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この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。安易に一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。ここの記事はそういうのとは対極にある。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。
監督 マルコ・ベロッキオ
公開 1967年
出演 グラウコ・マウリ ( ヴィットーリオ 役 )
ピエルルイージ・アプラ ( カミ―ロ 役 )
パオロ・グラツィオーシ ( カルロ 役 )
エルダ・タットーリ ( エレーナ 役 )
ダニエラ・スリーナ ( ジョヴァンナ 役 )
▶ Chapter1 政治と人間関係、そして女性
A. マルコ・ベロッキオの『 中国は近い / La Cina è vicina 』、1967年に公開されたこの映画は、当時、中国の毛沢東による文化大革命に影響を受けたヨーロッパにおける政治抵抗運動の興隆を背景にしている。ベロッキオ自身も、マオイスト ( 毛沢東主義者 ) のグループの政治スローガンだった "中国は近い" を映画タイトルにした と言っているくらいですからね ( 彼自身もこの作品が公開された後の1968年にイタリア共産党に加入している )。
B. もちろん、それは当時の政治動向を作品に反映させたという事なのですが、それはたんにイデオロギー的な作品を作ったという帰結に至るだけでなく、ベロッキオが意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、人間が政治運動に関わる時にその 〈 傍ら 〉 で現れる 〈 人間関係の特徴 〉 を示した、という事でもあるのです。そう、ベロッキオは、政治についての映画を作りながらも、全く別の問題がそこにはある事 を知らぬ間に露にした。真に問題なのは、政治なのではなく、政治を舞台にした 〈 人間関係 〉、 そしてそこから垣間見える 〈 人間的なもの 〉それ自体だ という事です。真のテーマ、真の問題、は表向き示されるもの ( 政治 ) ではなく、そこを舞台にした、いや、それを隠れ蓑にした人間関係だという精神分析的アプローチを彼は知らぬ間に実行しているのです。
C. この作品で政治に関わる男たちは、自分たちが信奉するイデオロギーがいかなる形で実現されるのか、いかなる帰結を迎えるのか、見えていません。そもそも、政治的欲望とは何らかの集団的政治体制の実現であるとして満足するのは、指導層だけであって、それ以外の活動家たちは、イデオロギーに支えられた使命感にむやみに固執するばかりで自分の欲望の行先が見えない、つまり、自分の欲望がいかなる現実の対象に向かっているのか分からない のです。対立するイデオロギー思想の現実化を妨害する事、あるいは信奉する党派の成員である事に存在意義を見出す、しか出来ない。
D. そう、彼らは政治活動の途上において、来るべき 〈 未来 〉に向かう 〈 抽象的信念 〉を支えてくれる 〈 今現在 〉 の 〈 具体的な対象物 〉を見失ったままでいる。報われることもなく、何の現実的保障もない 〈 イデオロギー的信念 〉は、他者との人間関係における主導権を握るという心的領域における偽装工作 を裏書きするものとして出現した 〈 心的派生物 〉だったのです。政治的なものは、他者への心的優位を築き上げる為に利用される 〈 心的イデオロギー装置 〉として機能していたという訳です。
E. そうすると、彼らが本当に望んでいるのは 抽象的な政治なのではなく、政治を通じての〈 別の対象 〉 に至る事なのではないか、と分析する事が出来るでしょう。政治という 〈 抽象的普遍 〉 領域の中で遭遇する 〈 具体的対象 〉。人間関係の心的構築の中で現れる 〈 主体的物象 〉が 〈 女性 〉 であり、その〈 女性 〉といかなる関係を結ぶのか、支配的なのか、従属的なのか、対等的なのか、といった関係構築の類型こそが、イタリア政党間のイデオロギー的対立の類型と重複するかのような精神分析的描写が為されるのです。
つまり、自分はどの政党のシンパであるのかという "政治的選択" と、どの女性と選ぶのかという "性的選択" は、いずれもが政治的であれ性的であれ、その現れ方という点で 自らの欲望の現象に直面する事態 が同時的に起きているという話なのですね。
▶ Chapter2 社会主義者、そして女性
A. この作品は政治的であると同時に男女の関係性が描かれる。 その両極は欲望によって短絡化され結びつき、 癒着する。 物語が始まった瞬間から、 その事が示されています ( 1 )。 男性 ( カルロ ) と女性 ( ジョヴァンナ ) が寄り添って寝ているのですが、 彼らの上方の壁にはある人物の肖像写真が演出上、意図的に掛けられている。
B. 横顔で判別しにくいが、おそらく、この人物はイタリア社会党の書記長であった ピエトロ・ネンニ / Pietro Nenni ( 1891~1980 ) 。同党で最も任期の長い書記長であり、第2次大戦中から反ファシスト戦線に赴き、フランス亡命中にはゲシュタポに捕まっている。その後、イタリアに強制送還され本国の刑務所に入る形で生き延びたが、 彼の娘はドイツの強制収容所に入ったまま亡くなった。
C. そのような政治背景もあって、彼の政治的立場は反ファシズムが色濃く、それを抑え込むための人民戦線を主張して共産主義と手を組むことも厭わなかった ( 彼は生前のスターリンに面会した最後の西側の政治家だった )。しかし、イタリア社会党内には、そのような彼の政治スタンスに反発する者もいて、党の分裂・統合を繰り返した。 そして、1956年のソ連の侵攻によるハンガリー動乱をきっかけした共産主義批判の高まりの中での選挙結果によって、彼は1963年に書記長を辞任する。それと共に、共産主義との連帯関係も消滅していく。
D. この場面に見られる肖像画も、おそらく若き日のピエトロ・ネンニ。この作品は、展開する話の状況説明が無くて分かりにくいかもしれませんが、この後に続く話の流れと、社会党の象徴であるピエトロ・ネンニの肖像画が掛けられているのを併せ考えると、カルロは社会党のシンパ ( 信奉者 ) であり、ジョヴァンナは情事の相手だと分かりますね。ジョヴァンナはカルロに惚れているが、カルロは彼女をそこまでの相手だとは思っていない。ここで示される 愛の不均衡 が、この後のカルロがゴルディーニ家 ( ヴィットーリオ、エレナらの ) で引き起こす 女性関係における混沌 へと続いていき、 最終的には 登場人物たちの政治的立場が錯綜する混乱状況 へと転移していくのです。
E. ジョヴァンナは、 社会党から選挙の出馬を打診される裕福な家柄の中学教師ヴィットーリオの家にタイピストとして働いている。 カルロはシンパでありながらも、 出馬して自分の生活を裕福にしたいという金銭への欲望を持つ男です。 しかし、 党がヴィットーリオをその知名度から選挙に担ぎ出した為、 カルロの夢は叶わないが、 諦めきれない彼はジョヴァンナがヴィットーリオの元で働いているのを利用して、 自分も近づき、 一枚加わろうとする。
▶ Chapter3 共産主義者、そして女性
A. 兄であるヴィットーリオの邸宅内の一室で会合する若きカミーロたち ( 3 )。 彼らは共産主義を信奉しているのですが、 革命について語ると思いきや、 性行為について語りだすカミーロ ( 4 )。 性的な事柄こそ、 日常の中に潜む政治的問題だとして避けられないものだと彼は言う。 しかし、 その内容は 性行為における奇異な唯物的探求の実践 を主張するものだった。性交の相手 ( 女性 ) を催眠効果による官能的高揚に至らせ、 途中でパートナー ( 男性 ) が変わっても分からないまでの快感を得させる、 というものです。 ここの理屈は分かりにくいのですが、 貞操観念などのブルジョワ道徳から人間を解放する政治的意図 が込められていて、 そのための相手として労働者の娘を用意する ( *1 )。
B. 屋敷の中の一室でそのような行為が行われているとは知らないヴィットーリオ ( 5 )。 彼は弟のカミーロと友人が共産主義思想に傾倒しているのは知っているが、 カミーロが自らのブルジョワの血筋を否定する程までに本気だとは思っていない。 だからヴィットーリオは共産主義思想に共感しているのでも何でもなく、 カミーロたちが共産主義思想を唱えるのを興味深く見守っていたに過ぎない。
( *1 )
このような 性的な事柄を政治的事柄に接続させる短絡性 は、 政治行動の原動力である 〈 人間の欲動 〉が性的欲望以前の原初のものであり、 性にも政治にも分化していく共通のエネルギー的基盤 である事を示している。 ここでカミーロが言及する性的技巧は、 古代中国から伝わる〈 房中術 〉 だと思われる ( おそらく、コレージュ・ド・フランスの中国学教授であった アンリ・マスペロ ( 1883~1945 ) の道教に関するテクスト、 それも性行為の技法を説明する箇所、を経由した )。 道教が対象としてきた性的エネルギーが、 古代中国において既に政治抵抗運動を引き起こす源泉であった事を ロバート・ハンス・ファン・フーリック ( 1910~1967 ) は次のように指摘する。
性的関係により男女がその生命力を増すという考えは、集団的神がかりの風潮をもたらし、それがさまざまな時期に中国の民衆に根深い運動を起こさせ、多くの全国民的規模の宗教運動や政治的反乱のもととなった。道教徒の派の中には、一団となって性的修行にとりくむよう宣伝することによって団員を神秘的エクスタシーにかりたて、戦場において自分は不死身で不敵であると思いこませるものもあった。道教の性的修行に根ざすそのような全国民的宗教運動の早い例は、後漢王朝の没落に手をかした黄巾賊の乱である。
『 古代中国の性生活【 先史から明代まで 】』R・H・ファン・フーリック / 著 松平いを子 / 訳 p.119~120 せりか書房 ( 1988 )
西暦二世紀の終わり頃には、道教教団は張角という高僧のような存在を頭に戴き、その兄弟の張梁と張宝が補佐していた。張角は不死の霊薬を得たといわれ、限りない魔力を有すると信じられていた。
宮廷における宦官グループによる失政の末、経済状態は悪化し、不満が広がった。その頃破滅的な疫病が国土を襲い、張角とその信徒たちはまじないで病をいやすことができるという評判を得た。多くの人々が群がり集まってきたとき、張角は反乱を起こし、漢王朝を倒して新しい道教国家を打ちたてることを決意した。神秘的熱情が大衆をとらえ、男も女も足並みそろえて進む強力な道教徒の軍隊が国内の各地に起ち上がり、異常な速さで後一八四年には国内の広い地域を占めた。かれらは黄色の頭巾で頭を巻いていたため黄巾賊と呼ばれた。
『 古代中国の性生活【 先史から明代まで 】』R・H・ファン・フーリック / 著 松平いを子 / 訳 p.122 せりか書房 ( 1988 )
C. カミーロたちは毛沢東主義者として中国に抱いていた憧憬を 性の領域 にも拡げていったのですね。 性的欲望に 政治的大義 を与える事で、 性行為の社会的実践を正当化しようとした。 その中国への憧憬を、 性行為の技法が述べられている古代中国の房中術について書かれたテクストに転化し、 利用したという訳です。
▶ Chapter4 中国は近い
A. ヴィットーリオが社会党から出馬すると知って失望したカミーロたちは夜中にヴィットーリオを社会党事務所まで連れていき、 シャッターに "La Cina è vicina / 中国は近い" というスローガンをペンキで塗りつける ( 7~10 )。 騒ぎを起こすことによって社会党から出馬するはずのヴィットーリオがマオイストたちと関係があると知らしめて、 彼を困らせる報復をしたのですね。 巡回中の警官に見つかってしまい、 焦ったヴィットーリオは警官に金を握らせて黙って立ち去るように説得する ( 11~12 )。
B. カミーロに自分の政治的スタンスを理解してもらおうとするヴィットーリオ。 そもそも自分は政治的に中立なのであって共産主義に固執しているのではないし、 あくまでカミーロたちの行動を父親のつもりで見守ってきただけだ、 と。 今回、 社会党からの出馬要請があった事で、 政治的に何かを為すには一人では何も出来ないし、 政党に所属する必要があると思い、 応じたのだ、 と説明する。 しかし、 カミーロは納得しない ( 13~16 )。
[ 以下の記事へ続く ]
▶ マルコ・ベロッキオの映画『 中国は近い 』( 1967 ) を哲学的に考える〈2〉