監督 メアリー・ハロン
公開 2019年
脚本 グィネヴィア・ターナー
原作 カーリーン・フェイス『 The Long Prison Journey of Leslie Van Houten : Life Beyond the Cult 』
出演 マット・スミス ( チャールズ・マンソン )
ハンナ・マリー ( レスリー・ヴァン・ホーテン / 通称 "ルル" )
ソシー・ベーコン ( パトリシア・クレンウィンケル / 通称 "ケイティ" )
マリアンヌ・レンドン ( スーザン・アトキンス / 通称 "セイディ" )
メリット・ウェヴァー ( カーリーン・フェイス )
1章 マンソンの女たち・・・・・
この映画は、女優 シャロン・テート ( 1943~1969 ) ら5人の殺害事件の犯行主体であるチャールズ・マンソン・ファミリーについての歴史的ドキュメンタリータッチの作品とは、違うものだと認識しておく必要があるでしょう。というのも、これはシャロン・テート殺人事件の3年後、カリフォルニア女性刑務所に収監されている3人のマンソン・ガールズらと原作者である カーリーン・フェイス ( 1938~2017 ) の "対話という形式" によって、事件を振り返るという映画なのですから。
なので、この映画の原作としてよく、エド・サンダースの『 ファミリー:シャロン・テート殺人事件 』が定番的に挙げられたりします ( それはあくまで事件の経過を整理する上で メアリー・ハロン ( 1953~ ) らが参考にしたと考えた方がいい ) が、その無機質な事件調書的列記物よりも、もうひとつの参照著作であるカーリーン・フェイスの『 The Long Prison Journey of Leslie Van Houten : Life Beyond the Cult 』の方が、この映画の実質的原作であるといえるでしょう。
つまり、この映画で重要なのは、 シャロン・テート殺人事件のドキュメンタリー的経過の描写ではなく、事件に関与した3人のマンソン・ガールズらの "反省的次元 ( たんなる倫理的なものではない哲学的な意味での )" がカーリーン・フェイスの聞き取りによって明らかになるという事なのです ( *A )。
カーリーン・フェイスはそのフェミニスト的立場から、刑務所という閉ざされた場所からは外に届かない "女性の声" を抄い上げようとする。 チャールズ・マンソン ( 1934~2017 ) という男と疑似家族的関係を持った女性たちが刑務所での現在において、どう考えているのか、を知ること …… それ自体は、あの事件の原因を解明することが目的ではないでしょう。それよりもカーリーンは、"事件" が今の彼女たちに反省の次元をもたらす "契機" になるような自覚的変化を促すように働きかける のですね。そうでなければ、彼女たちは殺人行為を後悔こそすれ、根本的原因であるチャールズ・マンソンとの精神的繋がり ( マンソンの神格化 ) を断ち切ることは否定するという最悪な状態に囚われたままであるしかないのですから。
( *A )
ただ、この事件のことを知らない人からすると、この猟奇的殺人事件の内容がいかなるものであったのかと興味を抱くのは仕方ないのかもしれません。ヒッピー的ファミリーを築いたチャールズ・マンソンの歪んだエゴが惹き起こしたこの事件自体が猟奇的であったのは間違いないのですが、それ以後、形成・蓄積されたメディアアーカイヴも人々の好奇心を煽るために必要以上に事件を猟奇的なものとして扱い、アンダーグラウンド的神話化 に加担したのは否めません。そこには、人間の欲望を煽る危険性を含んでいる事に気付かない恐ろしさがあるといえるでしょう。
2章 父として神格化されたマンソン
回想シーンでは、彼女たちが、マンソンを "父" として神格化していたことが描かれます。
なぜ彼が神格化されるに至ったかは映画で考察されることはないのですが、彼が巧みに自分を演出する話術・雰囲気作りがあったのが何気に描かれているのが分かりますね ( 31~38. )。ここで注意しなければならないのは、マンソンは最初からカリスマ性があったのではなく、カリスマ性があるように見せかける話術・演出が優れていた ということです。哲学的に言うならば、"カリスマ" という概念自体が極めて演出的なものに過ぎない。このことを理解しない人が、歴史上の犯罪者・独裁者などを振り返る時、彼らの罪は許されるものではないが、カリスマ性の要素があったことは否定できないなどと言って表面的身振りに惑わされる罠に嵌ってしまう。
そして、それに加えて、マンソン・ファミリーの家族構造が、彼の父性的神格化を強めていた。彼は自分が常にマンソン・ガールズの特定の誰からも独占されないような位置に自分を置くことによって、逆説的に特権的地位に座していたのです。マンソン・ガールズの誰もがマンソンに自分の父であってほしいように振舞っても、彼は特定の父ではなく、誰からも適度に距離を置くことによって宙に浮いた "抽象的な父" として女たちに影響力を与えていた ( 39~44. )。カリスマ性などの内的属性ではなく、そのような集団における構造こそが彼を神格化していた、と分析できるでしょう。
そのようなマンソン・ガールズの中でも、レスリー・ヴァン・ホーテンこと、通称 "ルル" だけがマンソンに違和感を感じ始める ( カーリーン・フェイスの原作タイトル『 The Long Prison Journey of Leslie Van Houten : Life Beyond the Cult 』にも名前が採られているますね )。マンソンの矛盾を指摘するルルに対してマンソンが反論して自分を取り繕う場面。
3章 ルルとの対話、そして事件の回想・・・
3人のマンソン・ガールズの中でも、レスリー・ヴァン・ホーテンこと通称 "ルル" が対話能力という点で秀でていて、カーリーンとの遣り取りの過程で、自分の身を反省の次元に置いて考えるようになる。以下は、白人と黒人との間での人種戦争によって革命が起こるというマンソンの妄想を非難するカーリーンとルルとの会話の場面 ( 51~53. )。
1969年に何かが起こると信じていたというルルがカーリーンにも同意を求める場面。これは根拠がないわけではなく、当時、ヒッピームーブメントがひとつの文化として盛り上がっていた世相を背景にしている ( 54~61. )。
カーリーンの指摘 ( 62. ) に言葉を失うルル ( 63~68. )。ここから殺人行為の回想が始まる ( ただし、69~76. はシャロン・テート邸ではなく、その翌日の資産家ラビアンカ邸での殺人事件 )。ここでは、殺人行為に歯止めをかける倫理的罪悪感などは全く機能せず ( 唯一ルルのみがためらいの素振りを見せている )、ただひたすら殺人行為が機械的に遂行される。おそらく、それを可能にしているのは、個々人の内面における殺人への快楽的欲望などではなく、集団的なものへの同質化が個々人の内面を浸食してしまっている構造によるものだ と解釈出来るでしょう。つまり、私がするのだから、お前もしろ、という 集団における歪んだ絆を再認・強化する契機としての極端な行動化が発症してしまっている と考えられます。ケイティはルルに言っている、「 全員 何かしなくちゃ 」と ( 74. )。
ルルは認識を改め、反省する、「 ただの殺人だった。意味もなく人を殺した。」と。これは哲学的に考えるならば、たんなる後悔の吐露だけではなく、殺人行為の主体が自分以外の何者でもなかったという現実を認めた 事を意味する。つまり、あの当時、ルルにとって、殺人行為の主体は、自分という個人ではなく、マンソン・ファミリーという集団的なものだった。彼らの殺人行為は、集団的なものへの忠誠、あるいは集団的な教条性を体現しようとする無意識性に間接媒介されたもの であり、自分の行為を反省させる直接的なものではなかった、という事です。今、ルルは自分の行為を反省することによって自分を殺人行為の直接的主体であると認識した。だから、彼女は「 意味もなく人を殺した 」と言うのですね ( 78. )
4章 殺人行為の裏に潜む欲望の回路
さて、ルルの反省によって、この映画のストーリーに決着が付けられた、と思う人は多いでしょう。しかし、ラストに描かれる "if" の場面によって別の解釈が可能になる。その if の場面とは、ルルがバイカーの男たちと共に、マンソンの元を去るというものなのですが、これを別の "可能世界" 、ルルが悲劇を避けることが出来たかもしれない "もうひとつの世界" 、として希望を見出すだけでは見落とすものがあるのです。
if の可能世界が想像されるということは、あの殺人事件が揺らぐ事のない厳然たる現実として世界の中に実在してしまった事を意味する ( *B )。それは不可逆的な出来事の残酷さに対する想像的抵抗でしかないのです。言い換えるならば、"可能世界" を描くことで、別の結論が在り得たかもしれない、と考えさせることはおそらく間違っている。なぜなら、現実の出来事は、そのような事後的に考えうる可能世界の発生を潰し、犠牲にすることで自らを成立させている からです ( *C )。そのような意味で、現実世界は冷酷かつ残酷なものとなっているのですね。
ということは、可能世界を想像することに、現実の世界を受け入れることに対する無意識的な抵抗である以外の意味を見出すのは難しい。それは端的に言うなら、"現実に対する否認" でしかないのですが、この映画はそれ以上の解釈が出来る余地が残されています。
そのためには、メアリー・ハロンのもうひとつの映画『 アメリカン・サイコ ( 2000 ) 』を思い出す必要があるでしょう ( *D )。そこでも『 チャーリー・セズ / マンソンの女たち 』と同様、"if" の場面がラストに描かれているのです。それは殺人鬼パトリック・べイトマンがべイトマン自身の妄想の産物であったかもしれないと観客に匂わせるものなのですが、はっきりとは結論を描かずに曖昧なままで終わらせています。
『 アメリカン・サイコ 』が哲学的に興味深いのは、べイトマンの殺人行為が、事実なのか妄想なのかという判別なのではなく、たとえ妄想であったとしても、べイトマンの中に渦巻く無気味な欲望が、殺人という行動化へと今まさに至ろうとする脅威として描かれている 点なのです。その緊張は、殺人衝動と双極的に描かれるエリート金融マンとしてのべイトマンの振舞いにおいて高まっていく。極端に言うなら、べイトマンは殺人への欲望を秘かに昇華させて自分の仕事を形式的に洗練させていくのです ( 服装や名刺の字体・紙質などへの拘り )。
このスキャンダラスな欲望の回路の露呈こそメアリー・ハロンが無意識的に描き出そうとしたものに他ならない。べイトマンのように欲望の回路が殺人行為へ直結する事もあれば、ルルのように事後に反省するまで殺人の直接行為の意味を理解出来ないように、集団的なものを経由して殺人行為に間接的に接続される欲望の回路もある。そこでは人間主体は、欲望の回路の "頂点" にあるのではなく、アクティング・アウト ( 行動化 ) の主要因が欲望の回路で構築されるという意味で、欲望の回路の "末端" にある付属物でしかない。そこには人間主体が欲望に翻弄されるという残酷な現実があるといえるでしょう〈 終 〉。
( *B )
シャロン・テート殺人事件関連で、このような if の世界をサスペンス・ホラー的に描いたのが、 ダニエル・ファランズ の映画『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』。観た人は分かると思いますが、これはシャロン・テートの当時の夫であった映画監督 ロマン・ポランスキー の作品『 ローズマリーの赤ちゃん ( 1968 ) 』を踏まえている ( *E )。
( *C )
もちろん、哲学的に言うなら、可能世界は "形式的に" 考えられない事はない、 デヴィッド・ルイス ( 1941~2001 ) などの分析哲学のように。ただし、注意しなければならないのは、そのような "可能世界" があたかも "内実性" を備えているかのように考えてしまっては、誰であれ議論に都合のいい任意物が持ち出される事にしかならないでしょう ( 例えば分析哲学において持ち出される簡素な命題それ自体が既に何らかの別の世界を表しているかのような安直さ・・・)。なので考え直すべきは、可能世界があるのではなく、この現実世界から未知の世界 ( それがどのようなものかは誰にも分からない。世界ですらない "混沌" の可能性もある ) へ至るための "偶然の抜け穴" が、この世界には複数的に在り得るだろうという事です。
( *D )
『 アメリカン・サイコ 』については次を参照。
( *E )
『 ローズマリーの赤ちゃん 』については次を参照。