〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ フリッツ・ラングの映画『 M 』( 1931 ) を哲学的に考える


初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

 

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監督  フリッツ・ラング
公開  1931年
脚本  テア・フォン・ハルボウ
出演  ピーター・ローレ      ( ハンス・ベッケルト 役 )
    オットー・ベルニッケ    ( カール・ローマン警視正 役 )
    グスタフ・グリュントゲンス ( シンジケートのボス 役 )

 



 

 

 この映画のタイトル『 M 』が、ドイツ語で言うところの "殺人者 ( Mörder )" の頭文字であるのは言うまでもありませんね。ベルリンで少女を標的とした連続殺人事件が人々を震撼させるという話なのですが、警察の捜査のとばっちりを受けて闇仕事が出来ない ( 警察の目が光っているので ) シンジケートは不満を募らせた挙句、自分達の手で殺人者を捕まえようとする。

 

 場面 1~2. は殺人者のコートの背中にチョークで M の目印を付けた男 ( 2. ) がシンジケートの幹部たち ( 1. ) に連絡するシークエンス。男が殺人者を追うきっかけになったのは、盲目の風船売りからの教えられた、殺人者は少女の為に風船を買う時に口笛を吹いていたという話ですが、この口笛が エドヴァルト・グリーク の『 ペール・ギュント 』第一組曲「 山の魔王の宮殿にて 」であるのは有名な話。ショーウィンドウに写った自分の背中に M の文字が書かれているのを見て、驚くベッケルト ( 3~4 )。

 

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 この殺人者のモデルは、一説には、実在したドイツの連続殺人犯 ペーター・キュルテン だと言われるが、ラングはこれを否定している。とはいえ、この作品が、キュルテン や、映画の中で言及される、同じく連続殺人犯のフリッツ・ハールマン、カール・グロスマン らから着想を得ているのは間違いないのですが、ここでのラングの特定のモデルの否定は、私たちに殺人者についての好奇心を煽っているのではなく、"別の事" を考えるように促していると解釈すべきなのです。それについては次で考えましょう。

 



 

 

 この作品におけるラングの無意識的狙いは、単独的な殺人者それ自体ではなくその殺人者が周囲の人々に与えた影響がいかなるものであるのか を暴き出す事にあるといえるでしょう。もちろん、殺人者の行為が倫理的に許されることでないのは当然なのですが、そんな倫理的正義をラングは描き出そうとしているのではないのです。

 

 それがよく分かるのが、地下で行われる、シンジケートと市民らによる疑似裁判で殺人者であるハンス・ベッケルトを全員で糾弾するラストに向けて展開される以下のシークエンス。

 

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 ここで引用しているのは、Amazon prime 版『 M 』( 2022年現在は削除され見れない ) からの画像なのですが、おそらく自動翻訳ソフトによる和訳のため、人物像や状況に合わない、です・ます調の言葉使いや、"権利 ( recht )" を "正しい ( recht )" に変換するなどの誤訳がいたるところで表れている。

 

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 自分の制御できない内面をぶちまけるハンス・ベッケルトを熱演するピーター・ローレ。目力の強さ。

 

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 場面 20. の訳、 したくない ! マスト ( must ) ! って。和訳なのに英語が混ざるのが凄い。必須、欠かせない、を示す日本語表記のマストという言い方が最近一部では定着してはいるものの、これでは理解しづらい …… 。must はドイツ語の助動詞 müssen ( しなければならない ) の一人称変化形 muss の英訳。ここではベッケルトは、少女を殺したくないという拒否の声と、殺さなければならないという強制の声との間で激しく動揺し、忘我的に殺人を選んでしまう事を告白している ( 17~20. )。

 

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 ベッケルトの死刑宣告をするシンジケートのボス ( グスタフ・グリュントゲンス ) とベッケルトの殺人行為を病気のためであると擁護する弁護人 ( 21~24. )。

 

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 ベッケルトの擁護を愚かだと笑う人々 ( 26. ) と当事者の立場を理解しない弁護人を非難する女性 ( 27~28. )。

 

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 これらラストに向けてのシークエンスにおいて、ラングの思考は、ハンス・ベッケルトではなく、彼を殺せという人々の方に向かっているのが分かりますね。彼がいかに自己の狂った内面を吐露しても許されるものではないのですが、精神分析的に見るならば、彼の殺人行為が、それによって被害や迷惑を被った人々の中に潜んでいた 殺人衝動を覚醒させてしまった といえる。

 

 このような衝動の露呈が可能になるのは、この地下の疑似裁判が、国家の介入のない場合の人々の欲望の暗部を象徴している からに他なりません。国家、裁判制度、などの公的なものによる介入がない舞台では、人間の欲望がいかなる形 ( 殺人 ) で具現化されるのか、についてラングは描いている。

 

 注意すべきは、ここで人々はハンスを殺せと言うのですが、一体誰に対してそう言っているのかという事です。この宛先人の不明な叫びの連呼には、自分は直接に手を下さずとも誰かにしろという、人を殺す事に伴う責任を回避して ( 国家に代理させて ) 欲望だけを実現させようとする怖さ が付き纏っている。

 

 なので場面 32. で警察が乗り込んでハンスを確保した後、彼が本当の裁判で死刑判決を受けたのかどうかはさほど問題ではありません。問題なのは、国家が、ハンスを殺せと言う人々の欲望の代理人となっている制度の裏において道徳的復讐という形で、殺す欲望が回帰しているのが見えにくくなっている という事なのです ( A )。

 

 ここにおいて、 ラングの意図は、"殺人者 ( Mörder )" がハンスのみならず、彼を糾弾する人々の事も指している のが明らかになる。Erwin Leiser によるインタビュー ( B ) で、ラングは『 M 』の元々のタイトルが "Mörder unter uns ( 私たちの中の殺人者 )" と語っているのは知られた話ですが、それを知っている人でも、私たちという人間集団の中にハンスのような単独殺人者が紛れているというような間違った理解をしている。しかし、 "Mörder unter uns" というように Mörder "複数形" で述べられている ( 英語で言うところの Murderers among us ) のを考慮すると、"Mörder unter uns" とは "私たち人間内部にその姿をひそめた潜在的殺人者たち" と解釈すべきです。

 

 それはもう特定の殺人者を指しているのではなく、私たちの中の殺人衝動を代理表象としての "殺人者 ( Mörder )" であり、もっというならば、M という記号表象化される衝動性である といえるのです。そう考えると、『 M 』公開当時の1931年にはナチスがまだ政権を掌握していなかったため、一部の批評家が『 M 』とナチス批判を結び付けるのは早急過ぎる ( 1933年公開の『 怪人マブゼ博士 』では事情は変わってくるが ) というのは分かるにしても、後のナチス政権社会を許容することになる人々の "殺人への無頓着性 ( 自分たちが直接手を下すわけではない )" ( C ) を背景して、死の欲動が社会を蹂躙していくのを予告していたというのは言い過ぎではないでしょう ( 終 )。

 

 

( A )

この作品が、死刑制度の是非を問う、またはハンスの死刑が人々の溜飲を下げる、ことを主題にしているのではないのを見抜けずに、死刑の執行が行われた ( に違いないと考えて ) のはラストにふさわしいと短絡的に決めつけたのが、映画好きのナチス宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッベルス ( 1897~1945 ) 。ドイツ映画の研究者であるフェーリクス・メラーは次のように書いている。 

 

驚いたことに、「 フリッツ・ラングの『 M 』を観た。すばらしい。感傷的人道主義に反対。死刑には賛成する。よく出来た作品だ 」と31年5月21日に書きとめている ( ゲッベルスの日記のこと ) が、この古典的傑作をこのように解釈するのは、同時代の映画批評とは完全に対立するものである。〈 中略 〉。彼は誤った解釈をする。犯罪者のボスが風刺的に弁舌をふるう熱のこもった論告でついに犯罪者に死刑を要求する場面では、ゲッベルスがそこに30年代ベルリンの犯罪告発しか眼中になかったのは明らかである。

 

『 映画大臣 ゲッベルスとナチ時代の映画 』 フェーリクス・メラー / 著、瀬川裕司・水野光二・渡辺徳美・山下真緒 / 訳 白水社 p.70

 

ちなみに、ハンスに死刑を要求する、その犯罪者のボスを演じた グスタフ・グリュントゲンス ( 1899~1963 ) は、ゲッベルスの天敵であるゲーリングからの芸術的支援 ( グリュントゲンスはドイツの舞台俳優兼演出家だった ) が明らかになるにつれて、同性愛関係にある ( ゲーリングと ) としてゲッベルスから嫌われるようになっていく。このようなゲッベルスの振舞いが、ナチスの恐るべき人種主義に繋がっていく萌芽であるのは言うまでもないでしょう。

 

しかしゲッベルスが抱いていた、どちらかというと肯定的なグリュントゲンスのイメージは、ゲーリングが決定的に庇護者の役割を引き受けた時から急変する。ゲッベルスは繰り返しヒトラーにグリュントゲンスのことを密告する。同性愛者によって「 国立劇場に生じた泥沼 」( 37年7月27日のゲッベルスの日記 ) という悲嘆に、ヒトラーは耳を貸してくれた。「 グリュントゲンスは完全に消え去らねばならないとのお考えである 」( 7月29日 )。

 

前掲書 p.427

すなわち、ゲッベルスはあらゆる事情を理解していた。「 総統は、公共の場においては同性愛は看過できないとのご意見なのだ 」( 41年8月17日 )。

 

前掲書 p.427 

 

( B )

以下が Erwin Leiser ( 1923~1996 ) によるラングへのインタビュー。Erwin Leiser は『 Mein Kampf ( 我が闘争 ) 』などのドキュメンタリーで知られる映画監督・作家。

 

 

( C )

この無頓着性・無思想性を示す典型的な例が『 ゲッベルスと私  ― ナチ宣伝相秘書の告白 ― 』の著者 ブルンヒルデ・ポムゼル。