〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アラン・ロブ=グリエの映画『 囚われの美女 』( 1983 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

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A. ここで見逃すべきでないのは、性的なもの に対する男女の違いです。ヴァルテルの女に対する見方が主観的フレームに基づくものだとするならば、マリー・アンジュの官能性はヴァルテル自身の欲望の投影に他ならないということが出来るでしょう。しかし、この説明が不十分なのは、それではヴァルテルとマリー・アンジュの絡みの場面の必要性がやはり説明出来ないのです。

 

B. ということはマリー・アンジュの官能性は、ヴァルテル側からの一方的な投影なのではなく、それとは別に、マリー・アンジュ側からもアプローチがあったことの結果だと考えるべきです。そして重要なのは、性的なものに対するアプローチ が男女で違う という事です。

 

C. ヴァルテルは一見拒否するような素振りを見せながらも性的な興奮に溺れていきます。それに対してマリー・アンジュは彼と同じように快楽に溺れるのではなく、快楽を覚えながらも、ヴァルテルを支配しようと仕掛けているのです。つまり、この時、より相手を意識しているのは、快楽に溺れるヴァルテルではなく、マリー・アンジュの方なのですね。いかにして相手と関係し自分の力を及ぼし影響を与えようとするかを無意識的に実践している のです ( この行動が極端になった時、精神分析でいう女性の一貫性のないヒステリーに繋がる )。

 

D. 男にとって 性的なもの はそれ以上先に進むことがないものであり、ひとつの到達点であり、女との性交を通じて得られる快楽でしかない。ところが、女は違います。女にとって 性的なもの は男との関係を築くために通過する地点でしかない。快楽を得るものの男と違ってそこに溺れる訳ではありません。性的なもの 以降 を常に考えるのであり、そのために、男を必要以上に観察し ( 男は気づかないが、何なら性交の最中でさえ )、可能性があるのなら一緒になろうとし、そうでなければ捨てる、あるいは去る。

 

E. 性的なものに服従する男は女越しで性的領域にその身を浸す。それに対して、女は性的領域越しに男を見て自分の行動を決める。同じ性的なものに関わっていても、男と女ではアプローチが違う訳です。ここには、原初の欲動が渦巻く外部としての性的領域、なぜ自分が生まれたのか分からずに存在させられる事になる出発地、つまり、〈 存在の故郷 に無意識的に固着している男の根本的振舞いがある のです。

 

F. その一方で、女は 〈 存在の故郷 〉を目指すのではなく、〈 人間的形象 〉を求める幽霊として彷徨う。というのも、女は 〈 存在の故郷 〉 を既に自分の内に抱えているので、そこをへ戻るのではなく、そこから産み出される、いや、自分が産み出す普遍的な 〈 人間的形象 〉に固執する。そのような女の振舞いは、男という人間的形象が自分たち〈 女 〉から産み出されたはずなのに 違う生き物 であるという現実 ( 端的に言えば "ファルス / 男根" を持つこと。ただしフロイト以来の精神分析に見られる去勢神話に安易に陥らない必要がある ) に対して影響を与え支配しようとするもの なのです。

 



 

 

A. 以上の点を踏まえると、が 性的なもの の向こうに男を見る事の意味、マリー・アンジュが官能性を駆使し、ヴァルテルを虜にして彼に影響を与える事の意味、が哲学的に理解出来るでしょう。この映画の結末も、この哲学的帰結をなぞる形になっています。ヴァルテルは、マリー・アンジュだけでなく、上司 ( であったのは夢の話で実際には彼の隣で一緒に寝ていた恋人 ) サラにまで理由も分からず追い詰められた挙句、殺されるのです。

 

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B. 組織に属するヴァルテルが女上司のサラの指令を受け、コラント伯爵を探すというストーリーが、実は、それはヴァルテルの夢の話であったというオチであった・・・ はずなのですが、夢から覚めたヴァルテルに対して、なぜか恋人のサラは夢の中のままの上司の装束で従者にヴァルテルを殺させてしまう ( 28~31. )。

 

C. もちろん、これを、ヴァルテルは実はまだ夢から覚めていないのだと解釈することも出来るでしょう。しかし、もしそうだとするなら、その帰結はヴァルテルにとって悲惨なものになります。夢から覚める場面がないということは彼はこの悪夢から逃げ出すことが出来ずに閉じ込められたまま なのであり実際に殺されているのと変わりがなくなってしまう

 

D. それはまさに2章で述べたジャック・ラカンのいう 現実界との出会い であり、現実的なものとしての〈 女 〉との出会い、だといえるでしょう ( )。しかし、ラカン現実界はそのありえない現実が主体に夢から逃避させる程の脅威であるのに、ヴァルテルは逃げ出せない。もはや、そこでは 彼は死んだのに気づかないまま眠ることしか出来ない のです。

 

E. 以下のラスト ( 32~37. ) を見ても分かるように、ロブ=グリエが描きたかったのは、マリー・アンジュに続くサラまでもが、男であるヴァルテルを追い詰めることで、 "男という人間的形象" を執拗に求めその内実までさえ奪ってしまう ( 殺してしまう ) 残酷さ に他なりません。そもそも、ヴァルテルは登場時間こそ長いものの、彼が一体誰なのかというアイデンティティを示すものがほとんどない、というか問題にさえならないという意味で、最初から〈 女 〉に殺されるべき役割しか与えられていなかったのだといえるでしょう。

 

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( )

ジャック・ラカン現実界と夢の関係については以下の記事を参照。