〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 秘密指令 』( directed by アンソニー・マン:1949 ) を哲学的に考える〈2〉

 

 

 

 

 

 それにしても、ロベスピエールによる処刑人予定リストが記された黒い手帖を話の "中心" にするというアイデアはどこから湧いたのでしょう ( *A )? それを考えるのは決して些細な事ではありません。黒い手帖というひとつの事物の観念的強調がロベスピエール失脚という単なる歴史物語を フィルムノワール へと変貌させた のですから。もちろん、歴史物語映画がつまらないものだという事をここで言いたいのではありません。アンソニー・マンは後年『 エル・シド ( 1961 ) 』や『 ローマ帝国の滅亡 ( 1964 ) 』といった歴史映画を撮っているくらいなので

 

■ しかし、それらの作品が潤沢な製作資金に基づいたもの ( エル・シド 』は600万ドル、『 ローマ帝国の滅亡 』に至っては1900万ドル ) であったのに対し、『 Reign of Terror  / The Black Book 』は僅か70万ドル。いかに低予算映画であったのかが分かりますね。少ない予算の中で歴史映画を面白くするには大規模なスペクタクル的構築などは出来るはずもなく、その結果採られた、既存脚本内への "黒い手帖という事物の差込み" こそが最も経済的かつ現実的な改変であったと考えられる訳です。

 

■ そのような低予算製作の背景としては、当時、アンソニー・マンが属していた映画制作会社 Eagle - Lion films がマイナーな存在であった事情があります。パテ・インダストリーズ ( Pathé Industries ) の子会社であった同社は、ウォルター・ウェンジャー ( Walter Wanger )、エドワード・スモール ( Edward Small )、などの大手には属さない独立系プロデューサーを起用した低予算・B級映画を作った。僅か5年程 ( 1946~1951 ) しか存続しなかった Eagle - Lion films ですが、90本近く製作したその間 ( イギリス製作フィルムのレンタル配給も含めれば約130本に上る ) の中でもアンソニー・マン T - Men ( 1947 ) 』 Raw Deal ( 1948 ) 』、クレイン・ウィルバーのCanon City ( 1948 ) 』、アルフレッド・L・ウェーカーの 夜歩く男 / He Walked by night ( 1948 ) 』、チャールズ・バートンのThe noose Hangs High ( 1948 ) 』は売上的に成功している。イギリスで製作されたマイケル・パウエル赤い靴 / The Red Shoes ( 1948 ) 』アメリカ配給も Eagle - Lion films が引き受けている。

 

『 Reign of Terror  / The Black Book 』の冒頭で表示される Eagle - Lion films のクレジットマーク。

 

(A ) 

■ もちろん、この処刑人リストの話が元のマッケンジーの脚本の中に無かったものだとは言い切れません。あった可能性の方も考えられるのですが、おそらく、そのアイデア自体は、アンソニー・マンの言葉を信じるならば、マンが トーマス・カーライル ( Thomas Carlyle 1795~1881 ) の『 フランス革命 ( 1837 ) 』の一場面、ロベスピエールが処刑リストをクラブに置き忘れたという場面から着想を得た という ( Cahiers du Cinéma, January 1967 )。ここで付け加えておくなら、カーライルはその "劇的文体" から客観的歴史記述家というよりかは、あたかも映画の脚本家的作家に通じる人物のようであったと言う事も出来るでしょう。マンが好んだのも分かろうというものですね。

ロベスピエールの粛清を恐れる人間についてフランス革命史研究者のピーター・マクフィーは次のように書いている。

 

ほぼ全員が陰謀を企んだという疑いをかけられていた。実際ロベスピエールは、「 私は、自分でそのイメージを描いたこの有徳の共和国を疑ったことがある 」という告白すらした。彼は自ら殉教へと進んでいるように見えた。 過激な暴力を行使したと疑われている者たちにとっては、自分たちが「 恐怖と誹謗中傷 」を広めたと特定されていると不安になるには十分な演説ではあった。「 悪徳にまみれたスパイたちは、不当な逮捕を実施することで過激な行為に及んできた。破壊を目的とした諸計画は、つつましい生活を送るすべての人々に脅威を与えてきたし、革命を支持する無数の家族に絶望をもたらしたのだ。」続く議論の中で、パリのジャコンバ派で、以前は保安委員会にも属していたエティエンヌ=ジャン・パ二が、「 私の傷ついた信条を打ち明けるために 」起立した。「 私はロベスピエールを批判する。彼は自分の好きなようにジャコバン派の人間を排斥してきた。彼が他の人以上の影響力を行使しないことを望む。そして、彼がわれわれを処刑リストに載せているのかどうか、私の首は彼の作ったリストに載っているのかどうか、彼が述べることを望む。」

 

ロベスピエールp.330  ピーター・マクフィー / 著 高橋暁生 / 訳  白水社 ( 2017 )* 下線は引用者である私によるもの。

 

■ 以上は、ロベスピエールが逮捕されるテルミドール9日 ( 1794年7月27日 ) の前日に行われた、自らの失脚を政敵たちに促す事になる ロベスピエールの決定的な過ちとして知られる "テルミドールの演説" を受けての場面。彼はその演説で、経済混乱を招いた財政委員会のジョセフ・カンボン、ドミニク=ヴァンサン・ラメル・ノガレ、フランソワ・ルネ・マラルメらを反革命の徒として具体的に糾弾するだけでは飽き足らず、自分の心的不安の元となっている反革命主義者が至る所に溢れているとして自分が先頭にいるはずの公安委員会と保安委員会の内部までを抽象的に批判した。具体的に誰を名指しているのか分からないこの批判 は、政敵たちの不安を煽り ( 処刑されるのは自分かもしれない … )、その結果、元々一枚岩ではなかった者たちを結束させクーデターを起こすに至らせた。

 

 

 

■ この作品を観た事がある人なら、"黒い手帖" というタイトルがハリウッド映画史に刻まれている政治的赤狩りの象徴であるブラックリストに "秘かに" 由来しているのに気付くはずです。アメリカ合衆国下院非米活動調査委員会、通称 HUAC が映画監督・脚本家らに召喚状を送り、その関係者に証言させたのが1947年。その召喚や証言を拒んだいわゆるハリウッド・テンと称される10人に法廷侮辱罪で有罪判決が下されたのが1948年。そして『 恐怖政治 / 黒い手帖 』の公開が1949年。これらを併せ考えると、当時の政治状況がほぼリアルタイムで "暗喩的に"『 恐怖政治 / 黒い手帖 』のタイトル変更に込められている事 が分かりますね。

 

■ この暗喩的なタイトル変更を考えた人物こそ、ハリウッドにおけるいわくつきの脚本家、フィリップ・ヨーダンです。彼がどのような人物なのかは上島春彦の『 レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝 』を参照するのがいいでしょう ( B )。今では、ハリウッド・ブラックリストに言及する映画や著作は幾つもあるのですが、もしかすると『 恐怖政治 / 黒い手帖 』は映画史において最も早く言及した作品のひとつであるのかもしれません、ただし暗喩的な言及という条件付きですが。

 

( B ) 

■ これはフィリップ・ヨーダンについて詳しく書かれた日本の唯一の本なのかもしれません ( そして、おそらくこれからも彼について書かれる本はこれ以外ないかもしれない )。特に第四章「 保護者の栄光と悲惨 フィリップ・ヨーダン 」を参照。

 

一九八〇年代の後半に映画史家パトリック・マックギリガンがヨーダンと接触を試み、結果的に画期的なインタヴューを取るのに成功した際、映画産業からは当初「 彼は故人のはずでは …… 」といぶしがられたという。どうやらこの時点では、彼は業界内においてはほとんど何の影響力も持っていなかったらしい。つまり、マドウ ( 注:脚本家ベン・マドウの事 ) のようなブラックリスト脚本家の仕事に焦点が当てられた結果、ヨーダンの業績には単に留保がつけられただけでなく、ある種の無視というか評価の手控え現象が起こっていたのだ。ヨーダンは単にブラックリスト脚本家のフロントを務めただけの、脚本家としては無能な人物であり、自分ではほとんど何も書いていないという証言が様々なヴァリエーションで語られることになった。マックギリガンのインタヴューが画期的だというのは、こうした状況に疑問符を点じ、映画史上の彼の位置をもう一度改めて確定しようとしたところにある。本書もこうした姿勢に全面的に共感するものだ。

 

レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝 』 p.148 上島春彦 / 著 作品社 ( 2006 )

 

 

 



■ ここで考えたいのは、ヨーダンのプラグマティックな修正能力 ( 脚本やタイトル ) であり、それこそが彼特有の資質なのではないか という事です。通常の脚本家のように無から何らかの話を書き起こすという作家的資質ではなく、既に出来上がっている脚本を完成稿として撮影現場で具体化させるべきだという純粋な脚本至上主義でもなく、実際の撮影現場で起きた齟齬 ( 脚本に忠実であろうとして引き起こされる監督や俳優の否定的反応など ) をいかに解消して撮影を円滑に進めるのか、その為なら脚本の変更する事などはごく当然の行為だとする極めてプラグマティックな "プロデューサー的気質" こそがヨーダンの真骨頂なのでしょう。

 

 ヨーダンが赤狩り体制下のハリウッドで仕事を干されていた左翼脚本家に、いわばゲリラ的に仕事を与えていたことを、旧来の映画史は「 同業者 」ヨーダンの一種の好意、厚意と見なす視点から脱しきることができないでいたように思える。もちろん「 私はブラックリストというものをそもそも知らない 」とインタヴュアーに言ってのけたヨーダンの言葉は、逆に痛烈な皮肉も感じさせずにはおかないのだが、その点については後述するとして、まず確認しておかなければならないのは、製作者としてのヨーダンには、自己表現の手段としての脚本などという発想は最初からなかったという点だ

 彼が最終的に必要としたのは、ある期間劇場にかけられるべき一本のフィルムであって、それ以上ではない。〈 中略 〉。

 こうしたヨーダンのポリシーの確立に、実は赤狩りうんぬんはほとんど関係がない。当然か。むしろ赤狩り体制の確立がヨーダンの方法論を効率的に後押ししたのだ、と考えればわかりやすいだろう。であるから、「 フロント 」ヨーダンと「 代理執筆者 」の関係については、アメリカの社会体制の大変換と切り離して捉える必要があると思われる。

 

レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝 』 p.167~168 上島春彦 / 著 作品社 ( 2006 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

■ だから彼は純粋な脚本家なのではないのです。脚本とはあくまでも映画撮影の為のたたき台に過ぎず幾らでも修正すべきものだ ( たとえ、それが他人のものだとしても ) として、撮影現場における進捗状況との関係を重視するプラグマティックな調整主義者なのだ というべきかもしれません。

 

 彼 ( 注:フィリップ・ヨーダンの事 ) はハリウッドにおける自身のあり方を、トラブルの解決屋だと誇らしく規定する。何かしら誰かしらがもめている、その渦中に飛び込んで、何も考える余裕など与えられずとにかくその映画を完成させること、全てのあり物を利用してフィルムをでっち上げてしまうこと。監督を、俳優を満足させること。それがヨーダンに与えられた使命であって、この『 大砂塵 』の場合、現場で衝突し完全に進行がストップしてしまった「 落ち目 」のスター女優ジョーン・クロフォードと演出家ニコラス・レイの双方を納得させるところにあった。

 〈 中略 〉。ところがレイを信頼してクロフォードは企画に乗ったのに、とんでもないスカ脚本をつかまされたのに気がついたのは、撮影がセドナで始まってからだったというわけだ。どうやらその脚本は原作者ロイ・チャンスラーによるものだったらしい。「 この映画で私のキャリアは終わる 」と落ち込むクロフォードは現場をサボタージュし、解決策としてヨーダンによる脚本の書き直しを要求したのだった。ヨーダン・インタヴューでは語られていないが、クロフォードには実は、このままの脚本では主演の自分が助演のマーセデス・マッケンブリッジに「 食われて 」しまう、という焦りもあった。そこで彼女がヨーダンに要請したことは基本的にはただひとつ、「 今の脚本では私は画面のはしで "いじいじ" しているだけだが、それをスターリング・ヘイドンにやらせて、私にはマーセデス・マッケンブリッジを撃ち殺させてもらいたい 」というものだった。かくしてそのビザールな趣向で映画史に残る、クライマックスの女同士の決闘シチュエーションが生み出された。

 

レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝 』 p.136~137 上島春彦 / 著 作品社 ( 2006 )

 

■ とするならば、ヨーダンによる『 恐怖政治 / 黒い手帖 』へのブラックリストの暗喩的差込みとは、赤狩り体制に対する反権力的な政治的メッセージなどではなく、政治的なものそれ自体 ( その擁護であろうが抵抗であろうが ) への皮肉的なアイデア、そうあくまでもひとつの映画的アイデアへの転化として急遽盛り込まれたものだ、と考える方が自然でしょう。政治状況さえも映画的娯楽の為のアイデアの源泉にしてしまうヨーダンの徹底したプラグマティックな指針 がここには現れている。映画を芸術的なものとしてある種の政治性を込める事などはヨーダンにとって重要な事ではなかった。だからこそ、『 恐怖政治 』という公開時のタイトルから『 黒い手帖 』という皮肉的なタイトルへの変更を大胆に為し得たのでしょう。当時の政治的圧力などどこ吹く風だとするヨーダンであったからこその振舞いでもあるのだといえますね。そんな事よりも彼にとっての最大の関心事は眼の前に次から次へと舞い込んでくる仕事をこなす事であったはず。1950年代において彼の仕事量が激烈さを極める中で、ヨーダンはまさにその膨大な仕事量を何人もの脚本家を雇う事で処理する猛烈な機械と化して生き抜いてきたのであろうし、彼自身もそのような働き方の中に自己の存在意義を見出していたのかもしれません 〉。