It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ 映画『 続・世界残酷物語 』( 1963 : directed by ヤコペッティ and プロスぺリ )を哲学的に考える

 

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映画     『 続・世界残酷物語 ( Mondo cane2) 』
監督     グアルティエロ・ヤコペッティ ( Guaitiero Jacopetti : 1919~2011 )
共同監督   フランコ・プロスぺリ ( Franco Prosperi : 1928~ )
公開     1963年

 



 1章    モンド映画・・・

 

かつて世界的に人気を博したグアルティエロ・ヤコペッティモンド映画を哲学的に考える …… これほど、この映画に似つかわしくない行為はないでしょう。第1、彼の映画を観るほとんどの人が B級映画愛好家であろうことを考えれば、娯楽映画として楽しむことはあっても哲学的に考えるなんて全く興味がないに違いありません。

 

しかし、2020年8月現在、ヤコペッティの作品『 世界残酷物語 』、『 続・世界残酷物語 』、『 さらばアフリカ 』の再発売に伴い、TSUTSAYA でレンタル出来るようになった機会に、B級映画愛好家ではない普通の映画ファンでも楽しめるための視点を提供するという意味で、哲学的に考えるのも無駄ではないと思います。違う角度からの見方が映画の娯楽性を高めるのに役立つからでしょうから。

 



 2章    よりジャーナリスティックなものの方へ



今回、なぜ1作目の『 世界残酷物語 』 ( 1962 ) ではなく続編ともいえる『 続・世界残酷物語 』( 1963 ) を取り上げたかというと、『 続・世界残酷物語 』には、よりジャーナリスティック的な視点の萌芽が発生しているからです。観客を驚かそうとして明らかにキワモノ的方向性ばかりが強調された『 世界残酷物語 』に比べて、本作には 最も野蛮なのは人間主体それ自身である という視点が垣間見えるのです。本作が基本的には『 世界残酷物語 』と同じ映像ストックから作られていることを考えるのなら、ここには映像編集作業に関わる人間の意図に前とは違う変化が起きていたといえます。その作業がヤコペッティではなく本作の実質的監督といわれるフランコ・プロスぺリによって行われたとはいえ、ジャーナリスティックな視点をヤコペッティとある程度、共有していたことは、ずっと一緒に仕事している ( 『 世界残酷物語 』から『 大残酷 』まで ) ことから分かるでしょう ( A )。

 

そのようなジャーナリスティックな視点を示すのが以下のシークエンス ( 1~12. )。現在なら再現VTRだと注釈されてしかるべきヤラセ疑惑を引き起こした際どい演出。世界に衝撃を与えた僧侶の焼身自殺 ( B ) の "" 描写です。ただし、これをたんなるインパクト狙いの演出としてのみ受け取ってしまっては、こちらの解釈もその程度のもので終わってしまう。

 

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注意すべきは、この演出の政治背景について十分な説明がなされていないという事です ( C )。これをたんなる不親切として考えるか、それとも、元々必要としていないかとして考えるか。答えは、言うまでもなく元々必要としていないです。ヤコペッティの映画を観れば、彼が特定の政治的主張固執しているのではないのが分かるはずです ( 『 さらばアフリカ 』でさえ政治的主張にこだわっているわけではない )。なぜ必要としていないかと言うと、映画の中で描かれる様々な場面の主体が人間それ自体である事を強く示しているからです。フラミンゴの居場所を壊すのも人間 ( 13~20. )。

  

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自分たちの居場所を地獄の業火で以て破壊するのも人間自身 ( 21~25. )。

  

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( *A ) 

『 続・世界残酷物語 』についてヤコペッティ高橋ヨシキとのインタビューで次のように言っている。

 ところで、『 続・世界残酷物語 』は私の映画ではない。というのも、あれには私が撮りためておいたフィルムを使って、私が不在の時に ( 注:当時、ヤコペッティは自動車事故で入院していた ) 勝手に制作された作品だから、私が撮っていないシーンも多く入っている。だいたい、『 続 』などとつけて二匹目のドジョウを狙うような真似を私はしたくない。『 世界女族物語 』は確かに私の作品だが、『 続・世界残酷物語 』は違う。頼まれたのでナレーションは書いたし、私の撮影したフィルムも使われているが、自分の作品とは認めていない。『 世界残酷物語 』と『 さらばアフリカ 』は誇りを持って自分のドキュメンタリー映画だと言えるが、『 続 』は別のものだと考えている。

 

『 暗黒映画入門 悪魔が憐れむ歌 』p.32 高橋ヨシキ・著 洋泉社 2013年

 

 

( *B ) 

他の映画作品への影響でいうと、イングマール・ベルイマンの『 仮面 / ペルソナ ( 1967 ) 』 にも僧侶の焼身自殺場面がある。それが本物なのかどうかは分かりませんが。次を参照。

 

(C ) 

しかし、それではこの演出が何を背景にしているのかさっぱり分からない人のために説明しておく必要があるでしょう。仏教僧の焼身自殺は1963年にベトナムサイゴン ( 現ホーチミン ) で実際起こったことなのですが、当時のサイゴンは、中ソの共産主義国家群の拡大に対抗するアメリカに支援されたベトナム共和国 ( 通称:南ベトナム ) によって治められていた。その南ベトナムの政権首相であった ゴ・ディン・ジエム ( 1901~1963 ) によるキリスト教優遇政策 ( ジエム自身がキリスト教徒 ) に対する仏教徒の反対運動を弾圧する中での出来事だった のです。僧侶は映像の中では違う名前ですが、ティク・クアン・ドク ( Thích Quảng Đức ) が正しい。おそらくはワザと違う名前にしている、あくまでも演出による "再現" であって本人が出ているわけではないですからね。

 

ちなみにアメリカのオルタナティヴ・ロックバンドのレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの1992年のデビューアルバム『 Rage Against the Machine 』のジャケットには、ジャーナリストの マルコム・ブラウン ( 1931~2012 ) の撮った僧侶の焼身自殺の写真 ( 1963年 ) が使われ衝撃を与えた。

 

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 3章    地獄の中でのユーモア



人間存在の野蛮さをジャーナリスティックに描き出したかのような『 続・世界残酷物語 』ですが、一番大切なのは、様々な個別の残酷さを対処するために、その都度、特定の政治的主張をしていくことでも、ましてや人間に業の深さを反省させること、などでもなく、人間の経験という能力、苦しみや悲しみ、怒り、喜び、を引き起こす出来事を経験する事でしか生きていけない ( 避けられない ) 人間存在の運命、に向き合う のを学ぶ事です。

 

もちろん、そういったことをヤコペッティは哲学的に言語化することはしていませんが、『 さらばアフリカ 』、『 残酷大陸 』を経て、『 大残酷 』において突如、啓蒙思想ヴォルテールの小説『 カンディード 』の映像化に向かった時、彼は世界を旅するカンディードが様々な出来事を体験していく過程に、人間存在が持つ 経験という能力 の哲学的意味 を無意識的に見出している のです。自分が集めてきた世界各地の映像経験の多様性を、カンディードの経験に重ね合わせている訳ですね ( D )。

 

そのような経験能力は、時として、その激しさによって人間存在を押し潰しかねない。人間の経験能力について、ドイツの思想家 ヴァルター・ベンヤミン ( 1892~1940 ) は子供を引き合いに出し、子供は成長過程で様々な経験をしていくが、その経験の多さに、全てを経験するのは出来ないことをいつの間にか知るという旨の話をどこかでしていましたが、それはまさに "経験の強度" だといえるでしょう。

 

その経験の強度の中で押し潰されないために、ヤコペッティはユーモアを忘れない。本作のラストに用意されている、ピアノの伴奏に合わせ人の頬をどんどん叩いていくという人間打楽器の場面は、彼のユーモアの精神を表している ( 26~37. )。それは格好をつけた知的なものではなく、日本のお笑い芸人がやる馬鹿々々しいユーモアに近いものですが、そういうのを真面目にやり切る所に、彼の冷笑的ではない温かいユーモアが垣間見えますね ( 演じている俳優は訳が分からないでしょうけど )。

 

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客席からのアンコールを聞いて涙を流す演奏者 (・・・ではなく "頬" 楽器 ? ) の1人 ( 34~35. )。アンコールが嬉しくて泣いているのではなく、また痛い目に遭うのがイヤで泣いているという。そんなに嫌だったのか、そんな終わり方でいいのか、というヤコペッティらしいラストでしたね ( 36~37. )。

 

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( D )

この辺の哲学的解釈については『 大残酷 』を扱った記事の中で述べているので、次を参照。