It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ マルクス・ガブリエルの『 超越論的存在論 』を批判的に考える〈4〉

 

 

[ 前回記事からの続き ]

Chapter6  媒介物としての物自体 ①

A.  物自体という概念の存在論的地位について深入りする前に、まずはヘーゲルが『 精神現象学 』の  「 A  意識 」 と 「 B  自己意識 」 の章において物自体をどのように考えているかを振り返っておきましょう。彼は事物や自我といった対象物が、実は多様に媒介された関係物である という哲学的真理を説明する前に、そのような対象物がまずは現に有る、それだけで個別に有る、という単純な "感覚的確信"、言い換えるならば、"自己低次性" の観点から話を始める。この初歩的な感覚的確信から脱け出す為に、ヘーゲルは "このものが何であるのか" を問うべきだと言う。そうすると、今、ここに有る "このもの" は、別の対象である "あのもの" ではないという 外面的な否定関係によって持続化・永続化される一般性を有する何物か である事が分かるだろうという話に繋がっていく。ヘーゲルはこれを昼 ( 夜ではないものとしての ) と夜 ( 昼ではないものとしての ) の関係性を例としながら説明するのですね。

B.  さて、この永続的一般性とは、事物がそれ自体で有る事の純粋本質である事になるのですが、ここでのポイントは、まさに純粋性というものが、外面の感覚的確信によって把握される無媒介的な核心などではなく、そのような "無媒介的直接態であるかのように" 思い込まれる事物を特徴づける、否定的関係によって媒介化された結果としての純粋性 である事です。
この一見すると媒介されて "いないかのような" 無媒介的直接態こそが 既に幾重にも媒介された末の単純態 / 純粋態 の完成形である、すなわち、事物の有する 一般性 である訳です。言い換えると、この一般性とは、事物の "在り方" が人間の外見的な感覚的確信を超えて、"知" という抽象的かつ普遍的次元に向かって開かれたものに成った事の帰結なのです。

C.  そうすると、当初、感覚的確信によって本質と見なされていたはずの対象の外見性 ( 昼であったり夜であったりするような ) は、一般性の視点からすると、非本質的な個別性に過ぎず、その個別性の真の本質は、まさに それが他のものではないという "否定関係によって永続化される形式的純粋有" に他ならない という転倒が起きるのです。よくある人々の自分だけの個別的な経験の主張、自分という人間の個別性を感覚的に確信する身振り、といったものが、自分以外の他の皆も採る同じような身振りに過ぎない事を考えた時、優劣や順位、特異性を客観的に図る普遍的基準など無い故に、その自分だけの個人的、個別的な事柄としての絶対的真理は "論理的には" 成立しないのです ( もちろん、感情論的に強引に成立させる事は出来るのですが )。個人が個人であるのはその "内実経験" からではなく、私が別の人ではないという "外的否定関係" によってでしかないのです。それこそが個人という無媒介的純粋存在を支える媒介形式なのです。

D.  それを内実的に絶対的なものとしようとしても、他の人間の経験より自分の経験を優位にする差別性を持ち出すしかなくなってしまう。この差別性を差異と言い換えたとしても、自分がそうしなくとも逆に他人から自分の個別性を低く見積もられる事の耐えがたさを考慮すれば、そこに差別性は依然として残る。つまり、個別性は共存的であろうと、乱立的・無差別的であろうと、同列する構造は、個別性というものがその内実性 ( 個々人の経験 ) から絶対化する事は出来ない、真に個別的である事など出来ない、のです。その "構造 ( 等価構造 ) 自体" が個別性を保障するであろう "唯一無二の純粋性" を既に失わせている 訳です。

E.  こういう話をすると身も蓋もないと思われるかもしれませんが、もちろん、ヘーゲルは人間が個別的に存在する事が決して出来ないと言っているのではありません。実は、彼は、人間が個別性を持ち出す時、個別の内実経験を何とか言い表そうとする身振り、個別性についての主体の言表行為、について自らの論理構築作業の傍らで注意を払っているのです。人は何かを言い表そうとする ……、ただし、その言表化しようとする個別性にはその内実経験の純粋性には決して到達する事は出来ないだろう と彼は付け加える。なぜなら、個別性の共-構造 ( 等価構造 ) が個別性の内的純粋性を失敗させる論理に照らし合わせると、昼であろうが夜であろうが、一枚の紙であろうが、それらはみな "等しく個別的である" という認識論上の現実形式に "既に" 到達している からです。

F.  主体が自らの個別性のオリジナリティの承認を強く望んだとしても、それは主体を自己高次化させる一般性の視点からすると、既に個別性を認識させる弁別表示を形式的には獲得している。この時点で 体は自分が望むものを既に手に入れているにも関わらず、それ以上のものを望もうとする失敗の論理に気付かずに踏み込んでしまっているという訳です。ヘーゲルはこれらの事を次のように語る。

 

そういう人達は、外的対象の定在について語り、この対象はもっと正確には、どれも、自らに絶対に等しいものをもっていないような現実的な、絶対に個別的な全く個人的な個的なものとして規定されうるというのである、つまり、この定在は絶対の確実性と真理をもつというのである。その人達は、私がこのことを書き、或いはむしろ書き終わったこの一枚の紙を思いこむけれども、その思いこんでいることを、言い表しているのではない。自分達の思いこんでいる一枚の紙を現に言い表そうとしても、しかも現に言い表そうとしたのであるが、それはできないことである。というのも、思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的なものに、帰属する言葉にとっては、到達できないものであるからである。だから、この一枚の紙は、言い表そうと現に試みているうちに、腐ってしまうだろう

 

ヘーゲル精神現象学 』 "A  意識" p. 74 樫山欽四郎 / 訳  世界の大思想12 河出書房 ( 1966 )

* 太字・下線は引用者である私によるもの

 

だから人々は、ここに至って前に言ったのとは、全く別のものとなっているこの一枚の紙を、なるほど思いこみはするだろうが、現実の外的または感覚的な対象、絶対に個別的なものなどを語る。つまりその人々は、それらについて一般的なものを言うだけである。それゆえ、語られえないものと呼ばれるものは、真ならぬもの、理性的ならぬもの、ただ思いこまれただけのものにほかならない。或るものについて、現実的な物とか外的対象であるというより以上のことが何も言われない場合には、それは、最も一般的なものとして語られたのであり、他のものとの区別というよりは、すべてのものと等しいことが語られているのである。私は、個別的な物と言う時、むしろ全く一般的なものと同じものを言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、ひとびとの求めているものは、みなどれもこのものである。

 

前掲書 p. 75

* 太字・下線は引用者である私によるもの

G.  以上の事から、こちら側に対して 対象は無媒介的直接態として現象する という事を忘れないようにしましょう。注意すべきは、ここでヘーゲルは対象が多様な性質を備えた感覚的確信に訴える個別的なものでありながらも、それは、第一義的に、あくまでも "こちら側ではない物" という彼岸への否定的転送によって生じる "空白形式化" された "" として、こちら側と関係を結ぶという事です。つまり、世界には無数の多様性を備えた事物があるものの、それがこちら側と何らかの関係を結ぶのを可能にするのは、その多様性においてではなく ( それは事後的に遡及されるに過ぎない )、こちら側とは違うものであるという事象性それ自体 によってであるという事です。その事象性こそが、こちらを対象に向かわせるという事なのです。

H.  このヘーゲルに従うならば、ジジェク / ガブリエルがヘーゲルを参照項としてよく言う "対象の裏側、あるいは向こう側には、物自体という実在物など存在しない ( それは幻想に過ぎないとされる )、そこには無しかない"、という説明は、厳密にはヘーゲルの考えとは少し違う。ジジェク / ガブリエルの考え方だと、ヘーゲルがまるで "" を実体的なものとして扱っているかのような誤解を生むでしょう。無を実体的に扱うのは、物自体を実在物として扱うのと何ら変わらない。それでは表現が変わっただけに過ぎないのです。

I.  ヘーゲルが言いたいのは、対象には個別の内実性がやはり備わっているのは間違いないのであって、ただし、それがこちら側との関係線を繋げる際の第一原理ではないという事です。既に述べたように、こちら側とは違う、もっと率直に言うならば、向こう側に有る、その事態にこそ関係性が潜在的に含まれている ( それが全て現実化されるとは限らないのですが ) という事なのです。その時、対象物は向こう側でそれ自体としてあるかのように現象するのですが、それは対象物に備わる性質がそうさせるのではなく、対象物がその内実を一旦棚上げして ( 無化して ) 自分を向こうのものとしてのみ限定させない "このもの性" ( それは外見に反して特定の局地には固定化されない "何処にでも現れうる独立的な概念" でもある ) こそがそう現象させるのです。そこに在るのは 対象の一時的自己無化によって可能になる相手への現象機能 なのです。なのでガブリエルがヘーゲルを参照して、無が仮象化される、あるいは無が現象すると言うのは精確ではなく、対象はあたかも自己を "" であるかのように現象させてヘーゲル的に言い換えるならば、自己を廃棄 ( 保存 ) させる事で、こちら側と関係を結ぶのです。

J.  そして、ここからがさらに重要になるのですが、無媒介的直接態である物がこれまでのように他の物との規定関係によってではなく、自分自身へと関わる自己規定の契機が次の自己高次化として出現する。ヘーゲルはこの契機を 物における意識の位相化 として説明する ( まさに『 精神現象学 』で "意識の章" が展開されているように )。そしてこの自己規定とは、物がまさに "ひとつ ( 1 ) である事" です。これは 物が様々な性質によって構成されているにも関わらずそれらの性質が互いを干渉し排除し合う事なく物においてひとつにまとまっている事を意味する。様々な媒介系列が一般化されて、ひとつである事の究極の形態概念である "" が出現する のです。

K.  もちろん、この場合、物とは単なる "外見的具体物" のみに留まるものではなくなっていて、物以前の媒体要素自体が一般化された姿、つまり、"独立的な抽象態" と合わさって "二重化された物" となっているのです。この二重化された物こそ、"自己意識の真の姿" に他ならないのですが、ヘーゲルは次章の "自己意識" ではこの辺りを余りスマートに説明出来ていない。というのも彼は "意識 / 自己意識" を余りにも "こちら側へ" と回収・回帰させる事に執着し過ぎて、向こう側の対象では事態がどうなっているのかに無頓着すぎるからです。何せヘーゲルにおいては、向こう側の対象物でさえ、こちら側の事物が自己廃棄された末の他在物でしかなくなっているくらいなので。

 

[ 以下の記事へ続く ]