〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マルコ・ベロッキオの映画『 中国は近い 』( 1967 ) を哲学的に考える〈2〉

 

 

 

 



 第4章 打算的意図による肉体関係、あるいは性的欲望による肉体関係


▨  ヴィットーリオの "会計士" として雇われる事に成功したカルロは、 ヴィットーリオの姉 エレナと肉体関係を結ぶ ( 17~18 )。 これは、 裕福なエレナと関係を築いて経済的な恩恵に与ろうとするカルロの打算的意図が働いた肉体関係。 そもそもが会計士という肩書での接近自体がヴィットーリオの資産を把握しようとするカルロの卑しい心性を表わしている ( それに作品内で、 カルロが会計士として真面目に働く場面は全く出てこないですからね )。

 

 

▨  カルロとエレナの肉体関係場面を見たヴィットーリオは、 仕事中のジョヴァンナにその事を話してしまう。 憤慨しつつも性的刺激を受けたヴィットーリオは、 ジョヴァンナに好意を打ち明け、 "淫らな性的欲望" から肉体関係を求めようとする ( 19 )。 一旦は拒否したジョヴァンナだったが、 エレナと絡んだカルロへのあてつけとしてヴィットーリオと肉体関係を持ってしまう ( 20 )。

 

▨  カルロの子供を身籠ったことをヴィットーリオに伝えるエレナ。 動揺するヴィットーリオ ( 21 )。 一方、 カルロもエレナを妊娠させてしまったことをジョヴァンナに話す ( 22 )。 彼はジョヴァンナにエレナの側にいて様子を見てほしいとお願いするが、 逆に自分もヴィットーリオの子供を身籠ったという驚きの告白をする ( 23 )。 妊娠をきっかけとした自分との結婚でゴルディーニ家において主導権を握ろうとするカルロの目論見に気付いたエレナは、 中絶手術を行おうとする ( 24 )。 しかし、 当時のイタリアは中絶が法律的に認められておらず ( イタリア社会党も反対していた )、 カルロが手術現場に神父を連れてきて罪の意識を煽らせたこともあって手術は断念される。

 

 

▨  カルロとエレナ、ヴィットーリオとジョヴァンナ、 この2組のカップル ( 組み合わせ ) の並行関係が面白いのは、 彼らが抱える性的欲望という観点では、 既にブルジョワ貞操観念はとっくに失われている事を示してる点にあります。 かといって彼らは純然たる労働者階級の象徴でもない。 そうすると、 彼らは、 いかなる境界や区別も乗り越えて淫靡な性行為を為す事に何の罪悪感を抱かないブルジョワの真の姿を表した存在なのです。 心の底ではそのような卑猥な性的欲望が秘かに維持される状況を望んでいる が故に、 建前としての道徳観念を必要としているといえるのです。

 

▨  つまり、 ここには3章で述べた、 カミーロの 性に対する共産主義的欲望、 現行の政治体制を本来なら破壊する潜在力を備えた欲動 ( リビドー ) を、 卑猥な性的欲望の方にしか道を開かないブルジョワ的道徳を否定する欲望 が反転した形で現れている。 カルロたちは自分の個人的立場、 個人的欲望、 を維持する為の政治体制を望んでいるのに過ぎないのであって、 自分たちの立場を揺るがしかねない政治改革などは望んでいないのですね。

 



 第5章 対立関係から各党団結という日和見主義へ、ただし共産主義は除いて

▨  カルロによって自分の家族状況が壊れてしまうと考えたヴィットーリオは、 彼を追い出し距離を取った。 しかし、 カルロ以上に打算的なヴィットーリオは、 選挙に出馬しとうという大変な時期にいる自分はジョヴァンナと結婚することは出来ないと、 再び出会ったカルロに相談する。 彼が言うには、 ジョヴァンナが本当に好きなのは、 カルロなのだから彼女と結婚すべきだ、と ( 25 )。

 

▨  もちろん、 ヴィットーリオが望んでいるのは、 本気では愛していないジョヴァンナとの結婚ではなく、 政治家になることであり、 そのために妊娠しているジョヴァンナの扱いに困ってカルロに任せうるという身勝手なものでしかないのですね。 これに対し、 カルロは既にエレナとの結婚を決めていると言う。 ヴィットーリオはやや驚くも、 話を進める。 会計士ではなく、 自分の選挙活動の支える秘書として雇おうとするのです。 問題のあるカルロでも、 相談できる人間となったら他にいないという事なのですが、 こんな所にもヴィットーリオの政治的日和見主義のスタンスが表れている。

 

 

▨  選挙集会で演説するヴィットーリオ ( 26 )。 それを見守るカルロ ( 27 )。 そこに仲間とと共に数匹のシェパードを連れて現れるカミーロ ( 28 )。 それぞれの男たちのスタンスが混乱の様相が訪れるのを予感させる。

 

▨  ヴィットーリオは、 自分は支持政党を度々変更してきた転向者だとして非難されてきたが、 渡り歩いたからこそ言えるのが、 各党のたんなる連立ではない、 協調的同盟こそがイタリアの政治的牽引力であるべきだ、 と言う。 それこそが真の民主主義であり、そ の実現のために自分は社会党と結婚したと言い切る。

 

 

▨  ここで面白いのは、 ヴィットーリオが各党の譲れない基本的イデオロギーなどに拘らず、 そんなものよりも大事なのは同盟関係を築くことだという民主主義的穏健 ( 皮肉な言い方をすれば日和見主義 ) という 政治的形式自体 を自らの政治スタンスの核としている事です。 一見最もらしいのですが、 もちろんこれは選挙での過半数を握るためのプラグマティックな打算であり、 内実性はなくとも、 それを政治的理想であるかのように上書きしているのですね。

 

▨  そうすると自らの政治イデオロギーに拘る共産主義は除外される事になり、 ヴィットーリオの演説自体も、 社会党書記長ピエトロ・ネンニがファシズム対決の為に推し進めてきた共産主義との親密性を放棄しようとする当時の社会党の趨勢 ( 1956年のハンガリー動乱での政治的介入を行ったソ連の行動への非難など ) を反映したものとなっている。

 

▨  演説会場での攪乱行為のため、 シェパードを解き放ち、 壇上の社会党関係者たちに襲いかからせるカルロ。 会場は大混乱となる ( 31~34 )。 ここでベロッキオは政治的博日和見主義の内実の無い欺瞞を晒そうと、 ヴィットーリオとカミーロの兄弟対立 ( 兄弟であるからこそ対立の根が深い政治的相違 )、 ヴィットーリオとカルロの打算的協調 ( 自分の欲望や野心の為なら党のイデオロギーには拘らないブルジョワ性 )、 という 人間関係軸を交錯させる事によって政治的混乱を象徴的に描き出している のです。

 

▨  演説会場での混乱場面は、 唐突にエレナとジョヴァンナが向かいあってマタニティー運動をしている場面に切り替わる ( 35 )。 ここでエレナが見ている一冊の本は『 Sarò madre. La donna dall' adolescenza alla maternità. / 母親になる。思春期から母性へと至る女性 』というものですが、 この本自体は女性の妊娠・出産について医学見地から書かれたもの ( この本の著者の一人である Giuseppe Micheletti は1946年に起きたクロアチア内プーラのヴェルガローラ虐殺というテロ事件で負傷した人々を自身の子供も死亡したにも関わらず必死で助け続けた事で知られる ) であり、 政治に直結するものではない。 そうするとここでのベロッキオの政治的意図は象徴的なものであり、 "maternità"、 英語で言うと "maternity"、 つまり、 母性という意味の言葉の語源であるラテン語"mater ( 母 )" を語幹とする "materialismo ( 唯物論 )" へと向かっていくという あくまでも示唆的なもの だといえる 。 男たちの失敗した政治的同盟に代わる具体的な何かを描くことは出来ないが、 それまでは友好的ではなかったエレナとジョヴァンナが妊娠をきっかけに強力的になるという変化の中に、 共産主義の理論的源泉でしかなかった "materialismo ( 唯物論 )" の新しい協調の可能性 をベロッキオは込めたのだと考えられるでしょう〈 終 〉。