〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 映画『 秘密指令 』( directed by アンソニー・マン:1949 ) を哲学的に考える〈1〉

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

ロベスピエールによる処刑人リスト ( 黒い手帖 ) を探し出したドゥビニーとそこに立ち会うフーシェ
 
作品  秘密指令 ( Reign of Terror または The Black Book  )
監督  アンソニー・マン ( Anthony Man : 1906~1967 )
公開  1949年
脚本  イーニアス・マッケンジー ( Aeneas Mackenzie : 1889~1962 )
    フィリップ・ヨーダン ( Philip Yordan : 1914~2003 )
製作  ウォルター・エンジャ― ( Walter Wanger : 1894~1968 )
出演  ロバート・カミングス ( Robert Cummings : 1910~1990 )   シャルル・ドゥビニ― 
    アーレン・ダール ( Arlene Dahl : 1925~2021 )         マドゥロ
    リチャード・ベイスハート ( Richard Basehart : 1914~1984 ) ロベスピエール
    リチャード・ハート ( Richard Hart : 1915~1951 )      フランソワ・バラス
    アーノルド・モス ( Arnold Moss : 1910~1989 )        フーシェ 
    ノーマン・ロイド ( Norman Lloyd : 1914~2021 )       タリアン 
    ジェス・バーカー ( Jess Barker : 1912~2000 )         サン=ジュスト

 

 

 

 アンソニー・マンのこの作品の邦題が『 秘密指令 』という ( アマゾンプライムにおいてもそうであるように:2023年現在 ) のは、原題が公開当初はっきりと定まらなかった経緯を考える以前に、話をややこしくしているのかもしれません。ロバート・カミングス演じるシャルル・ドゥビニ―がロベスピエールによる処刑リストが記された黒い手帖を48時間以内に探し出すという話がその邦題を付けさせたのでしょうけど、それならば素直に『 The Black Book 』を受けて『 黒い手帖 』 ( 処刑人リストが記された薄いものなので本というよりは手帖とするか、隠喩的意味合いを強調したブラックリストとすべきか、という所なのですが、翻訳ではファイルとなっている ) としたいところですが …… ( A )。

 

秘密指令 』のオープニングクレジット。"Reign of Terror" ではなく "THE BLACK BOOK" となってはいるものの …… 。

 

■ しかし、現在ではこの作品タイトルが、フランス革命史を背景にしたその内容を踏まえた『 Reign of Terror 』、つまり、ロベスピエールによる悪名高い『 恐怖政治 』のタイトルの方で定着している所を考慮するならば、『 秘密指令 』という邦題は、原題が歴史物語的な『 Reign of Terror 』であろうとも、手帖を探し出す緊迫的行程をフィルムノワール的に表す『 The Black Book 』のどちらであろうとも対応できる折衷的なものであるというのが内実なのかもしれません。それは、この作品の特殊な性格、現代的なフィルムノワールではなく、過去の歴史事象の中に落とし込まれたフィルムノワール、すなわち、"歴史物語的フィルムノワール" とでもいえる内容を反映したタイトルだと解釈出来るでしょう。

 

■ そのように踏まえた上で、原題が Reign of Terror The Black Bookの間で一瞬でも揺れ動いた経緯は非常に興味深いものだとして考えていく事にします。1949年に公開された時には『 Reign of Terror ( 恐怖政治 ) 』であったのが、同年末には『 The Black Book ( 黒い手帖 ) 』と製作過程時の当初タイトルに戻されているという経緯がこの作品にはあったのですね。1949年の公開時から70年以上も過ぎた現在的視点では、この古典的作品の内容を分かりやすく示す『 Reign of Terror ( 恐怖政治 ) 』の方が受け入れられるのは当然の成行きでしょう。

 

( A ) 今日ではアンソニー・マンと言えば1950年代の西部劇作品ばかりがクローズアップされるように、『 秘密指令 』などの1940年代フィルムノワール作品が余り観られる事のない状況においては、"ブラックブック" といえばポール・バーホーベンの『 ブラックブック ( Black Book / Zwarboek ) 』( 2006 ) を思い起こす人の方がほとんどでしょう。

 

 

 

■ そこで問題なのは、今では隠れてしまった『 The Black Book ( 黒い手帖 ) 』です。『 Reign of Terror ( 恐怖政治 ) 』の方が内容を素直に反映していると思われるのに公開後においても『 The Black Book ( 黒い手帖 ) 』へ変更した ( というか元々は製作中からそうしていたはずなのにという話なのですが ) のは、アンソニー・マンとこの作品で初めて手を組んだ脚本家のフィリップ・ヨーダンの意向が働いたのでしょう。作品の基本的ストーリーを作ったイーニアス・マッケンジーの脚本 ( おそらくそれのタイトルが "Reign of Terror" ) が余りにもガチガチのフランス革命史に沿ったものだった ( B ) ヨーダンが言っている事から、その脚本では見せ場が無さ過ぎると判断したと推測出来る。つまり、 "脚本変更" があったという事ですね。ただし、それがヨーダンだけの手によるものかどうかは判断出来ませんが ( それはアンソニー・マンも関わる作業であったので )。

 

 

■ ロベスピエールが不満分子を粛清するためにストラスブールから呼び寄せるのがデュバルという人物 ( 4 )。これはドゥビニーと同様の架空の人物で、ロベスピエールと警察大臣のフーシェも顔を知らないという設定 ( フーシェは途中でデュバルの正体に気付くのですが:図15以降 )。ドゥビニーはデュバルを殺して彼に成りすましロベスピールの近くで反体制者 ( バラス側 ) として秘かに動き回るという話に繋がっていく。という事は、デュバル / ドゥビニー という架空人物同士の組み合わせもマッケンジー以後 部分的脚本変更だ と考えられる

 

■ マッケンジーによるロベスピエールの恐怖政治という歴史物語の脚本は、彼の失脚で終わるという予定調和的なものに過ぎないのですが、ここにロベスピエール失脚に繋がる "黒い手帖" を、処刑が実行される政治総会が開催される48時間前に探し出さなければならないというフィルムノワール的捻りが書き加えられる ( 7~18 )。そしてその捻りは、黒い手帖を探し出すシャルル・ドゥビニ―という 架空の人物 ( 主要な登場人物のほとんどが歴史上の実在人物であるのにも関わらず )、しかも主人公によって具現化される。それは、部分的な脚本変更後に付け加えられているからこそ、架空の人物として設定する以外にねじ込む方法が無かったと考えられるものなのです。

 

 

■ これに対しては、黒い手帖を探す役割は、別に実在の人物でも良かったのではという考えもあるかもしれません ( この作品で言うと、フーシェが妥当かもしれません ) が、マッケンジーによる大筋の脚本が成立している中で、敵の攻撃から馬で逃げたり ( 19~22 )、敵を最後に叩きのめす ( 23~26 ) 等の 躍動的な映画主体 ( C ) を用いるアンソニー・マンの手法は、歴史的実在人物 ( 政治家 ) では行動能力の制約があり過ぎた と言えるでしょう ( おそらく、その困難を誰よりも感じていたのは監督のアンソニー・マンだったはず )。ロベスピエールの監視を搔い潜ってラストのクライマックスに至るまでに 自由に動き回れる架空の主体 が繰り広げる行程こそがフィルムノワール的緊迫感をもたらすのですから。

 

 

■ なので、ドゥビニ―によって見つけ出された黒い手帖 ( 処刑リスト ) ロベスピエールが演説する政治集会で秘かに回し読みされ ( 27~30 )、そこに自分の名前を見つけた人々のヒステリックな反応がロベスピエールを否定する野次へと変化 ( 最初は処刑されるバラスへのブーイングであったものが ) し彼を失脚させるという場面 ( 31~36 ) で、ドゥビニーの役割は終わってしまう。そして、この辺りからは変更されなかったマッケンジーの脚本箇所に再び戻っている ( 31~42 )。フーシェの背後から彼に話しかけるナポレオンの後ろ姿での登場です ( 41~42 )。ロベスピエール失脚後のフランスの未来を予告させる演出という事なのですが、もしマッケンジーが最初からドゥビニーを登場人物として構成していたのなら、ここでナポレオンが話しかけるべき相手はフーシェではなく、ドゥビニーであったはずです。しかし、そうではなかった。マッケンジーの構想の中にドゥビニーが居なかったからですね。ここにおいて物語は閉じられるのですが、それではまだ終わる事は出来ません。それが何なのかについて次で考えていきましょう続く 〉。

 

 

( B ) 例えば、本作品のラストではロベスピエールの処刑場面こそ無いものの、その前の段階で執務中のロベスピエールを逮捕する際に、致命傷ではないが彼の顎をピストルで撃ちぬいたとされる軍人 シャルル=アンドレ・メルダ ( Charles-André Merda ) の話 ( ただし、その真偽のほどは疑わしくロベスピールの自殺未遂という話もある ) を思わせる銃撃場面までもが丁寧に描かれている。フランス革命史に詳しくなければわざわざ描こうとは思いつかないものですね。

 

( C ) このような躍動性の例としてはアンソニー・マン ローマ帝国の滅亡 ( 1964 ) 』における以下の場面を参照。元は兄弟のように仲の良かった、皇帝マルクス・アウレリウスの息子コンモドゥス ( クリストファー・プラマー ) リヴィウス ( ティーヴン・ボイド ) が反目し合い、馬車で並走しながら戦うのですが、この場面は3分程に渡って緊迫的に描写される。マンの作品にはお馴染みの "急斜面" "激流の川" の描写も含まれている ( 43~50 )。