールズ・ウィニンガ- ( Charles Winninger : 1884~1969 )  キング・ラマ―

 

 ■  上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 

 

 

 『 肉体と幻想・第二話 』から切れ目なくシンコペーション的に始まる『 肉体と幻想・第三話 』。絞殺した占い師ポジャースを橋から投げ捨てたタイラー ( エドワード・G・ロビンソン ) は警官に負われてサーカス団の宿営地に逃げ込み、そこで捕まる。騒ぎを部屋の中から聞き、駆けつけるギャスパー ( 1~2 )"無言の力" に導かれて殺人を犯したと語るタイラー ( 3~6 )。

 

 

 タイラーの言う彼を殺人主体へと駆り立てた "無言の力" というものが存在するのか、と話すギャスパー ( シャルル・ボワイエ ) と付き人 ( 7~8 )。

 

 

 連行されるタイラー ( 9 )。その背後にある綱渡り師ガスパーが描かれた看板が大きく映し出される ( 10 )。何てことはない場面なのですが、ここでは、タイラーに投げ落とされた死体と落下しする危険と隣り合わせの綱渡り師ガスパーが重ね合わされている。ただし、それは "死の可能性" という点で重なり合っているのであり、"死の実現化" ギャスパーには引き継がれていないのは興味深い。

 

 

 ギャスパーは居眠りしながら自分が綱渡り中に落下しする夢を見る ( 13~16 )。ここで注意すべきは、場面14の女性が落下するガスパーを見て叫ぶというショットです。これはたんに女性がギャスパーを見て叫んでいるという客観的場面ではなく、女性が自分を見ている …… 、自分を見ている女性がいる …… 、事にギャスパーが落下しつつも気づいたのを示す ガスパー視点の主観的場面 なのです ( 14 )。

 

 

 つまり場面14はギャスパーが女性を欲望しているという事だけではなく、ギャスパーの中で 死への恐れ 女性への欲望 が等価的に結びついている事を示している。だから、夢から醒めた後、「 あなたの夢は? 」と付き人から聞かれたギャスパーは率直に「 女だ 」と答えている ( 17~18 )。しかも字幕では「 女だ 」と和らげているのですが実際には「 女とプレイすることだ 」とまで言っている。もっとも、この場合のプレイとは単に性交渉だけではなくサーカスの芸の意味を含ませた言葉遊びではあるのですが。旅続きのサーカス団の生活では、芸をする事は出来ても、特定の女と関係を持ち続ける事は出来ない、という皮肉めいた言葉遊びだという訳です ( 19~20 )。

 

 

 落下の夢を見たギャスパーは綱渡りを最後までやり切る事が出来なくなってしまう ( 21 )。心配する団員たち ( 22 )。サーカス団のオーナー、キング・ラマ― ( チャールズ・ウィニンガ― ) に替え玉を提案される始末 ( 23~28 )。ニューヨーク公演までに決めるように諭される。

 

 

 ニューヨーク行きの船の中で、ギャスパーは夢野の中で見た女性、スタンリーに出会う。突然、声を掛けられ戸惑うスタンリーに対して、ギャスパーは "夢の中で見た女性だ" と言ってしつこく食い下がる。船の中に浸水する程、荒れた海の状況が二人の出会いが通常ではない事を物語っている ( 29~36 )。

 

 

 

 

 ジョンの元から去ろうとするスタンリーに対して、彼女に見てもらいたい一心で恐怖を克服して綱渡りを成功させたギャスパー。ここでの落下への恐怖の克服はスタンリーと一緒に成ろうとする強い気持ちによって成せられたといえるのですが、この考え方では 落下・死への恐れ 女性への欲望 "結びつき" を十分に説明出来ているとはいえません。この結びつきを探るには、ギャスパーが元々、女性に対してアプローチ出来ない男だったのではないか、と考える必要があるでしょう。

 

 ギャスパーはサーカス団の遠征生活故に特定の女性にアプローチ出来なかったのではなく、〈 女性的なるもの 〉という普遍的存在自体に対して畏怖していたが故に、アプローチ出来なかったのだ、とするならば、その畏怖とは 自分の男としての資質を壊すかもしれないという心的不安であった と考える事が出来るでしょう。女性という一般的存在と向かい合うには、ギャスパーは余りにも自分に自信が持てなかった。いや、自信がなかったからこそ、命綱の無い綱渡り師という危険な職業を自己確信の為に選んだのではないか と考えたくなるくらいです。

 

 その命がけの行為を、"どなたかの女性" に見てももらう事によってギャスパーは〈 女性的なるもの 〉という一般的存在に向き合おうとする。だからギャスパーにとってジョン・スタンリーが宝石窃盗犯ジョン・テンプルトンの逃亡中の偽りの姿であった事を知っても何の問題もなかったのです。彼にとっては〈 女性的なるもの 〉が個別の誰に担われようとも構わなかった のですね。

 

 このジョン・スタンリー / ジョン・テンプルトン という一人の女性における二つの姿。一人はギャスパーに対して女性らしくおしとやかに振る舞い、もう一人はギャスパーの知らない所で宝石窃盗という犯罪行為に手を染めるギャスパー以上に粗野な男性的な振舞いをする。この一人の女性における二人格的展開 ヒッチコックの『 めまい 』やルイス・ブニュエルの『 欲望のあいまいな対象 』にも見出されるのであり、その原型ともいえます ( *A )。

 

 

■ しかし、物語の最期で、スタンリーが宝石窃盗犯ジョン・テンプルトンとして警察に捕まり連行される前に、ギャスパーと別れの挨拶を交わす時、2人の間の心的状況はいかなるものへと変貌していたのでしょう。一見感動的なこのラストのシークエンスにおいて、ジョン・テンプルトンは元々、警察の手から逃亡していたはずです。彼女の方もギャスパーに好意を抱いていたのは間違いないのですが、だからこそ、警察に捕まらない為に好意はありながらもギャスパーの元から去るという行動の 利己保身性 が際立つ のです。

 

■ 彼女が真にギャスパーと一緒に成りたがっていたのならば、警察に捕まる前にギャスパーに真相を打ち明け自首していたはずです ( スタンリーは最後までギャスパーに自分が宝石窃盗犯だとは打ち明けなかった )。それが警察に捕まった途端に、ギャスパーの愛情に応えようとするやり取りに走るのは、直前まで逃亡しようとしていた利己保身性と実は何ら変わりがない。自分が刑務所にいる間、待っていて欲しい …… とまで言うのは凄いメンタルです ( 37~40 )。

 

■ だが、これは非難されるような事ではありません。元々、彼女はそういう人間なのですから。問題は、このような彼女の振舞いを受け容れてしまっているギャスパーの方です。表面的には、刑務所から出てくるまでスタンリーを待ち続けようとする彼は極めて男らしい包容力を見せているように観客には思えるし、ギャスパー自身もそう感じているでしょう。

 

■ しかし、最後の最期で追い詰められてギャスパーへの態度を変えたスタンリーの狡猾的な振舞いに翻弄される彼は、綱渡りでは死なずに済んだが、これ以降の人生をスタンリーに捧げる羽目になるという意味で、象徴的に死んだ とも解釈出来るのです。スタンリーが出会った時に、犯罪の告白と自首を選択していたならば、彼女の揺るぎない愛が確信できようといえたのに、彼女はそうしなかった。そしてギャスパーもまた薄々彼女の正体に気付きながらも、その細部を曖昧にして自分の中の〈 女性的なるもの 〉への盲目的欲望 を選択した事で、人生の一部を失う事 になる。

 

■ 以上の解釈は決して穿った見方ではないでしょう。『 肉体と幻想 』の第一部から第三部までの各々の話に潜むジュリアン・デュヴィヴィエによる 運命に翻弄される人間に対するブラックユーモア に気付いたならば、ごく当然の見方だといえるのです〈 終 〉。

 

 

( *A )

ヒッチコックの『 めまい 』とブニュエルの『 欲望のあいまいな対象 』については以下の記事を参照。