上記 ( 前回 ) の記事からの続き。
クネゴンダと再会したのも束の間、連れ去られたクネゴンダを追って、カンディードは元黒人奴隷のカカンボ ( 原作ではスペイン系の従僕 ) と共に、アメリカにやって来る。アメリカといっても現在のアメリカになっていて、そこにカンディードやカカンボが、コロンブスやリンカーンなどの過去の人物達と共に現れます。
このアメリカ編から、ヤコペッティの脚色が強くなります。原作には無い、この過去から現在への時間の変化 はこの映画を考える上で大切なポイントでしょう。というのもヤコペッティは最初に原作のカンディードありきで構想を練り始めるような文芸愛好家ではなく、彼の出自であるモンド映画の監督である事を考慮するなら、始めにありきなのは、彼の出自であるモンド映画の撮影記録の無意識的地層だといえる からです。
世界各地を対象とした撮影は、たとえ擬似ドキュメントだったとはいえ、事物の記録の積重ねが、彼の中に 事物の記録の経験者 としての自分をひとつの 主体 として、つまり 何事かを経験する者という経験論的視点 を獲得させたと言う事は出来るでしょう。
その彼が、世界各地での経験という視点をヴォルテールの原作の中に見出し、原作の主人公であるカンディードが 経験する主体 である事を理解したとき、静かな哲学的興奮を覚えたに違いありません。つまり、『 大残酷 』とは、ヴォルテールの『 カンディード 』を自らの事物の記録という経験に接続する試みであり、それは 過去から未来への時間移動は予め考え込まれたSF的設定ではなく、ヴォルテールを自らの方に接続しようとする試みの軌跡のひとつとして現れた時間軸である、というのが『 大残酷 』の哲学的真理だといえるでしょう。
"これこそ あり得べき最善の世界です" by なぜかパングロスがディレクターを務めるTV中継
シークエンス 19. 再会して互いに喜ぶカンディードとパングロス
"でも 絞首台で・・・" by 生きているパングロスを不思議に思うカンディード
"私を吊り損ねたんだ" by 説明するディレクターのパングロス
シークエンス 20.
カンディードからクネゴンダを探していると聞いたパングロスはTVを使ってアピールするように言う。さすがディレクター、力を持っています。が、その直後、あり得べき最高の絶頂と紹介されているクネゴンダのショーの宣伝カーを見つけて、カンディードは激怒する。
シークエンス 21.
ポスターにクネゴンダと一緒に描かれた男 ( アッティラですけど、彼の仲間がクネゴンダが連れ去る時に、彼はカンディードと戦って失神させられて置き去りになったはずなのですが・・・まあ、いっか ) が彼女をたぶらかしたとして怒っているカンディードに対してパングロスは言う。
"彼に怒ってもムダだぞ" "彼はギターの弦で首を吊った" by パングロス
"アイルランドさ"
"プロテスタントと戦う彼女はカトリックの坊主と行った" by パングロス
おいおい、クネゴンダの行き先を知っているのなら、なぜカンディードにTVでアピールさせたんだ!ってツッコミたくなるが、それは野暮というもの。気にしないようにしましょう。
シークエンス 22.
舞台はアイルランド。アイルランド北部6州が北アイルランドとしてイギリスの一部である事に不満を抱くIRA ( アイルランド共和軍 ) が、アイルランド統一のためイギリス勢力に対する武装闘争を掲げてテロを繰り返していた。1970~1990年代はIRA内部でも、一般的支持を得られないテロに代わる政治的交渉の声も起きたが、より純粋な武装闘争を唱えるIRA暫定派が台頭し、イギリス本土への爆弾テロなども仕掛け、テロリズム を強めていた ( *11 )。アイルランドになぜか現れたパングロス率いるTVクルー。
"キリスト教の平和な理想が起こす現実 ( *12 )"
"小さな不幸は多数の善を生みます" by パングロス
( *11 )
現在の状況に関して言うなら、1998年に労働党のトニー・ブレア政権下でIRAとの和平合意 ( ベルファスト合意 ) が成立した。この後、アイルランドは国民投票によって北部6州の領有権主張を放棄した。2005年にはIRAは武装闘争終結を宣言している。
( *12 )
それにしても、宗教闘争それ自体は全く宗教的ではない といえますね。どのような宗教であれ、その第一原理が、誰かとの争いを勧めるものではないのだから。では、外部の誰かとの闘争という原理は、どこから発生するのか? それが宗教それ自体からではないのなら?
答えは、宗教の内実それ自体からではないが、宗教という名のイデオロギーから といえます。宗教に従属する内部の人にとっては、それは恩寵や信仰といった内実のあるものだが、そこに従属しない外部の人に対してはイデオロギー的なものになる。言い換えると、宗教に従属する人に対しては教義であるものが、従属しない外部の人に対しては闘争を仕掛けるイデオロギーに変質する という事ですね。もちろん、この事は宗教だけでなく、科学や経済、政治、哲学などについてもいえます。
このようにイデオロギーとは闘争的なものなのですが、そのような用語を聞くと、古くさいマルクス主義を思い浮かべるかもしれませんが、マルクス以前に宗教にイデオロギー闘争を持ち込む事に成功した人こそ、少し前に触れた カルヴァン に他なりません。カルヴァン主義がヨーロッパで勢力を持ちえたのも、その教義のみだけではなく、イデオロギー闘争の側面があった事は否定出来ないでしょう。
シークエンス 23.
アイルランドの内戦で廃墟と化した教会に足を踏み入れるカンディードとカカンボ。そこにはアメリカからクネゴンダを連れて来た異端審問官がいた、いや、今さら、異端審問官っていうのもどうしたものか、ただのおじさんにしか見えない ( 笑 )。クネゴンダは既にそこにはいなかった。裏切られたと感じている異端審問官は怒りのあまり、カンディードたちに機関銃を撃ちまくる。
"彼女はユダヤ人と聖地へ逃げた!" by 異端審問官
シークエンス 24.
エルサレムに来てクネゴンダを探すカンディードとカカンボ。壁に貼られた兵士募集のポスターのモデルがクネゴンダなのに、誰も彼女の事を知らないという。何人にも聞いて回り、愚直にクネゴンダを探すカンディードに対して、カカンボはシャワーを浴びる女性兵士に色仕掛けで迫るという驚きの行為 ( そんなキャラだっけ?) で彼女が敵側であるアラブゲリラの所にいる事を聞きだす。アラブゲリラという事は、イスラエルと対立するアラブ諸国側の兵士なのでしょうが、エルサレムという場所を考慮するなら、パレスチナゲリラというのが正確な所でしょう。
シークエンス 25.
おそらく撮影当時は、第4次中東戦争 ( 1973年 ) 前後ですが ( さすがに撮影場所は違うと思うけど )、タイムリーで緊張感のある戦争を映画の素材の一部 ( 先に述べたアイルランド紛争を含めて ) として自分の色に染め上げてしまうヤコペッティは、世界各地における紛争・戦争が、人間にとっての〈 最悪の出来事 〉であるがゆえ、映画の中で描く必要のある〈 経験 〉だと直感的に理解していた といえますね。
以下の、赤い花が咲き誇る中でのイスラエル女性兵士とパレスチナゲリラの戦闘は、争いの中でも静かに佇むしかない花との対比において、人間存在が 最後に行き着く経験、つまり 死 ( 赤い花畑の中に横たわるイスラエル兵とゲリラ兵の死体 ) を刹那的に描いている。
以下 ( 次回 ) の記事に続く。
〈 関連記事 〉