It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ ヤコペッティの『 大残酷 ( 1975 ) 』をヴォルテールの『 カンディード ( 1759 ) 』と共に哲学的に考える〈 4 〉

 

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き

 

 

シークエンス 26.

 

クネゴンダを再び探すために老人たちばかりが集まる村に来たカンディードとカカンボここにいる老人たちは "フラワーチルドレンという平和と愛と非暴力の集団" だと説明されていますがもちろんこれは1960代後半から1970年代にかけてアメリカでのフラワームーブメントを担ったヒッピーたちの事ここでは社会的束縛に抵抗する事に熱中した若者であったヒッピー達の成れの果ての姿を描いている

 

ただしこれはヒッピー達への批判というよりは社会的抵抗を求め自由を謳歌する若者でさえもいずれ老いていくという誰にも共通する人間の経験 を表していると考えるべきでしょう

 

村人はクネゴンダの居場所ならダルヴィーシュに聞けとカンディードに言うダルヴィーシュとはイスラム神秘主義 ( スーフィー ) の修道僧の事原作でもダルヴィーシュは出てくるのですが映画ではヒッピー達の村にイスラム神秘主義の修道僧がいるという奇妙な状況になってます ()

 

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シークエンス 27.

 

なぜかヒッピーの村にいるクネゴンダを見つけるカカンボダルヴィーシュに聞けと言った村人のアドバイスをまるっきり無視する流れ一体何だったの。クネゴンダの姿を確認したカンディードは一瞬目を潤ませるのですがすぐに彼女が老けてしまっている事に気付きます

 

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シークエンス 28.

 

そこに突然現れるかつての知り合い達TVディレクターだったパングロスも元の姿に戻っている男爵奥方もいるそしてカンディードダルヴィーシュを訪ね哲学問答を始める

 

"人間と言う妙な動物はなぜ存在するんです?

"この世は邪悪すぎます"  by カンディード

"善悪を気にするなどお前のやるべき事か"  by ダルヴィーシュ

 

 カンディードの問いに対してダルヴィーシュは明確な答えを与えられず期待はずれなのですが彼の発言は映画の結末 ( 原作も含めて ) に対する哲学的解釈を行う上での基本的な伏線となっているといえるでしょうそれについては後で考えていきますね

 

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シークエンス 29.

 

老け込んだクネゴンダを見て考え込むカンディード

 

"なぜ若さは すぐ消える?by カンディード 

 

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シークエンス 30.

 

目の前の川を見ながら最善説を反芻するカンディードだがここで彼は最善説からある種の運命論へ移行しつつある事が分かる

 

"流れがなければシンボルは反対の岸に流れ着くが 結局 若者たちが またそれを川に投げる"

"運命だよ 逃れようがない"  by カンディード 

 

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 4章    結末の解釈

 

さて映画の結末について考える前に原作の結末に触れておく必要があるでしょう映画との差異を浮かび上がらせるためにも

 

世界各地を放浪した末にパングロスは仲間達と共に小さな畑を耕すという日常に没頭していきます

 

"ぼくにわかっていることは ひとは自分の畑を耕さなければならない、ということby カンディード

 

"人間がエデンの園においてもらったのは、聖書にもあるとおり、そこを耕すため、つまり、労働をするためなのです"  by パングロス

 

"議論とかするひまがあったら働きましょう。それのみが人生を我慢できるものにする唯一の方法なのですby マルチン

 

 

このように原作における結末である第30章は最善説的な哲学議論から 労働 への移行が描かれていますこの部分はカンディード "ひとは自分の畑を耕さなければならない" というセリフと共にヴォルテールに関心のある人達にとって常に解釈の対象となっていましたまるでカンディードの言葉に何らかの哲学が含まれているかのようにたとえば抽象的に解釈するならば答えの出ない哲学議論のような他の領野の中で迷走するよりは自分の手が届く日々の生活の営みに集中する事の方が有意義な人生の過ごし方なのではないかという具合に

 

しかしカンディードダルヴィーシュの哲学問答で示されていたのが哲学的思考の停止に他ならないとするならばカンディードのセリフに含まれていたのは哲学的なものものではなくそれどころか哲学理論からの撤退以外の何物でもない のは明らかでしょうつまりカンディードのセリフは人生論的には有効で理論的には後退してい( *8 ) で記したようにそれはヴォルテール自身が認める所でしょう

 

そんな原作に対してヤコペッティの映画のラストは理論的なものについて考える可能性を残しているという意味でヴォルテールの原作以上に興味深いものになっています

 

 

シークエンス 31.

 

"ダメだ 行くな 痛い目に遭うだけだby 川の対岸に自分の姿を見つけたカンディード

 

"痛い目に遭いたいのさ"

"最初から全部また経験するんだろ by 去り際に冷静なセリフを残すカカンボ  

 

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このラストによってヤコペッティヴォルテールの原作の中では最善説の裏で漠然とした形でしか現れてなかった経験論を主体に帰す形で浮かび上がらせさらにその帰結を提示したのでしたつまり最善説に反対するにせよ賛成するにせよそれ以前にそこにはまず 何かを経験する主体 が先立つのでありその 経験という現象 は当然ではなく主体にとっての特別な出来事であるという哲学理論が現れるのです

 

このことはヴォルテールが放棄した理論的に考えるという知識の仕事はもはや止められない事を意味しますパングロスエデンの園に言及しましたがアダムはそこで知恵の樹の実を食べたが故にイヴと共に追放されたのでしたそれはどういう事なのか

 

何かを知ることは罪なのではなく何かを知ろうとする事は止められないが故にどうにもならない事なのです知る事とは喜びや楽しみだけではない負の側面を知る事も含むので自らの楽園から出て行くことでもあるのですねならば私達は知る事が出来るのに知らないままに安住する態度こそさらなる罪である事を哲学的に理解する必要があるでしょう知らないままでいる態度とは詰まる所知る事が出来るのにそれを拒否するという最悪の否定性に留まる事 をも意味するのです。

 

シークエンス31. においてヤコペッティは経験する主体にさらに捻りを加えています主体が経験した事を再び経験するという永劫回帰的モチーフを導入している のですこの時主体には何が起き哲学的にどう考えなければならないかは大きなテーマとなるので機会があればその時に論じましょういずれにせよヤコペッティの『 大残酷 』はヴォルテールカンディードが放棄した哲学理論的に考え続ける事の可能性と映画それ自体を娯楽として楽しむ可能性を内包しているといえるでしょう 〉。

 

 



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