『 私の男 』
◆ 著者 桜庭一樹
◆ 発行所 文春文庫
◆ 2010年4月10日 第1刷
◆ 初出 別冊文藝春秋 2006年9号~2007年7月号
◆ 単行本 2007年文藝春秋刊
目次
第 1 章 2008年6月 花と、ふるいカメラ p7.
第 2 章 2005年11月 義郎と、ふるい死体 p77.
第 3 章 2000年7月 淳悟と、あたらしい死体 p147.
第 4 章 2000年1月 花と、あたらしいカメラ p193.
第 5 章 1996年3月 小町と、凪 p285.
第 6 章 1993年7月 花と、嵐 p343.
解説 北上次郎 p446.
" 腐野淳悟は、わたしの養父だ。彼がわたしを引き取って育て始めたのは15年も前のことで、いまではもうはるか遠い、時の彼方の記憶だ。そのころ、わたしはたちは東京ではなくべつの町にいて、あるときからいっしょに暮らし始めた。わたしは小学四年生で、震災でとつぜん家族をなくした。淳悟は遠縁に過ぎなかったけれど、いくつかの複雑な手続きを経て養子縁組し、養父になってくれた。八年前、淳悟が三十二歳のとき、わたしたちは東京にやってきた。そしてわたしは二十四歳になって、明日、結婚しようとしている。"
『 私の男 』 p.13
" わたしはいつのまにか大人になって、気づけば、養父が自分と出会ったころの年齢に差しかかろうとしていた。あのときどうして、腐野淳悟はわざわざ、面倒な小学生を引き取ろうとしたのだろうか。子供のころは、養父の気持ちがぜんぶわかっているつもりだった。でも、大人になったら、すこしもわからなくなってしまった。時が過ぎるほど、過去の若い淳悟は謎めいて、水に沈むように滲んで、遠ざかっていくばかりだ。淳悟という男の、過去の選択も、これからの行動も、わたしにはよくわからない。ただ確信できているのは、雨のような匂いのするこの養父こそが、まぎれもなく、私の男だということだけだった。"
『 私の男 』 p.13~14
▶ 主人公の花と養父である腐野淳悟の奇妙な関係性は、親子である事と男女である事のふたつの関係性が二重に重ね合わされている 所に、その特徴があるといえます。そのような二重関係は、ここでは精神分析的に理解されるべきで、それをせずに近親相姦への道徳的拒否という表面的イメージによって、嫌悪感を吐露するばかりでは何の読解価値も生まれません。つまり、文学を作品として成立させるには、それ相応の読解によって価値を与える必要があるという事です。そのような読解が出来ないのを作品のせいにするとするならば、その人は自分の読書行為が無駄であったという間抜けな告白をしていることになるでしょう ( どうしても作品に何の価値もないと感じるのなら、黙って無視すべきです )。
▶ この二重関係は、淳悟にとっては近親相姦であるものの、花自身においては、近親相姦でありながらも、そこから脱け出し女性主体として淳悟を愛そうとする欲望が生まれる契機となっているものです。淳悟の近親相姦的欲望 と、花による男という他者を愛する女性的欲望、この二重性は、ある点で交差しながらも、そこを過ぎるとすれ違いが続いていくという奇妙な状況が生みだしているのです。
" わたしは、ここにやってきたときからずっと、おとうさんに抱かれている。誰にもこのことを話していない。大好きな友達にも。ほかの親戚にも。先生にも。誰にも。もし知られたら、おとうさんが捕まってしまうようなことだ。誰かに話したいとか、わかってほしいと思ったことはなかった。大事なことは、誰にも知られたくなかった。"
『 私の男 』p.221
" 腰に腕を回されて、起きあがらされた。下半身で淳悟を締めつけるようにして、きつぅくつながったままでじっとみつめあった。両手でわたしの乳房をいじりながら淳悟が、甘えるような顔つきをして、ゆっくりと口を開けた。こうやってつながっているときだけ、ほんのときどき、わたしと淳悟は、どっちが保護者でどっちが子供なのか、くるっと入れかわってしまうことがある。"
『 私の男 』p.221
" 起きあがった淳悟が、わたしを抱きしめて、子供のように泣き出した。手のひらでほっぺたを弱々しく撫でてから、恋人どうしのみたいな優しさで、唇をあわせた。汗と唾液のむっとするようないやな匂いが、ベッド上に漂っていた。あぁ。秘密の匂いだ。"
『 私の男 』p.430
" 唇が、離れた。「 お・・・・」淳悟はひれ伏すように頭を垂れて、甘い声でわたしを呼んだ。「 おかあ、さぁん ーーー!」"
『 私の男 』p.430
" 唾液でべとべとにされた腕をのばして、淳悟の頭を抱きよせてあげた。やっぱりそうだったのかな、と思った。わたしとこの人は、よく似ている。わたしとこの人には、おかしな縁がある。わたしとこの人は、血が……。「 おかあさぁん。おかあさぁん。花……。花…… 」"
『 私の男 』p.430
" 夜のあいだだけ、こっそりと大人になったような気持だった。大人だけど、人間じゃなかった。わたしは淳悟の、娘で、母で、血のつまった袋だった。娘は、人形だった。父のからだの前でむきだしに開いて、なにもかも飲みこむ、真っ赤な命の穴だ ーーー 。"
『 私の男 』p.430~431
▶ 淳悟の近親相姦の欲望が、母親を求める欲望であることが分かるのですが、彼に対して花は、娘であり、母であり、欲望の対象としての人形でもある、という多重性を演じる事になります。そのような状況で、花は、淳悟を父親でありながら父親ではない1人の男として見ようとする自分の中の 女の萌芽 が芽生えている事に無意識的に気づき、揺れ動いていくわけです。
▶ もちろん、小説は、そこら辺についてはストレートには描写せずに、2人はあくまで近親相姦関係に過ぎないかのように話が進んでいきます。花の離れたくても離れられない父親依存は最後まで ( 最後といっても小説は過去に遡る形式なので、第1章が物語の結末になっている ) 残っているかのように見えるのですが、しかし、これは別の男性と婚約が決まっている花の、どうしようもない男である淳悟に対する遡及的美化でしかありません。
" わたしと養父はこんなふうに、これまでずっと、世間においていかれながら、二人きりで並んで歩き続けてきた。わたしが九歳のときから、二十四歳の今日まで、ずっと。"
『 私の男 』p.39
" あきれるのと同時に、むくむくと、おとうさんから離れられない、という気持ちが、不吉な雨雲のようにまた広がってきた。それは醜い病原菌にようにわたしのからだに棲みついて、あの懐かしい九歳の夏から、けして治らないのだった。"
『 私の男 』p.40
" 奇跡のようにうつくしかった瞬間も、目をそむけるしかない醜い行動も。正しいつもりの行いも、ただ安易だった選択も。すべて、わたしたち父娘だけのものだった。でもそれは、いままさに、澱んだ過去に変わろうとしていた。わたしが、捨てていくからだ。"
『 私の男 』p.50
" わたしは、できるならまもともな人間に生まれ変わりたかった。ゆっくりと年老いて、すこしずつだめになっていくのではなく、ちゃんと家庭を築き、子供を産んで育てて、未来をはぐくむような、つまりは平凡で前向きな生き方に、変えたかった。そうすることで、手ひどい過去までも、ずるく塗りかえてしまいたかった。そうやって自分を生き延びさせようとしていたのだけれど、いまこうして、こんな明るい場所にじっと座っていると、わたしのわたしそのものである部分 ―― 見たことも触ったこともない、魂の部分が、ゆったりと死んで、震えながら急速に腐っていくようにも感じられた。"
『 私の男 』p.58
" 養父と離れても、わたしからはあの、真っ黒な憎しみがあふれ続けていた。これからはいったい誰が、わたしからあふれるものを、奪ってくれるのだろう……。答える声はなくて、ただきらめく波だけが寄せては返すばかりだった。"
『 私の男 』p.59
▶ つまり、精神分析的に見るならば、尾崎義郎と結婚する花にとって、義郎以外の "男" がいることは自分の奔放な欲望を認めてしまう事になるが故に、淳悟を "男" ではなく "父親" に固定しなくてはいけないのです。つまり、ここにあるのは 捏造された父親幻想 ということですね。
▶ 花の奔放な欲望は、ある意味で淳悟の近親相姦の欲望よりも強力であり、獰猛なものである といえます。そのような自分の中の激しさを認めきれずに、淳悟に父親幻想を投影することによって疑似倫理感に浸る花は、大人であるにも関わらず、少女である事 ( 桜庭一樹の小説における主人公の特徴的モチーフ ) に無意識的に固着している といえるでしょう。
▶ ここで興味深いのは映画版『 私の男 』です〈 ※1 〉。映画のラストで、二階堂ふみは、原作では隠された花の奔放かつ獰猛な欲望を見事に表現して原作のキャラの壁を突破しているのです。ここに異和感を感じた原作ファンもいるでしょうが、この演出によって、花の隠れた欲望の真実が露になっているのは間違いないでしょう ( それを監督の熊切和嘉が狙ったかどうかは分かりませんが )。
〈 ※1 〉
▶ 映画『 私の男 』については次の記事を参照。