〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 肉体と幻想・第 1 話 』( directed by ジュリアン・デュヴィヴィエ : 1943 ) を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

タイトル  『 肉体と幻想・第 1 話 』
監督    ジュリアン・デュヴィヴィエ
公開    1943年
出演    ベティ・フィールド ( Betty Field : 1916~1973 )       ヘンリエッタ
      ロバート・カミングス ( Robert Cummings : 1910~1990 ) マイケル
      エドガー・バリアー ( Edgar Barrier : 1907~1964 )    ヘンリエッタに話しかける見知らぬ男

 

 

 

 今回はジュリアン・デュヴィヴィエの3篇の話から成るアンソロジー映画『 肉体と幻想 』の第1話について考えていきますこの映画は第1話が仮面について第2話が手相占いについて第3話が夢についてという具合に世間一般に神秘的・超常的だと思われる現象についての話になっているのですがその分かりやすそうな外見的ストーリーの傍らでデュヴィヴィエは考察に価する この物語の正統的解釈から逸脱する心理的余剰要素 を秘かに付け加えてくれています1940年代の映画だからと高を括っていては見落としてしまうこの映画的哲学的余剰について深入りしていきましょう

 

 ニューオーリンズマルディグラ ( 元々はカトリック行事であるものの仮面を着けたパーティーやパレードなどが行われるカーニバル  ) が開催されている中で死んだ男を見かけた事をきっかけとして自分の容姿を醜いと思いこんでいるヘンリエッタ ( ベティ・フィールド ) は人生に絶望し入水自殺しようとする ( 1~5 )。ここでヘンリエッタの行動を導くのは彼女の内面に語り掛ける男の声となっているこの声は最初は彼女に自殺を唆すかのように語るのですが本当に自殺しそうな彼女の様子 ( 4~6 ) に対して慌てて止めるように言うそれと共にその声の主であるかのように思える ( 本当にそうであるかどうかは明言されないので分からない ) 老紳士がヘンリエッタの前に現れる ( 7~8 )。

 

 

 自分を気遣う老紳士に対して絶望の気持ちを吐露するヘンリエッタ ( 9~10 )。といっても実際はヘンリエッタ演ずるベティ・フィールドの顔立ちが整っているので余りリアリティはないのですが照明の効果で彼女の顔に陰影をつける事で対処している

 

 

 そんなヘンリエッタに対して老紳士は真夜中に教会の鐘が鳴った後の数時間は肉体が分離して美しくなれると説く ( 13~15 )。外見という肉体的特徴に囚われているヘンリエッタを揶揄している訳ですがここで注意すべきは老紳士は彼女にマルディグラの風習に沿って美しい仮面を被っておけば一目惚れをしたマイケルの前でも気兼ねせずに話せるだろうという俗な解決策を提案しているのではないという事です彼は 仮面の装着が彼女の魅力的な内面をやがて露にするという俗な奇跡譚のみに留まるのではなく彼女の外見こそを変えてしまう驚異譚 を予告しているヘンリエッタはそんな老紳士の意図など気にも留めずただ美しい仮面を選ぶ ( 16~20 )。

 

 面白いのはこの老紳士も ( 16 ) において実はそれまでの素顔とそっくりな "自分自身の仮面" をいつの間にか被っているという事ですつい見過ごしてしまうのですがつまりそれは仮面と自分の素顔の境界が判別しづらくなる程曖昧になっているという事 でありヘンリエッタに以下で起こる変化を予兆するある種の不気味さを示しているのです

 

 

 マイケルと会話するヘンリエッタ仮面が人間の顔に似すぎていてモノクロの画面だと人間の顔と仮面の "境界" が曖昧な "非人間的な" 生々しさが際立つこの "境界の曖昧さ" は後で仮面を外した素顔のヘンリエッタ ( 29~32 ) へと滑らかに繋がっていく "グラデーション的移行" の効果として現れているおそらくこれもデュヴィヴィエの意図的演出でしょう

 

 

 その素顔を見ていないのに会話しただけでヘンリエッタに恋をして一緒になろうとするマイケルに対して自分の顔は仮面に過ぎないと説くヘンリエッタ ( 25~27 )。しかしこの場面は感傷的な二人の遣り取りを通り越した不気味さを垣間見せているアップの仮面の眼を潤わせる事であたかも人間的感情を持っているかのように  "非人間的なもの" が限りなく人間に近づく異様さを醸し出していそんな仮面姿の彼女に対して "美しい" と言うマイケル彼女の隠れた内面を見つけ出したマイケルの振舞いは一見すると感動的でありつつも "同時に" 奇妙さを漂わせている事に気付く必要がありますね

 

 

 

 

 さてここからは解釈がさらに細かくなっていきますこのデュヴィヴィエの作品を1940年代の古典的かつ単調な映画だと見下してしまうともうこれはヘンリエッタがマイケルによって救われて幸せになるというハッピーエンドな物語だとしか解釈出来なくなってしまうしかしこの『 肉体と幻想・第1話 』に続く『 第2話 』の不気味な内容を知るとそのハッピーエンドの結末がいかに恐るべき仮面の非人間的効果に基づくものであるか という 暗黒譚 の側面が見えてくるはずです

 

 いや『 第2話 』の内容を知らなくとも『 1話 』の最期で示される老紳士の仮面 ( 33 ) を見ればこの物語のある種の不穏さを意図的に残しているデュヴィヴィエの試みが分かろうというものですこの事を踏まえれば以下でマイケルが素顔のヘンリエッタに告白する場面 ( 29~32 ) 単なるハッピーエンドではなくそれが 仮面の非人間的効果が創り出した美しい人間像人間であるかのように魅了する非人間的仮によってもたらされたハッピーエンドである事が理解出来るでしょう

 

 ここで踏み出さなければならない決定的な解釈とはマイケルは仮面を剥いで素顔を晒したヘンリエッタやはり君は美しかったと告白しているという事ではなく仮面を被ったままのヘンリエッタいや美しい仮面に同化しその仮面に浸食されてしまい仮面自体を自分の顔としてしまったヘンリエッタ ( A ) 告白しているのだという事です

 

 この結末の為にデュヴィヴィエは幾度となく 仮面が人間の顔であるかのような伏線 ( 23、25~27、そして33 ) を張っていたと考えるべきでしょう。( 29~32 ) では一見すると観客にはヘンリエッタが素顔をさらしているかのように思わせてしまうのですがこれを ヘンリエッタが仮面と完全に "象徴的に" 同化してしまった ということを示す演出だとすれば単調とは対極の結論が見えてくるのです

 

 真夜中に仮面を店に返却した時彼女は仮面の力など必要としなくなったのではなく自分自身が仮面の持つ非人間的な美に取り込まれ同化してしまった からこそもはや借り物の仮面など用済みになったと考えられるのですそうするとこの物語はヘンリエッタが美しい仮面を補助具としながら醜い自分の心を克服して仮面を必要としなくなった自己解放物語などではなくなっている醜い心を美しい仮面という外見に溶け込ませる事で徹底的に消去してしまう というヘンリエッタ即物的振舞い ( 例えば他の場面ではヘンリエッタはマイケルに彼の夢を叶えるために自分なんかを置いていくべきだという反語的振舞いをしている ) 依然として薄暗い内面性を維持しているという意味でブラックユーモアとしてのハッピーエンドを最後に示したのだといえるでしょう続く 〉。

 

 

 

( *A )

この点について考えるにはイングマール・ベルイマン 仮面 / ペルソナ が参考になるでしょう仮面の持つ自己の疑似解放的作用の誘惑を斥けるベルイマンの試みとは違いデュヴィヴィエは仮面の自己の疑似解放的作用に浸食されて仮面と同化する人間をブラックユーモア的に描き出している