It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 5 〉

 

 

前回記事からの続き

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第7章  〈 戦争 〉 と 単独物としての 〈 人間 〉

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 戦争の中でこそ生きる軍人と戦争を拒否する市民。ここで既に市民という概念を導入していますが、これはルソー / カント的な意味での市民、国家統治に一般的同意はするが盲目的に服従する者ではなく、意志の自由な使用が保障された普遍的人間性を含意する市民 のことです。この場合は戦争を推進する国家に対して、外面的には仕方なく従いながらも、内面的には抵抗しようとする "意志の分裂的現れ" が起きている場所が問題となる。つまり 国家統治に一般的同意を与えざるを得ない集団人民としては従属という "政治的意志 ( 一般意志 )" を持つが、その国家の為に自らの命を差し出さねばならない事については同意出来なくなる "特殊意志" が個人において現れる。

 

 ここで重要なのは、一般的に考えられるように、特殊意志の総和から一般意志の全体性に向かうような順次段階的道筋は論理的幻想に過ぎず 現実には 一般意志の全体性圧力による部分的な個体に対する抑圧化覚醒を引き起こす現象 が、局所的頻発性として全体性自身を揺るがすかのように "一般的化されている" のです。個人が全体性の表象である事を抜け出して 個人が個人であるという脆弱な単独性、個人が個人である事の不安定的同語反復 においてこそ全体性が部分において止揚される自由が特殊意志として現れる。何の全体的保護のない自らの実存のみを拠り所にする存在論的的不安定性、こそが個人が真に "独りで" 自分に向かい合っている "事実性 / 経験性 / 人生" を証明する。国家を保護膜とする軍人よりもこの市民的個人性の方こそが、国家統治に翻弄される個人の脆弱な運命を通じて露呈される "人間概念一般性" へと接近させてくれる。

 

 軍人が戦争という全体的危険性に伴う死の欲動の高まりに魅了される "滅私的個体" であるのならのならば、市民とは、滅私性を要求する全体性こそが逆説反照的に個人の生存欲求を高めてしまう "私存 ( 保存 ) 性個体" だといえるでしょう。それは政治以前の日常個体の単なる存続などではなく、滅私性を呼びかける全体性が、日常個体に対して "疑似独立個体形態" のイマージュを逆説的に与えてしまう事で発動される個体の自己固執化の結果物、すなわち、"単独物の誕生" なのです。

 

 現実物である日常個体が、自らの存在の真理 / 確実性を自らに問いかけようとする哲学的身振り ( ハイデガーが 『 存在と時間 』 で繰り返し強調する思考の基本的特徴である自己言及的問いという身振り ) それ自体が既に 個体内由来ではない外部的全体性からの反照行為 であり、その行為は 外部性の個体内部への移植 / 定着化現象 なのです。 それは 外部的全体性が部分性に掛ける圧力自体が、 部分性の自己覚醒としての架空単独物の出現 ( オリジナルのないコピーによる疑似本歌取り ) を呼び起こしてしまう という極めてパラドクシカルな出来事だといえる。 おそらくはこれこそが神山健治の『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』という個人が全体性の中には完全に取り込まれず隣接的に存在する奇妙な状態を表わすタイトルから浮かび上がる哲学的真理かもしれない。 さらに『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX  ~ The Laughing Man ~ 』は J・D・サリンジャーを引用してきた伏線がこの真理の回収の為である事を最後に示している ( これについての詳しい話はまた別の機会にしましょう )。

 

 全体的統治の袋小路の結果、生じる部分性 ( 個物 ) の覚醒 こそが人間という新たなる個物の到来であるのなら、それは当然国家には完全には服従しないし、全体性の中への滅私行為に欲望の満足を見いだす軍人とは対極的な抽象物となる。この意味でカントが "世界市民" と言う時、通常は彼が考えた国際法と関連付けられる哲学的理念、道徳的理念、というように凡庸に理解されるのですが、潜在的にはカントはもっと過激な概念として提唱している ( その潜在的過激性は精神分析家のジャック・ラカンが 『 カントとサド 』 で見抜いていた )。悪知的な野蛮性 ( 戦争を繰り返す行為などの ) が散見される現実の人間を乗り越えるべく、道徳性を装備した "理想人間" に成らなければならないというパトローギッシュな自己強制 こそがカントの哲学的試みなのです。この場合、"パトローギッシュ" とはカント信奉者が言うような "情念的な" というオブラートな概念であるよりかはラカン的ニュアンスである "病理的な" という方が相応しいでしょう。『 人倫の形而上学 』等で うんざりするくらい繰り返される "道徳の自己強制の義務" は論理内範疇を超え出て "超自我による異様な強制命令" と化している 事は読み取れるのですから。

 

 そのような超自我による強制命令の叙述は、実際の人間が不道徳であるのが真実だと分かっていても、カントにとっては思想史的には人間は "国家属民" として以外は未だ十分には練り上げられていない "個体概念" だった事を意味する ( ここには日常の人間に対する彼の "秘かな哲学的見下し" も含まれている )。 だからこそカントの著作には 『 世界市民という視点からみた普遍史の概念 ( 1784 ) 』、『 人類の歴史の憶測的な起源 ( 1786 ) 』、『 人間学 ( 1789 ) 』 のように、日常的人間ではなくミシェル・フーコーを先取りしたかのような 歴史の結節点としての "人間概念それ自体" を構築する身振りが現れている のです ( * )。  このような人間についての考察は啓蒙時代の思想風潮のひとつだとしてアカデミックな研究は片付けてしまうのですが、そのような理解の仕方は現代が人間について真剣に考えようとしないシニカルな時代でしかないのを暗黙の内に語ってしまっている。人間概念について真剣に考えようとする姿勢は思考行為の誠実さの度合いに通ずるのですが、残念ながら現代ではそのような思考行為への深入りは失われ、出来るだけ深く考えないようにして考えるというシニカルな知性 が広く行き渡っているのです。

 

( * )

このような日常的人間と世界市民の区別、人間概念それ自体の考察、についてカントは以下のように言う。

 

 世界の中に生じていることに対する関心という点で、われわれは二つの立場をとることができる。 すなわち、俗世の子 Erdensohn の立場と世界市民の立場とである。 第一の立場にあっては、自分の商売と、それから自分の安寧に影響を及ぼすような事柄のほかには何らわれわれの関心を引かない。 第二の立場にあっては、人類とか、世界全体、事物の起源、事物の内的価値、究極の目的といったものが、少なくともそういうことについて好んで判断するに足るほどには、われわれの関心を引くのである。

〈 中略 〉。 俗世の子は、自分自身の中に十分な素材をもってはおらず、自分を取り巻く人々や事物にへばりついているのである。 法律家たちはめったに地理学とか政治を好むものではない。 宮廷の人々も俗世の子である。 世界市民たる者は、よそ者のごとくにではなく、その中に住む者として世界を見なければならない。 世界観察者ではなく、世界市民でなければならないのである。

 人は、しばしばあまりに狭い概念しかもたないために、また、あまりに狭い心根しかもたないために、俗世の子となっている。

 

カント全集 15 『 人間学遺稿 』 カント / 著 高橋克也 / 訳 p. 402~403 岩波書店 ( 2003 )

 

ところで世界のうちにあって人間がそうした知識や技術を活用することのできる最も重要な対象は 人間 にほかならないのだが、それは人間が地球〔 世界 〕の被造物のごく一部をなすにすぎないにしても、人間はその種から判断して理性を賦与された地球上の生物であると認識することは、特別に 世界知 と呼ばれるに値するのである。

〈 中略 〉。 生理学的な人間知は、自然が人間をどういう風に形成しているのかの究明に向かうが、実用的な人間知は、人間が自由に行為する生物として自分自ら何を形成するのか〔 実用実践 〕、または人間になす能力があるがゆえになすべきものはなにか〔 道徳 〕、の研究に向かう。

 

カント全集 15 『 実用的見地における人間学 』 カント / 著 渋谷治美 / 訳 p. 14 岩波書店 ( 2003 )

 

 

 このような意志の分裂状態が起きている個体の "袋小路" においてこそ、国家に従属する人民ではなく、国家を超えて繋がる事の出来る "普遍的人間 / 世界市民" が "理念" として現れる。戦争という物理的暴力が人間の "全体化" をもたらすのに対して、理念という世界性は人間の "普遍化" をもたらす ( 全体化に対する普遍化 )。誰かや何処かの国家に人間の独占的支配を行なわせる全体性の疑似論理 ( 本当は局所性論理に過ぎない ) に対して、世界という理念は、まさにそれが最高度の抽象性である事によって 特定の国家占有を脱した世界性という位相において共有されるべき個々の人間の単独性保護を普遍化してくれる。それが無ければ個々の人間は国家の意志が即物的に反映された非人間的な相互敵対性にしか行き着かなくなる。国家や何らかの共同体に所属・従属する事で自らの存在を代理的かつ強力に表わす "政治主体" ではなく、何かに全面的に従属しないが故に脆弱かつ浮遊的な "部分性それ自体の論理的出現者" に冠せられる普遍的理念としての "人間" こそが重要なのであり、このような政治的に未規定な人間概念それ自体 ( 物自体 ) をカントは哲学的に語ろうとしていたのです。

 

 政治的負荷を帯びた個体は全体性統御物、つまり、政治的人間として生きるしかないのですが、それは実は人間ではない、未だ "存在" しないのです。人間が人間であるのは、自分が 集団性の中には完全に溶け込まない残滓意識 を通じて自分の存在を考えようとする 脆弱な単独性 において可能になる。政治的人間である事が自己実現の極化であるとする人間は、普遍的思考を止めて自己の欲望を優先する政治的動物でしかない。 しかし、人間とは、集団性が収斂された政治的動物である事には留まらず、集団性の中には解消され得ない残滓としての部分個体の自意識が極化された超反省体 なのです。 ここには意識というものが通常は人間の脳内化作用としてのみ片付けられるのに反して、脳のような内部凝集物及び意識という内的作用が、外部からの強大な物理的・精神的圧力に対して抵抗形成された個体の原初現象・原初行為である事を示している。 強大な外部圧力の局所差異こそが抵抗的形成物のランダムな出現を引き起こしている。世界市民は特定国家に完全に属しきれない 由残滓である心的領域を普遍的な世界性に同期する事で脱国家的人間性を共有出来る のです。

 

 敵対性を過激化させる政治的人間が国家の名の下で戦争に行き着くのならば、世界市民とは人間性の保存の為に、人間を消滅させる戦争・政治に反対する。これはたんに戦争という暴力的出来事性に対してだけではなく、敵のみならず自国の人間ですら利用するという意味での暴力的人間には従わない事を旨とする世界市民の在り方だといえるでしょう。ここには既に世界市民平和状態が結びついた状態が現れている。"政治 / 戦争" への対抗現象としての "世界 / 平和" が各々の人間性 ( 政治的人間と世界市民 ) を通じて立ち現れるのです。

 

 この平和の理念は一般的に非現実的で無力なものだと考えられるのですが、哲学的には興味深い概念です。それは 無差別的な攻撃性に平穏性を隣接させ "境界接合" する事で攻撃性を可能な限り局所化させる。最も政治的な事物である "戦争" の真横に、政治的ではない "脱-人間的喧噪物" である "平穏・平和状態" が結合される事で、全てを政治化させる政治性を化学変化させる。フロイトが 『 文化への不満 』 や アインシュタインとの往復書簡 で念頭に置いていたのは、このような精神分析的平和概念であり、たんなる平和主義者による道徳観念としての平和に留まるものではありません。精神分析が焦点を合わせ続けて来た "人間的なるもの" が人間関係それ自体の現実構造に他ならない ( 戦争を欲する者と平和を望む者 ) 事フロイトは語っているのです。このような戦争と平和の接合関係それ自体をタイトルにしたものこそトルストイの 『 戦争と平和 』 なのですが、 それについては次回で考えていきましょう。

 

 

以下の記事へ続く

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