『 BS1スペシャル 欲望の資本主義2022 成長と分配のジレンマを超えて 』より
1章 マルクスに同意しなければ先に進めないのか?
1. 2022年元日に、NHKの番組 『 BS1スペシャル 欲望の資本主義2022 成長と分配のジレンマを超えて 』の中で、斎藤幸平とトーマス・セドラチェクの対論が行われていた ( 彼ら以外にもヤニス・バルファキスやアンダース・ボルグなども登場する ) ので興味深く見させてもらったのですが、その感想は残念だとしか言いようがないものでした ( 期待していただけに )。何が残念かと言うと、その議論の内容というよりかは、斎藤幸平の思想家としての脆弱さが浮き彫りになった事 です ( 逆に言うと運動家としての揺るぎない本質が明らかになったともいえるのですが )。彼は思想家としての立場を語る自分の言葉、考え抜いた哲学的説明、が余りにも足りなさ過ぎて、もうセドラチェクにその事を見透かされていましたね ( 彼は斎藤に対して机上の空論という言葉さえ発したくらいですから )。
2. つまり、斎藤自身が、自分を何者として位置付け発言しているのか、極めて曖昧であるという事です。彼のみならず、マルクスの再解釈とその再普及化に携わる今日の研究者・思想家達の特徴は、一昔前の共産党系の過激な政治運動とは一線を画し、より市民的な顔を装ったソフトなものになっているという事です ( しかし、実は斎藤はソフトではない )。そのような路線が駄目だという事ではありません。それはそれで構わないでしょう。
3. しかし、そこで確認しておきたいのは、彼らがどのような立場でマルクスを語っているのかという事です。今日、よく言われるのは、中国、ロシア ( かつてのソ連も含めて ) などの共産主義国家はマルクスの思想とは別物の変種に過ぎないという事ですが、この時、ここに含意されているのは、マルクスの思想の中には実現されるべき何か、来るべき何かというような未来において具体性に到達する事が可能であるかのように思わせる胎胚された理念がある、というものです。
4. しかし、マルクスの中には社会を変えていきたいという思いはあっても、資本主義に代わる具体的内実性を伴った新しい社会についての具体的記述はないのです ( よく知られた事ですね )。彼の中にあったのは、唯物史観による社会発展の法則を信じて資本主義を分析し尽くすことによってその発展的破綻に加担するという行為それ自体だったのです。それはマルクスでさえ資本主義の内部にいるからこそ、その中で語る新しい社会は何処まで行っても "資本主義の夢" でしかないが故に語る事が現時点では出来ない不可能な社会 なのです ( そこで語られる言説はいかなるものであれ、資本主義内部に現に存在する事で可能になっている限定化を免れていないという意味で )。
5. このような理論的袋小路こそ、斎藤が哲学的で難解な抽象論に傾倒したといって切り捨てるかつてのマルクス主義者たちの取り組みを切り開かせたものだったのに、彼はそれについて言及しない ( あるいは言及するだけの力がない )。この理論的袋小路、つまり、"矛盾" の存在論的地位を巡って哲学的抽象論は作動する のです。
6. 矛盾というものが、資本主義内部の均衡を調整する予定調和的な同一性的付属物なのか、それとも、資本主義内部には限定されず "次" を予兆させる普遍的異物なのか、それが問題なのです。矛盾を新しい社会を切り開く普遍的異物として考えるには、それなりの哲学的抽象性を以て取り組まなければ資本主義内部的言説に瞬く間に取り込まれ消滅してしまう。哲学的抽象性を否定する斎藤は自分がそこに取り込まれているのに気付いていないのですね。
7. 実際、斎藤の提示する環境問題、コモンの概念などは必ずしもマルクス思想の下で考えなければならない必然性は何処にもないのです ( ただ晩期のマルクスがそういうことを考えていたというだけであって )。マルクスに同意せずに、つまり、資本主義を否定せずに、環境問題・コモン・地域経済・労働、等を考える人達を彼は否定するのでしょうか。もしそうであるのなら、なおかつ先人のマルクス主義者達の抽象的理論性を否定するのであるのなら、彼の語るマルクスとは一体何なのかという話になりますね。
2章 資本主義的マルクスという遺産
1. では斎藤の語るマルクスとは何なのか。これについては対論相手のセドラチェクが明らかにしてくれます。今回の番組は、一般の視聴者からすると、資本主義の中での改革を提言するセドラチェクと脱資本主義を唱える斎藤は、資本主義者 対 反資本主義者 という図式で捉えてたかもしれません。
2. しかし、実際はそうではなかったかもしれない、以下で述べていく下りも含めた色々な意味で。というのも、斎藤自身が自分マルクス主義者だと自認していても、セドラチェクが斎藤を純粋なマルクス主義者 ( そんなものが可能であるというのなら ) と認めていたとは思えない からです。セドラチェクは環境問題は資本主義が引き起こしたものと認めながらも資本主義というシステムに問題があるのではなく、そのシステムの中で解決しなければならないという ( 1~8 )。
3. これは極めて現実的振舞いだといえるでしょう。セドラチェクは、ここで共産主義を政治体制として非難するだけなのではなく、物事の解決方法とその共有化が資本主義において生み出されている とも言っているのです。つまり、公共性・共有性の自律性は資本主義においてこそ可能になっている と言外で示している訳です ( それらは共産主義では中央集権的権力によって上から実行されるだけだということでもある )。言うまでもなく、そこには斎藤のコモンの概念が脱資本主義的なものとして語られているのにセドラチェク自身が疑義を抱いている事が含まれている。
4. その公共物の例として、セドラチェクは "空気" を挙げる。もちろん、彼がここで空気の例を出すのは、斎藤が環境問題について語っているのを知った上での事 ( 9~12 )。かつてのチェコスロヴァキアは東欧諸国の中でも有名な工業国であったが故に環境が汚染されていた事 ( 他の社会主義諸国も環境汚染はあった ) と、共産主義政治体制において人々が自由に政治的発言が出来なかったのを空気を吸えない状況だとして両方を掛けている訳です ( 13~18 )。
5. ここで二つの意味を掛けた空気の例を出してたセドラチェクは無意識的メッセージを斎藤に投げかけているとも解釈出来ますね、あなたの唱える主張は資本主義的なものであり、あなた自身も否が応でも資本主義者ではないのか、それなのに、なぜそれを否定してマルクス主義者であるかのように振る舞うのか、と ( だから彼は斎藤に対して机上の空論という言葉を使っている )。しかし、斎藤の方はそこに含まれた政治的メッセージが自分の政治的立場に向けられたものだという事に気付かずにスルーしている。話すことが出来るのに、話せない。そこには斎藤に "空気" を吸えなくさせているアカデミックな権威象徴としてのマルクスへの無意識的依存があるといえるかもしれません。
6. もし、セドラチェクに従うならば、今日、マルクスの遺産を継承し活用することは、資本主義というシステム自体を否定する特権的なものではなく、資本主義の中で生きていくしかない現実の中にいる私たちの状況を改革するための選択肢を豊かにする一つの重要な要素でしかない のを認める必要があるでしょう。それを日和見主義だと言う人もいるのでしょうけど、そのような人でも資本主義に代わる社会の全体的見取図を具体的に描けるわけではない事が全てを物語っている ( マルクスでさえそうなのですから ) のです。資本主義が最良のものではないのは明らかだとしても、別の新しい現実があるかのように思わせるのは宗教的思想でしかないし、ましてや資本主義を脱すれば環境問題が解決されるかのような示唆は到達されることのない目標を語っているようなものです。
3章 セドラチェクに対する斎藤の反応
1. 今回の対論、そして後日の斎藤の twitter 上での発言を見て気になったのが、セドラチェクの発言を余りにも解釈出来てなくて ( 表面上は聞いている素振りは見せていたけど )、斎藤が終始、自分の主張の定型的説明を繰り返すばかりだったという事です。もちろん、セドラチェクの主張が全く正しいということはないからこそ、そこを突っ込んで問題にすべきだったのに、そこまで持っていくだけの力が無かったというべきなのでしょうか。
2. 例えば今回の対論の中でコモン ( 共有物 ) について語る際、セドラチェクは、ギヤレット・ハーディンが1968年に発表した『 コモンズの悲劇 』という論文に言及するという一幕があったのですが、話の流れの中で考えれば、彼はこの論文で語られる事例の学問的精度を問題にしているのではなく、コモンという概念の存在論的地位 について考えるための契機として持ち出したと分かるはずです。この場合のコモンの存在論的地位とは、それが脱資本主義的なものとして考えるべきなのか、それとも、必ずしもそうではなく資本主義内部のものとして考えられるのか、という事であり、セドラチェクは明らかに議論をその方向で考えていたのに、斎藤はコモン ( common ) をその語形からコミュニズム ( communism ) へと単純に延長させた上で考えた脱成長経済を唱えるという彼の既存フォーマットに沿うだけで議論を拡げられなかった。
3. 挙句の果てに、後日 twitter でハーディンの『 コモンズの悲劇 』はもう古い。エリノア・オストロムの『 Governing the Commons ( コモンズを運営する ) 』( 1990 ) こそ定番だなどという議論の流れを無視したズレた対抗意識を示す有様です。それを今、言ったところでその時に議論を哲学的に拡げられなかった事実に変わりはないというのに。ましてや番組内でのセドラチェクの話を聞いて共産主義体制下で苦労したんだなと思った人に対して、そんなことはない、彼は今、超一等地に住んでいるなどという野次馬的ツイートをしたり、富裕層をクソ呼ばわりするなどのような運動家的煽りは本気でしているのだろうかと思いますね。自分と合意点を形成出来ない者に対してのこの振舞い … 。このような人が、分かち合いや助け合いの相互扶助、人生の豊かさ、などと平気で言えるのは凄いメンタリティだなと思いますよ ( しかし、それは彼の人間性ついての話であり、彼の提示する "見取図のようなもの" が全く駄目だという話ではないと言っておかなければ公平ではありませんね )。
4章 隠された共産主義的欲望
1. 結局の所、以上のような事も、彼が思想家として物事を突き詰めて抽象的に考える事が出来ていない事を示している。コモンやアソシエーション、原古共同体、等を脱資本主義的なものとして提示する彼の話を聞いていると、まるで、誰も、国家も、手をつけていない未開拓の "大地" にこれから作られていく新しい社会の建国の地平線を描いているかのように思えますね。
2. しかし大地にはもう資本主義登録の網目が張り巡らされていて ( これは既にドゥルーズ=ガタリが『 アンチ・オイディプス ( 1972 ) 』で分析している ) ゼロから何かを起こすことは出来ないのです。物事の途中・中間からしか私たちは行動することが出来ない という事は、コスト、権利、税制、貨幣、そして既存権力、など諸方面において資本主義的体制と折衝・接続する中でしか生きていけないという事であり、その中で人間が生きていくためには、コモン及びその共有行為・共同体でさえも、資本主義の萌芽としての必要な集団的権力性である、とさえいえるのです。それは人間がどうしようもなく資本主義的である事を意味する。
3. 実は、この、途中からしか私たちが行動する事が出来ないという哲学的示唆を、斎藤自身が対論において気付かぬうちに反故にして、私たちの "行動の自由" を無意識的に否定してしまっている 興味深い以下の場面があります ( 23~30 )。
4. 労働時間の短縮の話になった時、斎藤は資本主義では皆、奴隷のようにずっと働かざるを得ない状況に陥っていると言うのに対して、セドラチェクはそうである必然性はなく誰もが森の中でジャガイモを育てて暮らしてもいいと反論する ( 22 )。つまり、彼は資本主義では誰もが そういう実験をする行動の自由がある と言っている訳です。
5. セドラチェクは、この "行動の自由" を森の中でジャガイモを育てて暮らすという例で比喩的に示しているのに、なぜか斎藤は森の中の土地は私有地であるから自由には出来ないと "法的規制の事実" を持ち出し、比喩を通じて "行動の自由" を示そうとしたセドラチェクの主張を事実性の次元で打ち消してしまう。驚く事に斎藤は、全ての土地が私有地ならば、そのような行動は想像すら出来ないとまで言ってのける ( 26 )。彼はここで 自分の発言が無意識的に人々の行動の自由を否定している事の重大性を理解出来ていない のです ( おそらくセドラチェクに形式的に反論しようという気持ちが強すぎて )。
6. ここでセドラチェクは驚いている ( 正直、僕も驚きましたね ) のですが、それは斎藤の発言がそれまでの彼の主張を無意識的に否定する 共産主義的統制欲望の本性を秘かに露にしている からです。セドラチェクは驚き過ぎて、土地が共有物でなければ人々は行動してはいけないのか、行動する自由がないのか、という意味を込めて "土地は共有財産であるべきだと言っているのですか?" と問う程です ( 27 )。
7. おそらく、この場面からセドラチェクは斎藤に対する見方が変わってきている。それまではセドラチェクを始めとして多くの人 ( 僕もそうですが ) は、彼の事を現代的なソフトなマルクス主義者であるが、その正体はアカデミックなマルクスを標榜する資本主義者に過ぎないとある意味、高を括った見方をしていた ( この記事の冒頭でもそう書いた ) のが、実はそうではなかった。彼は若いながらも、人々の行動を資本主義を乗り越えるために計画的に統制しようという共産主義的欲望を隠し持った人物だ ( マルクス主義者というより "共産主義的人間" というべきかもしれない ) という事です。彼が自分の欲望に気付いていないのか、それとも十分意識していて表に出さないように用心しているのか、は分かりませんが。
8. だから彼がコモンやアソシエーション、地域共同体、等を資本主義を乗り越えるために必要なものだとしてソフトに説明する時、実は、人々がそれらに向かわなければ資本主義は乗り越えられない、それ以外の行動はあり得ない、というマルクス的行動原理を普遍化させようという共産主義の強制的・統制的欲望がそこには潜んでいること に注意する必要があるのです。
9. もちろん、だからそういう方法は駄目なのだという事をここで言いたいのではありません。彼の提唱するものの内のどれかは、現状を打破する上で上手く機能する可能性もある訳です。ただ私たちが注意すべきは、彼の提示する "見取図的なもの" は、資本主義を改善する為に多重的・同時的に用いられる諸々の方法の内のひとつだとしておかなければならないという事です ( 彼だけではなく誰が唱えるものであっても )。それを唯一のもとするのはリスクが高過ぎる。
10. たとえ現状の政治経済体制が、歴史のある時点において時の権力によって偶然に用いられた統治機構・装置の継続的使用で成立しているに過ぎないからといって、その弊害を取り除くために政治経済体制を転覆させる事はさらなる混乱・災厄を引き起こす可能性が高い のです。それでも構わないというのが革命であり、共産主義という実験であるのですが、今日、それに同意することがどれだけ危険なのかよく考える必要があります。そのために犠牲になっても構わないという政治的大儀に魅かれる人もいるのかもしれませんが、それこそ権力によって緊急状況下 ( 戦争、革命、テロ、等の ) において利用される考え方である事は私たちは知っておくべきでしょう。だからこそセドラチェクは共産主義について "ラディカルな実験をするのは本当に危険です" と言っているのですね ( 31 )。〈 終 〉。
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