初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。
タイトル 『 肉体と幻想 ・第2話 』
監督 ジュリアン・デュヴィヴィエ
公開 1943年
出演 エドワード・G・ロビンソン ( Edward G. Robinson : 1893~1973 ) マーシャル・タイラー
トーマス・ミッチェル ( Thomas Mitchell : 1893~1962 ) セプティマス・ポジャース
C・オーブリー・スミス ( C. Aubrey Smith : 1863~1948 ) 司祭
■ 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。
■ パーティーで手相占い師ポジャース ( トーマス・ミッチェル ) が皆の関心を集める中、弁護士のタイラー ( エドワード・G・ロビンソン ) は占いなど信じないと言う。
「 何らかの力で支配されては まるで操り人形だからさ 」 by タイラー
しかし、占い通りに、その場で女性に求婚されるなどした為、次第に占いを信じるようになる。
「 占いが当たったのかな 」 by タイラー
■ パーティーの席で自分の手相占いの結果を述べることを躊躇ったポジャースの自宅を訪ねるタイラー ( 5 )。手相を見ながら、ポジャースはタイラーに職業が刑事専門の弁護士である事を確認する ( 7 )。手相占いの結果が職業に関係する事だというのですね。それに対し、タイラーは "犯罪に興味はない" と言う ( 8 )。
■ それに対しポジャースは " そうはいかない " としながらも " 知らない方がいい時もある " と言う ( 9~10 )。そう言われて余計に知りたくなるタイラー。
「 いいから言ってみろ 」 by タイラー
「 殺人者 」 by ポジャース
■ 殺人などには興味はないと思いながら自宅に帰るタイラー ( 13 )。しかし、ショーウィンドウに写り込む自分の姿が、タイラーの隠れた本性を具現した別の自分として語り掛けてくる ( *A )。
「 なぜ彼 ( ポジャース ) には分かるのか ( タイラーが殺人者であると ) 」
■ 自宅に戻っても鏡の中の自分が語り掛けてくる、殺人者の本性を剥き出しにして ( 15~16 )。
「 ダメだ 誰かを殺さなければ 。誰を殺せばいいんだ 」
■ もうこの時点でタイラーは手相占いの結果 ( 殺人者 ) に疑問を抱くどころか、積極的に殺人者であろうとして誰かを殺す事に照準を定める犯罪者の闇に呑み込まれている。弁護士として犯罪事件の傍らで仕事をしてきた自分が、犯罪行為の究極の帰結である 殺人にいつの間にか魅せられていた、いや、それどころか 殺人を欲望さえしていた、事を手相占いは明らかにしたという訳です。
「 死は大いなる解放。苦しみはなくなった 」 by 説教を述べる司祭 ( C・オーブリー・スミス )。( 17 )
■ この説教を聞いたタイラーは恐るべきことに 司祭は "死にたがっている" と解釈する ( 18 )。ハンマーで司祭を殺そうとするが、司祭にそのことを見抜かれ止めるように諭される ( 19~20 )。
■ 橋の上で偶然出会うタイラーとポジャース。タイラーは、ここに至るまでの悲惨な結果に、以前の手相占いは何かの間違いじゃないのかと思い、もう一度手相を見てくれと頼む ( 21 )。その結果、ポジャースは言う ( 22~23 )。
「 誤らなくてはならん 」 by ポジャース
「 誤る? 」 by タイラー
「 消えている 」 by ポジャース ( 25 )
「 あり得ない 」 by タイラー ( 26 )
■ ポジャースの言葉に発作的に首を締めにかかるタイラー ( 27 )。ポジャースを殺してしまうタイラー ( 28 )。これは普通に考えれば自分の人生を振り回す事になったポジャースの占いの適当さに怒った故の行動だといえるのですが、デュヴィヴィエの意図が果たしてそんな凡庸な解釈に収まるものかどうなのか ( それでは物事を余りにも単純に考えすぎる "無思考性" にしか行き着かない ) …… 。
■ というのも、もしそうならばこの物語は平凡な弁護士が占いの結果に振り回されて悲劇的な結末を迎えたという不幸話でしかなくなる。しかし、この後、タイラーは証拠隠滅の為に橋の下に投げ捨てるのです ( 29~30 )。彼の中にもし良心があるのならば、自責の念に駆られて、そこまではしなかったはず。この投げ捨ての意味は、自分の中に明確な殺人行為それ自体への欲望があった事 を隠そうとする意味以外の何物でもないと精神分析的に考えられます。
■ 以上のように考えると、この第二話の物語構成は全く違う意味を帯びることになる。手相占いによってタイラーは人生を狂わされたのではなく、手相占いは正当にも、タイラーの中に眠っていた殺人欲を暴き出した といえるのです。その真実が暴かれたからこそ、タイラーは自分の中の殺人への欲望をポジャースに対して突発的にぶつけて証明してしまった、というのがこの物語の核心だと考えられるでしょう。
■ 死体を投げ捨てたのを警察に見られたタイラーは橋の向こう側に見えるサーカス団の宿泊地へと逃げ込む ( 29~31 )。逃げきれずに捕まるタイラー ( 32 )。面白いのは、この第二話のラストと思われる場面はそこで終わる事は無く、そのまま第三話の冒頭としてシンコペーション的に繋がっていきます。なので初めてこの作品を観た人は第二話と第三話の切れ目が分からなくて、別の話になっている事に気付かないようになっている。もちろん、これはわざとです。タイラーの中にあった "殺人への欲望" が地下水脈的に第三話に繋がっている のを示しているのですね。第三話については次回で話しましょう〈 終 〉。
( *A )
このようにガラスに写った自分の姿が殺人者の本性を示した典型的な場面として、フリッツ・ラングの『 M ( 1931 ) 』の以下の場面が思い起こされる。ピーター・ローレ 演じるハンス・ベッケルトが少女を誘拐する道すがらで、ショーウィンドウに写った自分の背中に殺人者である事を示す M の文字の書き込みを見て驚く有名な場面。どちらの作品もピーター・ローレとエドワード・G・ロビンソンという個性の強い俳優によって殺人者の役が演じられている。
■ 以下参照。