上記 ( 前回 ) の記事からの続き。
4章 フェリシア・レークの父親は誰なのか
さて、アンとスティーヴンが近親相姦の関係にあるとしても、もう一歩踏み込まなければならない問題があります。フェリシア・レークの父親は誰なのか、という事です。この問いを考える事によって、この映画からは、これまでとは違う恐るべき解釈を引き出す事が可能になります。それについては、後で考える事にしましょう。
アンが未婚の母であると知ったニューハウス警部は、当然、娘の父親は誰なのか、と興味を持ちます。 ここからのシークエンスで注意すべきは、ニューハウス警部の "父親は?" の質問に、アンが "私の父?" とはぐらかすような対応をしたことです ( 28~34. )。
もちろん、ここではバニーの父親以外の何物でもないのですが、アンは仕方ないという感じで、学校が一緒の男の子だと答える ( 36. )。続けて、彼女は言う "彼は重要じゃないの" と ( 37. )。奇妙な答えです。
ニューハウス警部が、なぜ子供の父親であるはずの彼 ( 学校の男の子 ) と結婚しないのかと聞くと、アンは驚くべきことに、"愛していなかった" と言う。続けて、兄が "もう これ以上、過ちを犯すな" と言ったことも引き合いに出す ( 42~45. )。
クライマックスに続いていく場面で、スティーヴンは、学校の男の子に夢中になり、子供を産んだことでアンを非難する ( 46~51. )。
以上のシークエンスを観たほとんどの人は、何も考えずに、学校の男の子が父親だったんだ、と信じているでしょう。しかし、それは単純すぎる解釈です。アンがニューハウス警部に対して、誰の父親の事を聞いているの、とはぐらかしたり、父親は学校の友達だけど、彼は重要じゃない、と言ったのは、逆に彼が父親ではないからだ、と気付かなければなりません。
しかし、46~51. のシークエンスの中で、スティーヴンが学校の友達の夢中になって子供を産んだ、と言っているじゃないかと、思う人もいるかもしれませんね。しかし、それはスティーヴンがそう思っているだけで、そうとは限りません。もし、そうなら、なぜ、アンは娘を、スティーヴンとの遊びの中で産み出した空想上のバニーの名前で呼ぶのでしょう。その名前は明らかに兄との 近親相姦関係を象徴する名前 であったはずです。
では、スティーヴンこそが、娘の父親だと、考えるべきなのでしょうか。その可能性は高いかもしれませんが、アンはそれを明言することはないのです。おそらく、ここがポイントなのですが、アンは明言しないのではなく、明言出来ないのです。つまり、父親が誰か分からない、というのが真実なのでしょう。
ということは、アンは誰とでも寝る女だった、という事です ( シーン 44. の彼女のセリフに表れているように )。だから、娘の父親は、学校の男の子かもしれないし、スティーヴンかもしれないし、彼ら以外の男であるのかもしれないのです。驚くべきことに、ここには、たんなる近親相姦を超える性的欲望が高まった母性が出現している といえるのです。
それを示すのが、映画の最初の方に出てくるマッジの絵画です ( *A )。アンとスティーヴンは、バニーを探すために、保育園の上の階に住むエイダの部屋に行くのですが、そこで唐突に、この絵が現れるのです。エイダの "マッジの悪趣味な絵よ。まるで母なる大地ね" のセリフは、この絵が醸し出す 母性の性的充溢 を仄めかそうとするものです。
さらにアンの母性の隠れた奔放さを仄めかしているのが、ノエル・カワード演じる家主のウィルソンが、アンに迫る場面です。ウィルソンに関係を迫られるもやんわりと拒否するアン。これをもしかして彼女の貞操観念の固さを示しているなどと思うのは間違いでしょう。そうであるならば、最初からこの演出は必要ないはずですからね。まさに、アンの中に男を誘うものがあるからこそ、ウィルソンは関係を迫った と考えるべきです。もっとも、ノエル・カワードの演技が妖しすぎて、アンがまともに見えてしまうのは致し方ないかもしれませんが ( 笑 )。
そして決定的なのが、ウィルソンがサドの熱烈な信奉者だったという事です。サドの頭蓋骨を自慢し、鞭を手に持つシーンは、たんにノエル・カワードの見せ場を作るためならば、全く意味のないものでしかない ( そうであっても不思議ではないという人もいるでしょうけど )。いうまでもなく、ここで、サドから引き出されるイメージは、乱交的なものであり、どの男とも関係を結ぶ アンの隠れた性的奔放さ に結び付けられるものでしょう。
( *A )
ここで言及されるマッジとは、おそらく、イギリスの女性アウトサイダー・アーティストの マッジ・ギル ( 1882~1961 ) なのですが、残念ながら、この絵は彼女のものではないでしょう。彼女の絵は、このような生々しい肉感的なものからは程遠い。幾何学模様で埋め尽くされた画面の中に人間が一体化したかのような絵について、彼女自身は霊媒的なものが発現したものと考えていて、それは神経症的な繊細さと反復行為の筆致によって成り立っているのです。
そのような絵の間違いが起きたのは、おそらくは、映画が撮られた当時は、マッジは、正規の芸術家 ( 美術教育を受けた ) でもないし、風変りな作風、霊媒主義、によって極めて奇抜な人物として受け止められていたからでしょう。つまり、奇妙なエピソードばかりが先行して、その作品はアートとしては認識されていなかったという事です、残念ながら ( イギリスの美術批評家ロジャー・カーディナルによって アウトサイダー・アート の概念が提唱されたのは1972年になってから )。
事実、この映画の中には、マッジの奇妙なエピソードを彷彿とさせるような描写がありますね。スティーヴンがニューハウス警部に母親について尋ねられた時、自分の母親は生前、霊的神秘主義に浸っていた、と答えている。
以下 ( 次回 ) の記事に続く。