〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』( 2019 : directed by クエンティン・タランティーノ ) を哲学的に考える

 

 

映画  『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド ( Once Upon a Time in Hollywood ) 』
監督  クエンティン・タランティーノ ( Quentin Tarantino : 1963~ )
出演  レオナルド・ディカプリオ ( Leonardo DiCaprio : 1974~ )  リック・ダルトン
    ブラッド・ピット ( Brad pitt : 1963~ )           クリフ・ブース 
    マーゴット・ロビー ( Margot Robbie : 1990~ )         シャロン・テート

 



 第1章  映画の中で現実に成る if の世界

 おそらくタランティーノの映画を哲学的に考える事程、 ナンセンスな事はないでしょう。  というのも彼の映画手法は、 映画内映画、 映画についての映画、 映画の引用・参照・鑑賞愛・B級映画嗜好、 といった マニアックな映画及び映画周辺物と繋がろうとする徹底的操作自体を全ての作品原理として強力に作用させるものである為、 作品ごとのテーマを差異的に奥深く考察する事などは、 もはや問題足りえないからです。  夥しい映画をひたすら楽しむ以外に一体何があるっていうんだ、 観る度にそんなにシリアスに考えてどうするんだ、 あくまでも娯楽なんだよ、 と観客に思わせるものだという訳です ( タランティーノ自身が何も考えていないと言いたいのではないのですが )。

 

 にもかかわらず、 なぜこの記事で哲学的に考えるのかというと、 この作品が 〈 映画の中の映画史 〉、 それも、 あり得たかもしれない中断された映画史を可能世界的に再開する、 つまり、 if の映画史を描き出す という哲学的特殊性が "偶然に" 現れているからです。   "偶然に" というのは、 この  『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド ( 2019 ) 』  が、 ダニエル・ファランズの  『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』  とメアリー・ハロンの  『 チャーリー・セズ / マンソンの女たち ( 2019 ) 』 と歩調を合わせるかのようにして、 単にシャロン・テート殺人事件後50年という節目の製作であるという事だけではなく、 それらの作品で if の世界が描かれている という事なのです ( * )。

 

 この場合の if の世界 とは、 殺しに来たマンソン・ファミリーを返り討ちにして、 シャロン・テートが生き続けるという架空物語 の事。  『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド ( 2019 ) 』  ではシャロン・テート自身ではなく、 隣人であるリック・ダルトン ( レオナルド・ディカプリオ ) と彼のスタントマンかつ友人であるクリフ・ブース ( ブラッド・ピット ) がマンソン・ファミリーを殺し、 『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』  ではシャロン達自身がマンソン・ファミリーを殺す。  『 チャーリー・セズ / マンソンの女たち ( 2019 ) 』  では刑務所に収監されているマンソン・ガールズが過去を回想する中で、あの時、 こうだったら違う結果だったかもしれないと思いを巡らせる、 と言う具合に各々の差異はあります。

 

 特に 『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド ( 2019 ) 』 と 『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』 は、シャロンが生き続けるという架空の未来が映画という媒体を経由して、虚構物語として現実化される。 在り得なかった未来が疑似的に回復される事で現実に限りなく近ずく のです。 ただし、それは決して現実になる事は無く、現実に近づきつつあるという過程に永遠に留まるものでしかない と言う条件付きなのですが。

 

 シャロン・テートロマン・ポランスキーとの間に生まれはずだった赤ん坊、 シャロン主演で製作されるはずだった  『 テス 』、 何よりもシャロン・テート自身の人生、 こういった予定されていた未来への通路が突然の遮断された地点に、 先の2作品は舞い戻ってこじ開け、 彼女の人生を再開させるべく虚構の現実物語を描き出す。  映画にしか出来ない現実化作業映画にしか出来ない 過去への復讐が果たされる のですね。

 

( * ) 

ダニエル・ファランズの  『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』  については以下を参照。

 

メアリー・ハロンの  『 チャーリー・セズ / マンソンの女たち ( 2019 ) 』  については以下を参照。

 



 第2章  if の世界で成し遂げられる復讐

 この映画の基軸はリック・ダルトンとクリフ・ブースの2人のコンビ関係なのですが、 その傍系基軸としてのチャールズ・マンソンを初めとしたマンソン・ファミリーの呼称で知られるヒッピーコミュニティ、 そしてそのマンソン・ファミリーによる殺人事件の被害者となるシャロン・テートたち、 という3つの軸が交錯して最終的にひとつの場、 つまり、 1969年8月9日のシャロンが殺害される "はず" の現場 に収斂していく物語となっています。

 

 テレビの西部劇俳優だったリックは映画俳優へと転身したものの、 上手くいかない日々を過ごしていた。  イタリア西部劇への出演を勧められるものの、 乗り気ではなく自分のスタントマンであるクリフに愚痴を言う ( 1~4 )。

 

 その運転中にヒッピーの女性集団を見かける。  リックは彼女らをカス扱いする ( 5 ) が、 クリフは彼女らの1人のプッシー・キャットと目が合い、 興味を持つ ( 6~8 )。

 

 自宅の隣人がロマン・ポランスキーである事に気付いて驚くリック ( 9~14 )。  ポランスキーは当時、 『 ローズマリーの赤ちゃん ( 1968 ) 』  で既に有名でしたからね。 リックも知り合いになれるかもと秘かに期待する様子が含まれている。

 

 自分が出演する   サイレンサー / 破壊部隊 ( 1968 ) 』  を上映する映画館を見つけて上機嫌になるシャロン ( 15~17 )。  映画を観る前に、 本屋で注文していた トーマス・ハーディ( 1840~1928 ) の小説  『 テス ( 1891 ) 』  を取りに来るシャロン ( 18~20 )。  これはポランスキーによるナスターシャ・キンスキー主演の映画  『 テス ( 1979 ) 』  が本来はシャロン主演だったはずのエピソードを受けてのもの。

 

 作品出演者だからタダで入館させて欲しいとせがむシャロン ( 21~22 )。  もちろん、 これはケチなのではなく、 スター気分を味わおうとする彼女のささやかな満足感を描く演出。  映画館内で上映されている 『 サイレンサー / 破壊部隊 』 が実際のものであるのは知られた話ですね ( 23~25 )。  鑑賞中の観客の反応に喜ぶシャロンの姿 ( 26 )。

 

 街で偶然見かけたプッシー・キャットを彼女の属するヒッピーたちが生活するスパーン映画牧場まで車で送るクリフ。  誘惑してくるプッシー・キャットに対して年齢確認を執拗にするクリフ ( 27~32 )。  言うまでもなく、 この下りはポランスキーのかつての未成年との淫行疑惑を思い起こさせるもの。

 

 この演出の意味合いはかなり微妙な問題ですね。  もちろん、 タランティーノも個人的に考える所はあるでしょう。  しかし、 彼は道徳的問題・政治的問題を映画内に持ち込もうとしているのではなく、 敬愛する作品を撮った人物の個人的エピソードとして、 例えそれが下世話なものであったとしても良いも悪いも含めて、 その個人を示すエピソードとして映画内で娯楽的に示そうとしている と考えた方がいいかもしれません。  『 サイレンサー / 破壊部隊 』  でシャロンの実際のアクション指導までしたブルース・リーが、 撮影現場の舞台裏でクリフに無様に叩きのめされ実力の無さを露呈するという if の場面にしても ( 彼の真実について偏った資料の伝聞に基づいているとしても ) 、 批判される方々の気持ちも分かるのですが、 貶めるというよりも、 たとえどんな人間であっても、 ポランスキーと同様に彼にとっては映画スターである事には変わらない ( 武道家である以前に )、 とタランティーノが認識しているが故の "if の世界" の演出なのでしょう ( 神格化されている彼が、 もし弱かったとしたらという具合に )。

 

 

 プッシー・キャットをわざわざ送り届けに来たのに、 車のタイヤをパンクさせるという挑発行為をしたファミリーの男を殴り倒すクリフ ( 30~36 )。  マンソンを "教祖 / 父" として崇めるマンソン・ファミリーらの宗教的集団性をぶち壊すかのようなクリフの荒々しい振舞い ( 37~38 )。  ここからは、『 チャーリー・セズ / マンソンの女たち ( 2019 ) 』 において示されたような、 象徴的父であるマンソンによって支配されていたマンソン・ファミリーを "if の世界" で打ち砕く映画界からの復讐が始まっている

 

 ポランスキー邸を襲うつもりだったマンソン・ファミリーだが、 直前に車の音がうるさいとリックに罵られた為、 矛先を彼に変えたファミリー。  部屋の中にいたクリフと鉢合せになる ( 39~40 )。  リックの愛犬ブランディが銃を構えたテックスに襲いかかり、 股間を噛んで怯ませる ( 41~43 )。 弱ったテックスをぶちのめすクリフ ( 44 )。

 

 プールでくつろいでいたリックの所に、 騒動中の部屋の中から叫びながら飛び出して来たケイティが現れる。  プールの中から銃口を向けるケイティに対して火炎放射器で炎を浴びせるリック ( 45~47 )。  丸焦げになるケイティ ( 48~49 )。  負傷したクリフを救急車まで見送ったリックは、 騒ぎを聞きつけたシャロンらに事の経緯を話し、 シャロン邸に招かれる所で話は終わる ( 50 )。

 



 第3章  在り得たかもしれない不可能な未来の方へ

 『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』 と同様に、 ダニエル・ファランズの 『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 ( 2019 ) 』 も "if の世界" を描いているのですが 、 それはシャロンの在り得たかもしれない 未来の実人生という if であり、 亡くなった彼女への "鎮魂の映画" という色合いが強い ( 特にラスト ) 。  これに対して 『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』 は "if の映画史"、 シャロンが活躍してかもしれない 未来の映画史という if を描き出す事で娯楽的カテゴリーによる救済を試みたと言えますね。

 

 たしかに、 それら "if の世界" は映画の中での 虚構的現実 であり、 シャロンの幻想の未来を望む願望が具現化されたものでしかなく、 実際の出来事としての現実 ではないかもしれません。  特にシャロン自身にとっては取り戻す事の出来ない悲劇的なものでしかないでしょう。  しかし、 この当人が経験する事の出来なかった未来を、 タランティーノらが引継ぎ、 疑似的に観客が経験する事を可能にした映画的出来事もまた、 "共有経験" というひとつの強力な現実であるのも間違いない のです。  ただし、 このタランティーノ的現実化に、 付き合う人とそうでない人が出てくるのもまたひとつの現実の分裂化として仕方の無い事なのでしょう。