タイトル 『 肉体と幻想・第 1 話 』
公開 1943年
出演 ベティ・フィールド ( Betty Field : 1916~1973 ) ヘンリエッタ
ロバート・カミングス ( Robert Cummings : 1910~1990 ) マイケル
エドガー・バリアー ( Edgar Barrier : 1907~1964 ) ヘンリエッタに話しかける見知らぬ男
Chapter 1 仮面の意味が秘かに変化する話
1 今回は、ジュリアン・デュヴィヴィエの3篇の話から成るアンソロジー映画『 肉体と幻想 』の第1話について考えていきます。この映画は、第1話が仮面について、第2話が手相占いについて、第3話が夢について、という具合に世間一般に神秘的・超常的だと思われる現象についての話になっているのですが、その分かりやすそうな外見的ストーリーの傍らでデュヴィヴィエは考察に価する この物語の正統的解釈から逸脱する心理的余剰要素 を秘かに付け加えてくれています。1940年代の映画だからと高を括っていては見落としてしまうこの映画的、哲学的余剰について深入りしていきましょう。
2 ニューオーリンズのマルディグラ ( 元々はカトリック行事であるものの、仮面を着けたパーティーやパレードなどが行われるカーニバル ) が開催されている中で、死んだ男を見かけた事をきっかけとして、自分の容姿を醜いと思いこんでいるヘンリエッタ ( ベティ・フィールド ) は人生に絶望し入水自殺しようとする ( 1~5 )。ここでヘンリエッタの行動を導くのは、彼女の内面に語り掛ける男の声となっている。この声は最初は彼女に自殺を唆すかのように語るのですが、本当に自殺しそうな彼女の様子 ( 4~6 ) に対して慌てて止めるように言う。それと共に、その声の主であるかのように思える ( 本当にそうであるかどうかは明言されないので分からない ) 老紳士がヘンリエッタの前に現れる ( 7~8 )。
3 自分を気遣う老紳士に対して絶望の気持ちを吐露するヘンリエッタ ( 9~10 )。といっても実際はヘンリエッタ演ずるベティ・フィールドの顔立ちが整っているので余りリアリティはないのですが。照明の効果で彼女の顔に陰影をつける事で対処している。
4 そんなヘンリエッタに対して老紳士は真夜中に教会の鐘が鳴った後の数時間は、肉体が分離して美しくなれると説く ( 13~15 )。外見という肉体的特徴に囚われているヘンリエッタを揶揄している訳ですが、ここで注意すべきは、老紳士は彼女に、マルディグラの風習に沿って美しい仮面を被っておけば、一目惚れをしたマイケルの前でも気兼ねせずに話せるだろうという俗な解決策を提案しているのではないという事です。彼は 仮面の装着が、彼女の魅力的な内面をやがて露にするという俗な奇跡譚、のみに留まるのではなく、彼女の外見こそを変えてしまう驚異譚 を予告している。ヘンリエッタはそんな老紳士の意図など気にも留めずただ美しい仮面を選ぶ ( 16~20 )。
5 面白いのは、この老紳士も ( 16 ) において、実は、それまでの素顔とそっくりな "自分自身の仮面" をいつの間にか被っているという事です、つい見過ごしてしまうのですが。つまり、それは仮面と自分の素顔の境界が判別しづらくなる程、曖昧になっているという事 であり、ヘンリエッタに以下で起こる変化を予兆するある種の不気味さを示しているのです。
6 マイケルと会話するヘンリエッタ。仮面が人間の顔に似すぎていて、モノクロの画面だと、人間の顔と仮面の "境界" が曖昧な "非人間的な" 生々しさが際立つ。この "境界の曖昧さ" は、後で仮面を外した素顔のヘンリエッタ ( 29~32 ) へと滑らかに繋がっていく "グラデーション的移行" の効果として現れている。おそらく、これもデュヴィヴィエの意図的演出でしょう。
7 その素顔を見ていないのに、会話しただけでヘンリエッタに恋をして一緒になろうとするマイケルに対して、自分の顔は仮面に過ぎないと説くヘンリエッタ ( 25~27 )。しかし、この場面は感傷的な二人の遣り取りを通り越した不気味さを垣間見せている。アップの仮面の眼を潤わせる事で、あたかも人間的感情を持っているかのように "非人間的なもの" が限りなく人間に近づく異様さを醸し出している。そんな仮面姿の彼女に対して "美しい" と言うマイケル。彼女の隠れた内面を見つけ出したマイケルの振舞いは、一見すると感動的でありつつも "同時に" 奇妙さを漂わせている事に気付く必要がありますね。
Chapter 2 "非人間的なもの" としての人間の顔
1 さて、ここからは解釈がさらに細かくなっていきます。このデュヴィヴィエの作品を1940年代の古典的かつ単調な映画だと見下してしまうと、もうこれはヘンリエッタがマイケルによって救われて幸せになるというハッピーエンドな物語だとしか解釈出来なくなってしまう。しかし、この『 肉体と幻想・第1話 』に続く『 第2話 』の不気味な内容を知ると、そのハッピーエンドの結末が、仮面が発する非人間的効果がいかに恐るべきものなのか、つまり、人間の非人間化 という 暗黒譚 の側面が見えてくるはずです。
2 いや、『 第2話 』の内容を知らなくとも、『 1話 』の最期で示される老紳士の仮面 ( 33 ) を見れば、この物語のある種の不穏さを意図的に残しているデュヴィヴィエの試みが分かろうというものです。この事を踏まえれば、以下で、マイケルが素顔のヘンリエッタに告白する場面 ( 29~32 ) も、単なるハッピーエンドではなく、それが 仮面の非人間的効果こそが創り出した美しい人間像、人間であるかのように魅了する非人間的仮面、によってもたらされたハッピーエンドである事が理解出来るでしょう。
3 ここで踏み出さなければならない決定的な解釈とは、マイケルは仮面を剥いで素顔を晒したヘンリエッタに、やはり君は美しかったと告白しているという事ではなく、仮面を被ったままのヘンリエッタに、いや、美しい仮面に同化し、その仮面に浸食されてしまい仮面自体を自分の顔としてしまったヘンリエッタ ( *1 ) に、告白しているのだという事です。
4 この結末の為に、デュヴィヴィエは幾度となく 仮面が人間の顔であるかのような伏線 ( 23、25~27、そして33 ) を張っていたと考えるべきでしょう。( 29~32 ) では、一見すると観客にはヘンリエッタが素顔をさらしているかのように思わせてしまうのですが、これを ヘンリエッタが仮面と完全に "象徴的に" 同化してしまった ということを示す演出だとすれば単調とは対極の結論が見えてくるのです。
5 真夜中に仮面を店に返却した時、彼女は仮面の力など必要としなくなったのではなく、自分自身が仮面の持つ非人間的な美に取り込まれ完全に同化してしまった からこそ、もはや借り物の仮面など用済みになったと考えられるのです。そうすると、この物語は、ヘンリエッタが美しい仮面を補助具としながら醜い自分の心を克服して仮面を必要としなくなった自己解放物語などではなくなっている。
"内面の醜い心" を "美しい仮面という外見" に溶け込ませる事で徹底的に消去してしまう というヘンリエッタの即物的振舞い ( 例えば、他の場面ではヘンリエッタはマイケルに彼の夢を叶えるために自分なんかを置いていくべきだという本音ではない反語的振舞いをしている ) は、依然として薄暗い内面性を維持しているという意味で、ブラックユーモアとしてのハッピーエンドを最後に示した。つまり、"最も非人間的なもの" とは外見を際立たせようとする "外からは見えない" 人間内面における "他者への狡猾さ" に他ならなかったのだ、といえるでしょう。
( *1 )
この点について考えるには、イングマール・ベルイマンの『 仮面 / ペルソナ 』が参考になるでしょう。仮面の持つ自己の疑似解放的作用の誘惑を、斥けるベルイマンの試みとは違い、デュヴィヴィエは仮面の自己の疑似解放的作用に浸食されて、仮面と同化する人間をブラックユーモア的に描き出している。