■ ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』を読んで考える〈 1 〉からの続き
3章 哲学者の自慰
1. さて、かつては隠されていたウィトゲンシュタインの赤裸々な内面を明らかにした『 秘密の日記 』ですが、最も目を引くのは彼の性生活、自慰への言及でしょう。ただし、言うまでもなく、自慰という言葉だけに気を取られては日記から哲学的解釈を引き出すことは到底出来ません。自慰や勃起などの言葉のみに反応して興奮するような思春期の若者でないのなら、性的緊張が戦中下のウィトゲンシュタインにとって一体如何なる意味を持っていたのか を哲学的に考える必要があるという事です。
2. 以下は、自慰に言及した部分の抜粋。
1914年
大きな発見への途上にある。しかし、僕はそこまで到達できるのだろうか?! 以前よりは官能的。今日再び自慰した。
『 秘密の日記 』p.20
1914年10月12日
今日は、長時間憂鬱と戦った後、時間がたってから再び自慰し、最後に上記の文章を書いた。
『 秘密の日記 』p.37
1915年2月17日
僕はまたとても官能的になっていて、ほとんど毎日自慰する。
『 秘密の日記 』p.90
1915年4月16日
非常に官能的。毎日、自慰する。随分長い間、デイヴィッドから便りがない。
『 秘密の日記 』p.100
1916年4月16日
3月22日以来、完全に性欲がない。この2日間は休日[ だった ]。
『 秘密の日記 』p.109
3. ウィトゲンシュタインの自慰行為を肯定的に受け止めようとはするものの、よくある凡庸な考えは次のようなものでしょう。自慰行為による性的興奮の高まりは、戦中下で疲弊した精神状態を思索行為に向かわせるために必要な事だった。性的エネルギーを思索へと昇華させるものだったという精神分析的解釈です。
4. しかし、日記をより詳細に解釈するならば、もっと踏み込む必要があります。なぜ、彼が自慰行為を敢えて "書き込んだ" のか。しかも、何度も。普通の人ならば、いくら日記を書く習慣のある人でも、自慰行為や性生活を書き込む人はそうはいないでしょう。他の人に読まれる可能性を考えてしまうからですね。ということは、それが自分のとって見逃せない何らかの哲学的意味であること をウィトゲンシュタインは漠然と感じ取っていたからだ書き込んだ、暗号化してでも …… と解釈すべきなのです。
5. 漠然とした直感が哲学的に理解される必要がある、と彼は無意識的に考えていたのであり、自分では理論化出来ない "何か" を、他人を通してでも彼は知りたがっていた のです。ここでは、"他者" を通じて自分の言葉の真意を知ろうとする精神分析的アプローチが秘かに作動している。日記に施された暗号化という作業自体が、自分の言葉を哲学的に解釈してほしいというウィトゲンシュタインの無意識的メッセージになっている という事なのですね。
6. しかし、ここで、注意しなければならないのは、ウィトゲンシュタインは他人に自分の症状を解釈して欲しいなどという直接的な願望、あるいは他人への依存、を抱いていたという事ではありません。そうではなく、彼は、自分の漠然とした直感を考え抜く事の出来る "哲学的主体としての他者" を形成する、あるいは自分自身がより強力なその哲学的主体になろうと欲していた という事なのです。そう、彼は自分自身に向けて無意識的メッセージを発していたのであり、その曖昧なメッセージを解読できる哲学的主体に "ならねばならない" と望んでいたのです。
7. そのことを理解しないと、日記における神や霊への言及は、哲学的領域では語り得ない宗教的言説だという解釈しか引き出せなくなる。哲学では語れないウィトゲンシュタインの隠された人間像を宗教的解釈で明らかにしようという訳です。実際、邦版『 秘密の日記 』の解説者も慎重ではありつつもその方向へ傾いている。
8. しかし、神への言及を宗教的信仰に他ならないとする事、そして、それは人間ウィトゲンシュタインの真実の姿であるとする事、それらはもうそれ以上の意味は考えないでおこうという哲学的思考からの撤退になりかねません。それでは日記の恥部を隠そうとした遺稿管理人たちの思惑を真の意味で批判することは到底出来ない。それは哲学的なものですらないスキャンダラスな暴露でしかないのですから、遺稿管理人たちが隠すのも無理はないという事になりますね。そのようなアカデミックな閉鎖性を乗り越えなければならないというのなら、恥部が暴露された事自体に満足することなく、それに私たちが哲学的意味を与えていくしかありません。
9. 自慰の話に戻ります。自慰という反復行為はたんに身体に刻まれた射精快楽の痕跡に沿って為されるだけのものではありません。その時に、自慰という行為をする自分もまた "自分という主体" を再構成する場面として利用される。例えば、人は自慰や性行為において四六時中、快楽に溺れて我を忘れるわけではないのは言うまでもありませんね。その最中でも、相手のことを冷静に見ていたり、頭の中では全く別の事を考える瞬間があったり、自分や、自分たちは、何て格好や体勢をしているのだろうと俯瞰的に見る事があったりする。
10. このことの意味は、人が快楽を反復する時は、純粋にそれだけでなく、その行為の主体である自分自身を何度も目にして記憶し、記憶された自分を行為によって再構成する別の反復もそこに重ね合わされている という事です。つまり、それは自分を再構成しその都度定位させる反復 なのです。違う言い方をするなら、行為の反復それ自体が自分自身である事を証明する無意識的な身振りになっているという訳です。これを踏まえてウィトゲンシュタインの自慰行為の哲学的意味を考えていきましょう ( 続く )。
■ ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』を読んで考える〈 3 〉 へ続く