■ 2022年2月24日、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンが隣国ウクライナへの軍事侵攻を開始した。民主主義的観点からはいかなる理由があれこのロシアの侵略行動が非難されるべきなのは当然なのです ( 僕自身もこの立場です ) が、恐ろしいのは、世界中からの非難が起きる事を分かった上でプーチンが軍事行動に踏み切ったという事です。民主主義が多くの市民の声を権力体制に向かわせるのを可能にするものだとしても、プーチンは 民主主義のそのような反権力的振舞いは権力体制に予め組み込まれたもの、体制に内在する反乱分子的要素として最初から織り込み済みのもの、として理解しているが故にそういった抗議に良心の呵責など感じることなどない ( たとえばカール・シュミットはそのような民主主義が自分たちの意思を裏切る逆説的な形で権力体制の構成要因になっている事を見抜いていた )。その声は届いても、予想外の一撃ではなく、体制を構成する予定調和的なものでしかなく、むしろ、それはプーチン自身に自らの権力が現実的に具現化されたものである事の証左であると確信させているといえるでしょう。
■ ここには民主主義を抑圧・管理されるべきひとつの反乱勢力と考える ( 権力体制側の見地から ) 彼の強靭かつ恐るべき政治観念がある ( もちろん、これに賛同している訳ではないと予め言っておきます )。国際情勢における西側諸国、そして脱ロシアを目指す東側諸国との政治的緊張関係、ロシア経済を支える天然資源の西側への輸出などの経済関係、など諸々の状況における利害換算を考慮するならば普通の人間ならば躊躇する所で軍事侵攻への一線を踏み越えさせたのは、政治経済的利害を超える強力な政治観念以外にはありえないでしょう ( ただしこの政治観念に従う事こそが自分を最も満たす利害行動であるという逆説が精神分析的考察から分かる )。
■ 今回の軍事侵攻について、プーチンは年老いたが故に情緒不安定になった、精神状態がおかしくなってしまった、とかいう報道がありますね。たしかにそういう一面があるかもしれませんがそうすると、周辺諸国への軍事的威嚇・行動を止める事のない金正恩、習近平、そして戦争行為のみならず虐殺を行った過去の独裁的元首たち ( ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポト など ) の反民主主義的行為は彼らの気まぐれな狂気によって引き起こされたという話で終わってしまう。しかし、そのような狂気が歴史的に繰り返されてきたという事は、そこには何らかの論理性 ( それが狂っていても ) があるのであり、それは独裁者の個人的気質の中にのみ留まるのではなく、私たち人間集団の根本的在り方の形態及びその限界を背景にして私たち自身を政治的に規定する論理が全体的に働いている という事でもあるのです。それは哲学的、精神分析的に考察する以外には難しいだろうと思い、このような大変な状況ではあるけれども現在多く見られる一般的報道・発信とは違う特殊且つ個人的な考察を行おうという訳です。
1章 国家という政治形象
1. 国家とは何か。政治学、哲学、法学、社会学、経済学、等においてしばしば提出されるこの問いにおいて国家は既にひとつの公平かつ中立的な概念体として扱われている。歴史上の国家形態の現実的変遷に対して理論的考察の系譜がセットで組み合わされ 権力の "具体的抽象物" ( 弁証法の到達点でもある ) である現実的かつ概念的な複合体として国家はその姿を現している のです。
2. しかし、このような歴史的に練り上げられてきた国家概念 ( *A ) が政治家の欲しているものかどうかは怪しい ( *B )。というのも政治家が必要とするのは客観的真理としての国家ではないからです。それは 自らの欲望を刺激し強化さえしてくれる国家という形象 であり、現在的行為としての政治に関わる人間の現在時的欲望を満たしてくれるものこそ 現在時的限定を超えてその威力 ( つまり人間の個人的生を超える ) を保持し続ける歴史的形象物としての国家に他ならない 。その意味で国家とは政治家という人間の欲望の真実としての政治的形象であり、それは、自らの空隙に、起源神話、国家史観、民族、人民、領土、主権、暴力、等あらゆるものを取り込む中身のない形態・形式それ自体としての形象でもあるのです ( *C )。
3. ここでいう形象とは、人間に自分が大いなる現実に繋がっていると夢見させる程の "巨大なもの"、それは マルティン・ハイデガー ( 1889~1976 ) が『 世界像の時代 』において述べた、存在の側から人間に呼びかけ向かってくるという意味での "巨大なもの ( 歴史的建造物など )" であり、そこに国家を含ませるならば、その形象の中には多くの人間がその権力支配によって屈服したきた歴史と世界が保持され残存している ( 止揚されている ) が故に、ある種の人間の欲望を永遠の時間の境位において強力に掻き立てるといえるのです。ハイデガー自身はこの "巨大なもの" の中に国家形象が含まれるとは直接的には言っていないのですが、彼がナチズムの中に一時的にであれ夢みた政治革命が存在の真理を開示するものであったとするならば、それはまさにナチズムが体現した巨大な国家形象 ( 政治権力、行政、建築、映像、軍事、民族主義、反ユダヤ主義、などの諸々の形象を含めた ) こそがその革命への歪んだ情熱を生起させたと考えるのはあながち間違いではないでしょう ( *D )。
4. 国家形象にちなんだ話をすると、ある国で当時の国家元首が国会で野党議員の国家の危機ではないか ( ある状況下において ) という質問に対し「 私が国家だ 」だと言った時、多くの人は国家を私物化する傲慢だとして政治倫理的に非難するか、どうしようもない発言として嘲笑するかの反応をするばかりでその発言が出てくる政治的心理を考えようとすることはなかった。しかし、その発言はまさに政治家が国家という形象に憑りつかれ、その形象と共に自らの欲望を満足させようという欲望の政治化及びその具現化が、一人の人間を超えて政治家という職業家たちに共通する、あるいは彼らが夢想することが可能な心理構造がそこにある という事を意味する ( これは同時に国家についてたいして考えもしない政治家がいることも含まれる )。
5. ここにあるのは、たんなる一人の政治家の右翼的欲望でしかないと括られる単純なものではありません。政治家が自らの欲望をやりたい放題に操縦するという政治領域における倫理が問題になる以前に、政治家以前の "人間という普遍的存在" が自らの欲望を政治家という地位・職業を通じて満たそうとする欲望の暴力的横断性・暴力的根源性が問題になる のです。欲望の脱領域的蹂躙が政治領域に流れ込む過程において、"政治家という地位" がどのような人間にでもその欲望を政治理念で偽装する事を可能にする 訳です。
( *A )
1. このような国家の理論的洗練化の1例としては、ドイツの公法学者 ゲオルグ・イェリネク ( 1851~1911 ) による国家を法学国家と社会学国家に二区分する国家両面説に端を発する国家概念の系列化がある ( ドイツの政治思想における法と国家の対立はヴァルター・ベンヤミンの暴力批判論に至る理論的背景にもなっている )。法学国家の系列にある ハンス・ケルゼン ( 1881~1973 ) は法自体を民主主義における最終審級へと推し上げる事、つまり、法への服従という理論上の暗黙的正義を持ち出す事 ( 純粋法学理論 ) によって、国家が民主主義を揺るがす現実的不安定性に決着をつけることを "先延ばし" する。別の言い方をすると、 法の中に国家を組み込もうとするケルゼンの民主主義的秩序化は国家の権力的現実面を処理する事が出来ずに、法と国家を並行関係にあるもの、極限まで近づくが互いに取り込まれずに反発し合うもの、として理論的に引き離す事しか出来ない。
2. もう一方の社会学国家の系列にある カール・シュミット ( 1888~1985 ) は論敵であったケルゼンとは対照的に、まさに直近の現実的危機を "先延ばし" するばかりの議会制民主主義 ( ケルゼンはその肯定論者だった ) といかなる政治状況にも左右されない法の普遍的妥当性を否定する。シュミットからすると、法に普遍的妥当性があるというのなら、その妥当性は法の根拠が無条件に自己を正当する暴力的権力を隠している、つまり、法は法の無いところから出現したことを、法は法であるが故に普遍的妥当性を持つという同語反復によってその暴力的自己根拠を隠している ( そこには法は無い ) という事になる。シュミットにおいては、そのような法の暴力的出現の根拠ははっきりとしている。それは 国家権力の存在という厳然たる事実、権力の現前性を背景にして出現する。だからこそ、例外状態において、法を含めた諸々の政治が持続させる普遍的定常性 ( 平和 ) が中断された状態においても特権的に振る舞えるのが、暴力的根拠たる国家であり、その人格的形象化としての指導者であるのです。
( *B )
1. カール・シュミットは政治家や国家の "偉大さ …… そして生" という現実に政治理論 ( 学問 ) は太刀打ちできないと断言さえしている。
理論的考察が加えられると直ちに、実践が考察の対象になっている時ですら、[ 理論と実践との間には ]特別の区別があることがわかるのである。従って、国家哲学の方法と関心は、政治生活に何らかの形で実際にかかずらわっている人の方法と関心とは一致しないのである。誰しも、偉大な政治家に対しては賛嘆これ久しうするものではあるが、政治としての偉大さの基礎となる資質とは、法哲学が一歩たちとも踏み込めない領域の中にある。〈 中略 〉。学問は、その概念からして、実際生活とは根本的に対立している。偉大な哲学者であるばかりでなく真に有為な人物でもあったフィヒテは、「 生とは文字通り固有の意味で非哲学化のことであり、哲学する ( Philosophieren ) とは文字通り固有の意味で非生 ( Nichtleben ) のことである 」と ( 1799年の断片の中で ) 述べている。そういうわけだから、その名に恥じない哲学研究はすべて政治に対して有用である場合があるとしても、それは間接的にのみ役立つにすぎないのであろう。
カール・シュミット「 法・国家・個人 ( 1914 ) 」『 政治思想論集 付 カール・シュミット論 』所収 編訳 / 服部平治・宮本盛太郎 社会思想社 ( 1974 ) p.17
( *C )
1. カール・シュミットも国家を脱学問的対象である "形象" として捉えている。それは政治学、法学的カテゴリーの内には収める事の出来ない純然たる政治闘争から出現したイデオロギー具現物といえる。そしてシュミットは政治家はその形象を求めているとまで言い切る。
本書の成果の何たるかを見ると、本書の成果が国家の立場からみて百パーセント肯定されてしかるべきもの ( positiv ) であるという所にあるとしても、それは「 政府 」とも何らかの政党綱領とも関りを持たないものであり、そして、こういったことを察した政治家が考慮すべきこととは、自ら求めている形成中の政治形象もまた国家[ 的な形象 ]となるべきものだ、ということである。
カール・シュミット「 法・国家・個人 ( 1914 ) 」『 政治思想論集 付 カール・シュミット論 』所収 編訳 / 服部平治・宮本盛太郎 社会思想社 ( 1974 ) p.15~16
( *D )
1. ハイデガーは戦後、自分の置かれた政治的立場を考慮して国家的形象を棄却する。このような国家的形象の代わりに浮上するのが、人間の身近なささやかな日常に連なる "人間を素朴さに回帰させるかのような言葉それ自体 ( 道、農夫、思索、等 )" 、"存在それ自体 ( sein の抹消、四方域、等 )" の強調的叙述である。これらは彼が国家的形象から暗黙の裡にいかに距離を取ろうとしていたかを物語っている。しかし、国家的形象でさえ人間概念を定位するのに困難な理論的歴史 ( 2、3章を参照 ) があるのに、それを抜きにして人間を、一見素朴な装いを施した "超 ー 存在論" で以って語ろうとする彼の試みは一部の人間しか理解できない秘教的なものへ化していった ( ただし、それはマルクス・ガブリエルが非難するような理解不能なものではない )。
2. このような人間の概念的定位が存在論でもってしても困難な作業である事は、『 ヒューマニズムについて ー パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 ー ( 1947 ) 』という著作タイトルにもそのまま現れている。これは "国家 ( 形象 )" を長い間持たなかったユダヤ人の "存在" がハイデガーにおける理論的躓きであった事 ( エマニュエル・レヴィナスからの批判、黒ノートに垣間見えるユダヤ人観、等 ) 、つまり、"形象無き民" が政治的主体とは相容れず、ヒューマニズムの普遍的基礎付けを阻害する歴史的存在であり続けた事実をどう考えるべきなのか、ハイデガーはその答えを見出せなかった という事なのです。
3. それはハイデガーが、ナチズムの忌まわしい経験から国家的形象と特定の政治体制を捨てようにもそれ抜きでは人間概念について上手く語る事が出来ないのに実は気付いていたという事、そして、その人間についての普遍的視点からの語れなさは、民主主義の不安定さ、それ ( 民主主義と呼ばれるもの ) がもしかしたら他の政治体制とは違う "未だ政治ではないもの ( 来るべきもの )" であるが故の困難であるのに気付かなかった事をも示している。そこで考えられていない人間とは、現実には政治的次元に強力に拘束された存在であっても、政治的主体ではない、いや、主体ですらないものとしての "非政治的生き方・不可能な政治" を望む多くの者がいる という事なのです ( もちろん、これは現実の政治に対して声を発さないという事ではない )。それと同時に、ハイデガーが隠そうとした 人間概念の政治的定位という存在論の本質 が、今日、ロシアのネオ・ユーラシア思想などの強烈な政治的主張をするアレクサンドル・ドゥーギンにおいて引き継がれているのは決して偶然ではないのです。
2章 政治家という地位
1. 以上のことを念頭に置くなら、マックス・ウェーバーが政治家という職業を疑念の眼で見ていたであろうと読み解けるのではないか。ここで、なぜウェーバーが大人であるはずの政治家にあたかも何かが欠落しているかのように〈 情熱・責任感・判断力 〉を政治家に必要な資質として学生に向けて語らねばならなかったのか ( 彼の『 職業としての政治 』を参照 )、と考え直す必要がある。それは彼が政治家という職業、そしてその職業を目指す人間を信用していなかったからではないか ( ただし彼は権力の支配的暴力がどうしようもなく避けられないことの宿命性に気付いている )。そのような政治家に対する厳しい見方を持たねばならないと未来を担う若者に促す程、その職業の危険性を理解していたからではないか。国家が独占的な暴力を行使する権力国家であるというウェーバーの現実的洞察に従うなら、その国家に自ら携わる人間の欲望がいかなるものであるのか、権力に感化され権力の暴力的行使に自らの欲望の満足を見出す人間の暗部を彼が秘かに危惧していたからではないか、と解釈出来るのです。
2. そして、それはウェーバー自身の欲望にも繋がる。学問に対する禁欲・勤勉的情熱が学問的尊厳の礎となるような純粋な情熱などではなく、専門的領域を聖域化しようとする権力志向と自己称賛が潜んだ欲望である事、それはすなわち、専門家・研究者以前の普遍的人間が "職業という地位・主体形式" を媒介にして抱く根源的欲望に過ぎない事に彼が無意識的に気付いていたと精神分析的解釈に繋がるものなのです。
3. そのような彼の "人間に対する危惧" が現れているのがウェーバーが持ち出す "指導者" という表象です。これは通常、議会制民主主義に蔓延る職業政治家に対置される民主主義における索引者として理解されるかもしれませんが、そうではなく 現実の職業政治家に対するウェーバーの不信・不満が昇華された結果としての "人間 ( ここで政治家ではなく敢えて人間と書いている )" の純化された抽象的理想像だ と考え直すべきなのです。
4. ウェーバーの著作を社会学・政治学的テクストではなく、彼の人間観が学問的方法論の傍らで迂回的に示されていると精神分析的に読むのなら、政治における支配関係、権力の暴力的行使、類型論分析、情熱などのロマン主義的な心理概念、そして政治家・指導者・カリスマ・職業などの主体の地位に関連する表象概念、などの幾つもの叙述的網線の多角的交差は漸進的に近づいているものの、既存の学問カテゴリーでは踏み込むことの出来ない恐るべき空白の対象をその中心に浮かび上がらせる。その対象とは "人間" に他ならない。
5. それはウェーバーにおける社会学・政治学から人間学というべきものへの関心の移行であるというよりかは、社会学・政治学における緻密な分析の積み重ねが、権力関係の中に絡み留められた人間集団の根源に、人間以前の、人間を知らない欲動の暴力的奔流がある事に秘かに気付いてしまったという事なのです。つまり、人間が、民主主義的・人権的理論 ( ウェーバーにも影響を与えたゲオルグ・イェリネクの政治思想など ) の正義的系譜によって倫理的存在として構築される以前に、その雛形が支配的欲望が渦巻く政治権力構造の中で生まれた不安定的かつ不穏なものである という事実によってウェーバーの理性が動揺しているのです。責任倫理と心情倫理、神々の闘争、などの概念は、ウェーバーの人間存在に対する不安、政治的主体ではなければ人間とは一体何なのか、それは禁欲的な倫理によって制御しておかなければ無秩序に向かう傾向を有した生き物なのではないか、という恐れを隠しているともいえるのです〈 続く 〉。
■ 次回 ( 下記 ) の記事 ( 2022 / 04/05 ) に続く