〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 4 〉

 

 

前回記事からの続き

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第6章  戦士と平穏的市民

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 ここで再び、文化について考えることにしましょう。人間は文化を通じて、人間自身に対して最大限の暴力が加えられる政治的攻撃性を自己抑制する昇華を成し遂げている。他人との闘争・他人への攻撃、等の対他的暴力という自己実現化ではなく、自分自身をひとつの物 ( 作品など ) へ置換変化させる ( ドゥルーズ=ガタリなら生成変化と言うであろう )、つまり、"力というもの" が他人 / 対象物に攻撃圧を加える "対象破壊-力" 、"対象操作-力" として占有的に現実化される事態に対して、力の別の行使の結果として文化という新たな現実物が昇華的に生まれたという事です。既に存在する人間 / 人間集団という現実物は、その既に在る ( 人間 ) 物という誰にとっても揺るがない "対象事実性" によって破壊するか統治操作するしかない、という力の限定行使( 権力 ) を袋小路的に誘発してしまう。それに対して、文化は既に在る ( 人間 ) 物に力を行使するのではなく、( 事実 / 既存 ) 物ではない新たな ( 生成 ) 物を生み出す事に力を用いる というような、力のベクトルの根本的変化という昇華に成功している。既に人間物はあるのだからそこに力を行使するのだという権力的力ではなく、新たな生成物を生み出す事に力を用いるという自己昇華性へと力の適用領域が移動している訳ですね。

 

 ここにおいて人間は人類史において "戦争という対他的暴力" とは違う別の選択肢としての "対自的平穏・平和"潜在的に獲得し、人間同士の共生への道を結果として切り拓いている。違う言い方をするならば、人間が人間自身に加える暴力行為及びその極値としての現実的戦争に対して、攻撃衝動それ自体が放棄された平穏状態を対置する事で、水と油である対極的な双方に "選択可能なカップリング化" を施すという無意識的な "隣接-接合論理 ( 戦争と平和 )" に行き着いている。 ただし、これは即座に、戦争行為と反戦行為というイデオロギー行為の選択に直結するものではなく、戦争という暴力行為に注ぎ込まれるあらゆる意味での国家的欲動の急激化は、人間個人の心的布置、心的バランス、とは同じ暴力性を行使していたとしても、そのエネルギーの巨大性において論理的落差として人間個人の欲動の減退を生み出すという論理性の問題なのです。

 

 つまり、単なる人間個人間で起きる暴力的対立も、国家規模の暴力的対立の巨大次元になると打ち消されてしまう暴力性の反転的事態が最後には起きてしまう。個人レベルで相手に突発的な暴力行為を働かせる欲動も、戦争等の国家規模の暴力の長期的展開の次元になると、その暴力的欲動はもう個人レベルでは維持できないものになる。何故自分が戦っているのか分からない、もうこれ以上は戦いたくない、といういわゆる心が折れる状態 ( 降伏 ) が自己の存在を無意識的に守るような形で現れる。例えば競技スポーツや格闘技の経験のある方ならば、圧倒的に強い相手と戦いダメージを負った時、最初に持っていたはずの闘志は簡単に消え去り、それどころか、もうこの戦いが早く終わってくれ と心の中で思いながら規定時間の消化を待つという事がよくあるのはお分かりでしょう ( 外から観ている人には普通に戦っているようにしか思えなくとも  )。これが大多数の人にとっての戦いにおける心的状態の移行の真実、戦時最中にありながらも抱く戦いからの逃避願望、なのですね ( だからこそ、そのような自軍の逃亡兵士を後方から監視、場合によって射殺する後方部隊の存在がある )。一部の軍人の英雄視や軍事思想・軍事戦略史などは戦争の次元を自動的に聖化する論理に浸透化され過ぎて、 戦いを拒否する事もまた戦争の中の論理のひとつである とは夢にも思わない。

 

 この戦争の聖化的分析の例としては、軍事史研究の大家 マーチン・ファン・クレフェルト ( Martin Van Creveid ) の見解が挙げられる。彼は偉大な指導者と称されるウィンストン・チャーチルやセオドア・ルーズヴェルトらが戦争それ自体をいかに楽しんでいたかを示しながら、人間にとって戦争は手段なのではなくそれ自体が目的なのだ、 人間は戦争を求めているのだ、と説明する。

 

いつの時代にも戦争に対する嫌悪感を伴う恐怖を語る人がいれば、その一方で、戦争のなかに、自己の経験のなかで最高のものを見いだす-老後に、戦争中の手柄話を物語って子供や孫たちをうんざりさせるほどにまでなる-人もいる。 最近のもので、かつ西洋文明世界の例をほんのいくつかあげれば、ロバート・E・リーは、「 戦争が恐ろしいのはいいことだ。 さもなければ戦争ばかりしてしまう 」と言い、セオドア・ルーズヴェルトは何よりも善き戦いを愛し ( このテーマについて、ルーズヴェルトは詳細に論じている )、機会が巡ってくると義勇騎兵隊を率いてキューバ戦線のスペイン人狩りに出かけた。 ウィンストン・チャーチルは若い頃、各地の戦争に首を突っ込み、第一次世界大戦直前には女友達に、戦争に参加すると自分がいかに興奮するか、ぞくぞくしてくるかを書き送っている。 一九四五年、第二次世界大戦終結が迫ると、チャーチルは自殺したい気分に襲われたということである。 ジョージ・パットンは日記に、戦争が「 好きで 」たまらないと書いている。 〈 中略 〉。 パットンやチャーチル、セオドア・ルーズヴェルト、リーが偉大な指導者たちとみなされている一つの理由は、彼らは戦闘という環境のなかで生き生きとしていたからである。彼らを含めて時代や場所を問わず偉大な指導者たちは、自分自身が戦闘を楽しんでいるから、数えきれないほどの人たちを鼓舞してあとについてこさせることができたのである。

 

『 戦争の変容 』 マーチン・ファン・クレフェルト / 著 石津朋之 / 監訳 p. 269 原書房 ( 2011 )

 

もし戦争が、危険に勇敢に立ち向かい、危険に対処し、危険を克服することを伴わなかったら、戦うことに意味はなくなるばかりでなく、その活動自体が不可能になる。 〈 中略 〉。 要するに危険が戦争を動かしているのだ。

 

前掲書 p. 273

 

 戦う人間はすべてを危険にさらすので、その人間は何であれ自分の命よりも大切と思われるもののために戦う。 〈 中略 〉。 神、国家、民族、人種、階級、正義、名誉、自由、平等、友愛は、人間がいつでも命を捨てる理由となる無意識的全体性を表現する神話的観念として同じ部類に入っており、実際、人は昔からこういったもののために死んできている。 さらに注目すべきは、この方程式が逆にもなることだ。 神話的なものの名において、血が流されれば流されるほど -たいていは我々自身の血だが、敵の血が流れる場合もある - それは神聖化される。 神聖化されればされるほど、合理的、実用主義的な言葉で考えられなくなる。 流血に対して大きな、崇高ですらある意味を与えようとする人間の欲求は非常に根元的なものなので、知性をどうしようもなく無力なものにしてしまう。

 

前掲書 p. 276

 

 

 クレフェルトはここで戦争を賛美しているのではなく、軍事史研究家としての冷静な視点から、戦争の歴史を通じて戦争というものが人類にとっていかなる意味を持つものなのかを原理的に考えようとしているのですが、彼は 戦争が人間を英雄的主体 ( 兵士、軍人、軍人政治家、等 ) へと駆り立てる "通過儀礼のようなもの" と考えてしまっている。 そう、彼はここでクラウゼヴィッツミシェル・フーコーが問題にした "戦争と政治" という両概念の相互関係性を一気に飛び越えて "戦争と文化" の関係性考察、いやそれどころか戦争を文化へと強引に同一化させようとする "文化の権力化" とでもいうべき最悪の権威主義的帰結へと至っている ( 彼には『 戦争文化論 / The Culture of War 』という著作がある )。 彼は 「 戦争は権力に仕えるのではなく戦争こそが権力なのだ 」 と言うが、戦争が政治である事を越えて、さらに文化と同等視されてしまえば、それは文化領域の自律性が尊重されるのではなく 文化が権力形態化される事態になっている事 に彼は全く気付かない。いうなれば文学や映画などの芸術嗜好の強かったスターリンが権力側から芸術に干渉する振舞いとそう変わりはないという事です。文化が権力とは違う自立物である事の意味が全く考慮されない のですから ( スターリンはそのような自立物に魅了されたからこそ、その昇華的破壊物が政治体制を転覆させないようにコントロールしたといえる )。( * )

 

( * )

クレフェルトがここで得意げに語る戦争文化論は、既に二百年以上も前にカントによって記述されていて、彼はそのような見方は真実であるとしても戦争を肯定するものとして暗黙の内に批判している、何しろカントは戦争は悪だと何回も言っている程なので。

 

 しかし戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要でない。 戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。 それどころか戦争は何か高貴なものとみなされて、利己的な動機なしに栄誉を求める気持ちから行われるもののようである。 だからアメリカの未開な民族も、ヨーロッパの騎士時代の人々も、戦う勇気というものはそれだけで重要な価値のあるものと判断したのであり、この勇気は戦争のさなかだけでなく ( それは当然のことだから ) 、戦争を始める際にも高く評価されたのだった。 こうした戦う勇気を示すためだけにも戦争が始められることが多かったのであり、戦争そのもののうちに、内的な尊厳のようなものがあるとされたのである。 そして 「 戦争は悪である。 戦争は多数の悪人たちを滅ぼすが、さらに多数の悪人を作りだすからだ 」 というギリシアの格言を忘れて、哲学者たちまで、戦争は人間性を高めるものと称えるのである。

 

『 永遠平和のために / 啓蒙とは何か 』 カント / 著 中山元 / 訳 p. 202~203 光文社古典新訳文庫 ( 2006 )

 

 

 戦争を人類が憧れる危険を克服した英雄的主体化の為の通過儀礼であるとして疑似文化論的に語る時、クレフェルトは暗黙の内に 人間選別という極めて "原-政治的な差別化" を行なっている 事に注意すべきです。少し考えれば分るはずですが、全ての人間が英雄になれるわけではない。全ての人間が英雄であるのならそれはもはや英雄ではない。全てが均質的な人間なのだから突出的な英雄はそこにはいないという事です。つまり、英雄とは人間集団の中から選ばれた少数の頂点、人間集団を統率する少数者の代理形象なのであって、英雄になれなかった者たちはいる事は問題にすらならない。おそらくこれこそがクレフェルトが語ろうとしない戦争が曝け出す別の本質、戦いを欲する少数の英雄的主体の下では 戦い自体に価値を見出せない多くの人間が仕方なく戦っているという脱暴力的論理戦争論理から反照的に出現している。"暴力 / 戦争という非日常的極端性" を望む者がいる という事は、同時に、その欲望を成り立たせる反照点としての暴力 / 戦争を望まない者がいる事を意味する。そしてそれは、戦争という危険性への "欲望" が日常的恒常性への "願望" へと次元移動している事態、つまり、戦いの中で自己の生存価値を確認する "戦士 / 軍人" ではなく、平和という日常を過ごす事に安住する "平穏的市民" という別類型人間の対抗極的出現 でもあるのです。

 

 クレフェルトはこの類型的人間のもう片方、戦闘・戦争を好む勇敢な者のみが人間史において価値があるかのように語り、そうでない多くの人間については語ろうとしないし、語る術もないのです。これでは少数者こそが人間史において語る価値があるかのような権力主義的思考であり、戦争に勝つためならば味方が犠牲になることも厭わないチャーチルと変わらない ( チャーチルは民主主義を否定はしないが、自らの "戦闘精神" と照応させた時、民主主義に一抹の侮蔑を抱いている )。 "人間史" とは、歴史の表舞台には上がらず語られず、ひたすら忘れられ続ける現在進行形的永劫性の中に消え去る人間たちの "埋没史" に他ならない ( 私たちの大多数がそうなのです ) という事実にクレフェルトは何の興味もない。 そこでは、まるで人間の歴史の形成は、戦争及び戦士・軍人、軍人政治家等の特権的英雄によって担われてきたかのように話が進む。

 

 しかし、人間の歴史を英雄史としてではなく "精神的な地層史" と見なすならば、 その堆積物は、間違いなく歴史の中から忘却され時間の物理的進行の奈落へと埋没していった "巨大な事実体" に他ならない。それはどれだけ無視されようと、"無意識的知-層" として歴史を形成している。この観点からすると、ソルジェニーツィンの『 収容所群島 』は権力によって消滅させられる人間たちの "埋没史" のひとつであり、それは権力の傍系史として共に人間の歴史を形成している事を明らかにしてくれたのです。そして彼の『 クレムリンへの手紙 』がロシアの未来の政治舞台としてシベリアを挙げるのは、モスクワのクレムリンを中心とした政治が抑圧し続けて来た人間的実存への政治的開明"辺境性" へと無意識的に願望転化している からだといえるでしょう。

 

 

以下の記事へ続く

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▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 3 〉

 

 

 

 

 

 

 第5章  両極化された人間形象

 ソルジェニーツィンの 『 収容所群島 』 とスターリニズムは暗黙の内に、 普遍的人間がこの世界には具体的には存在していない ( しかし抽象物としては存在する ) 事を証明してしまっている。 具体的に存在するのは、 人民を支配する独裁者である事の極と、 支配される人民、囚人、農奴、 という被支配集団の極という "人間" の分裂した両極なのです。 つまり、 一方は 人間が極限的に暴力化された超越的人間存在 ( 独裁者・指導者・総統 ) であり、 他方は 人間以前の人間である事が出来ない非人間的群生 ( 人民・強制収容所囚人 ) であるという具合に、 人間を超えるか又は人間に至らないか ( ここに "人間" という中庸は存在しない ) の極限化の相反するパターンに分裂している。

 

 クロード・ルフォールは 『 余分な人間 』 においてこの "独裁者 ( エゴクラット )" について執拗に論じているが、 彼自身この "一者" の観念を独裁者のみに帰せられる単独的な政治観念として処理しようとするが上手くいかないが故に何度もこの観念に立ち戻って論ずる羽目、 つまり "一者" が独裁者だけの占有物ではなく人民定義にも引っ掛かる何かではないのか、 人民は "余分な人間" という "一者の堕した下部量産的別ヴァージョン" なのではないか、 と秘かな疑心暗鬼になっている。

 

 ルフォールに対する通常の教科書的理解では、 人民という一者の統一性を確立する為に、 外部世界のユダヤ人や資本主義陣営、 等の他者が仮想敵として必要とされるとなるのですが、その考えは余りに単純過ぎる。 そこには、 権力側が人民に与える統治イマージュ、 独裁者という "真の一者"服従的に同化する為に人民に与えられる陰画としての "偽の一者" という一者の統治性、 の真の意味が見落とされているのです。 この一者という統治形象の反転性 ( 人民に向かう時の ) は、 独裁者の潜在的な敵が外部ではなく内部の人民と称される人間集団である事を教えてくれる。 真に人間的であるのは独裁者という政治的存在のみに許される政治頂点存在こそが真の人間なのであるのだから人民はその独裁者の栄光の分け前を偽の一者という形で授かる存在でしかない、 という 人間形象を巡る権力奪取 が権力活動の基盤としてそこでは起きているのです。 ルフォールは以下の引用のように言うのですが、 これは正しくは、 人民という一者にとって余分な人間が外部にいるという事ではなく、 人民こそが独裁者から見て余分の人間である、 いやもっと率直に言うと、 独裁者にとっては他の "人間自体" が余分なのだ ( 自分こそが人間なのであるからそれで十分なのだ )、 と読み換えられるべきでしょう。

 

 

各相が他の相を反映する二重のイメージ。それは、一にして不可分の人民のイメージを支えるには、この敵、この他者のイメージも必要だからである。 「 全体性 」を創始しようとする運動はつねに、「 余分な 」人間を排除する運動を必要とする。 一者を確立しようとする運動は他者を抹殺する運動を必要とする

 

『 余分な人間 -「 収容所群島 」をめぐる考察 - 』 クロード・ルフォール / 著 宇京頼三 / 訳 p. 77 未来社 ( 1991 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

 ここで興味深いのは、 "人民" を巡るルフォールジョルジョ・アガンベンのアプローチの差異です。 ルフォール"独裁者という一者" からの反転的人間形象としての数量化された陰画体こそが人民形態なのではないか とそこに弁証法的関係性を見いだそうとする ( 上手くはいっていないが ) のに対して、 アガンベンは人民を "指導者 / 主権者という形象" との内的関係性からは切り離された、 "剥き出しの生" を体現する潜在力として人民を単独固定化しようとするアガンベンにおいて人民は常に 権力に抵抗する為の対敵正義性が具現化された根拠物と化している のです。  ある意味でそれは抵抗する事こそ正義だという単純な見方だとも言えるでしょう。  しかし、 よく考え直さなければならないのは 人民は必ずしも正義によって権力に抵抗するのではない 、 つまり、  抵抗するから正義なのだとは必ずしも言い切れないという事です。  現代においても市街地での民衆デモにおいて発生する暴力行為・略奪行為・破壊行為を見れば、 抵抗を正義の概念に収斂させるには無理があるのは分かるはず ( この暴力性を闘争とオブラートに言い換える人もいますが )。 抵抗という行為には正義の概念からは逸脱する対抗的暴力の要素が過分に含まれているのです ( ここは第2章で引用したデヴィッド・グレーバーの話に繋がる所でもある )。

 

 なので、 そこで起きているのは正義の抵抗などではなく、 権力という暴力に抗する "もうひとつの暴力的対抗" だと考えるべきでしょう。 それはもはや防御的意味合いの強い抵抗などではなく 相手に攻撃を仕掛ける迎撃的な意味での物理的対抗性 だといえる。  つまり、 一方の暴力は度を越えると相手側に平穏的閾の限界を越える暴力を誘発する "対抗極性" を生み出す ( 国家間・国家内、家族内、個人間、のあらゆる集団的関係において )。  黙って死ぬのが嫌なのであれば生きる為の選択肢として反撃行動を選ばざるを得なくさせる 暴力極性が "政治" 的物理性として生まれる のです。 このような暴力には暴力で以って相対時するという "暴力=暴力" の等式こそがシュミットがホッブズを経由して考える人間関係の根源性であり "原-政治" が働き出す所でもあるのです、 残念な事に。

 

 以上の事を踏まえると、 アガンベンが人民を媒介にして考える政治的正義は評価される程ラディカルなものではない、 どころか依然として暴力極性に支配される人間行動の範囲内に留まる凡庸なものでしかないし、 そのような行動原理を考察したシュミットの思想を到底乗り越えられるものではないのが分かるでしょう。  それは最近のコロナ騒動において国民に対する隔離政策を実行した国家に対して、 人間の生の形式から単純に批判するアガンベンの短絡的な振舞いに表れている。 国家の強力な隔離政策やワクチンの効果などの検証されるべき問題とは別に、 そこで展開されるアガンベン自身の思考が、 人間性の尊重という観点から為される国家批判という余りにも単純な論点にしか行き着いていない事こそが問題です ( ただし、 これでアガンベンの思想が全面的に駄目だという事なのではありません )国家に対する "抵抗の正義 / 正義の抵抗"  を訴える思想は単純に成り過ぎると、 反ワクチン論者や陰謀論者などのイデオロギー論者に都合のいいように利用されてしまう 事をアガンベンはその身を以って示してしまったのです ( 話を知らない方は検索をかければコロナ騒動を巡るアガンベン批判の記事が見つかります )。

 

 ではアガンベンの思考の何が問題なのかというと、 人間というものが権力側から虐げられた弱者の側に現れる非人間的扱いを受ける者 ( アガンベンが言うところの "聖なる人間"、"強制収容所の回教徒" ) としてしか考察されないという事です。 極限状況における非人間的人間の出現は確かに権力に抵抗しうる政治的正義の根拠となるものかもしれなません。 しかし、 本来それは政治的実存者とは違う "剥き出しの生" を体現する者であるはずの "人間" が、 "権力への抵抗物" としてイデオロギー化されている為、 生というものを政治的支配の中に組み込む権力側と同様に こちら側も抵抗の為とはいえ生を人為的に政治に組み込む事態になっている事アガンベンは無自覚なままでいる。  つまり、 アガンベンの言う "剥き出しの生" は生自体を何ら捉えるものではない ( 彼の思考には語学・文献学への思想的依拠はあっても、生一般を原理的に考えようとする哲学的抽象性はない ) どころか、 極めて "政治的な抵抗概念" でしかない事にアガンベン自身は気付く能力がない訳です。  確かに人間が把握しきれない生一般の流れというものはあるのですが、 それを思想的に考える行為自体は決して "純粋な生" などではなく、 それどころかむしろ、 生の無意識的な流れ自体に抵抗する非人間的行為 ( 反人間ではない ) である のです ( おそらくヘーゲルハイデガーはその事を理解している )。  その事に気付かない者は政治的正義という倫理への無意識的依存に陥る事しか出来ないでしょう。

 

 そうすると、 ここで発生しているのはアガンベンに反して、 "人間" が人民の側だけでなく、 独裁者・主権者の側にも 〈 形象 〉 として両極的に現れるという事態なのです。 上で既に述べた事ですが、 一方には人間が極限的に超越的存在化された 〈 独裁者・主権者 〉 の極があり、 他方には人間以前の、 人間である事が許されない非人間的群生としての 〈 捕囚的人民 〉 の極がある。 この弁証法的両極化こそルフォールが考えようとしていた問題 ( しかし、 これ以降の彼は人間形象を突き詰めて考える事なく、 全体主義対民主主義という脱哲学思考的政治研究に向かってしまう ) なのですが、 これは "人間的なるもの" を巡っての闘争、 誰が最も 〈 人間 〉 であるのかという一方的な権力闘争、 誰が最も人類史における "人間形象把握者" であるのかという統治神話の反復的実行、 これらの結果によるものだといえるでしょう ( * )。

 

 

 

( * ) 長い余談になりますが、このような "人間形象把握者" を巡る話としては庵野秀明の 『 シン・エヴァンゲリオン劇場版 』 ( 2021 ) が思い起こされますね ( さらにその話の変形ヴァージョンとして 『 シン・仮面ライダー ( 2023 ) 』 がある )。 NERV の人類補完計画ではなく、碇ゲンドウ ( そして葛城博士 ) の人類補完計画が、生命体が "個体" である事 ( A.T.フィールドという境界領域概念によって示されているように ) の不完全性 ( 使徒と人類との戦闘、人間間の対立、など ) を人類知 ( 同シリーズでは知恵の実と表現される ) が溶け込んだエヴァ初号機において乗り越える、つまり、エヴァ初号機を媒介にすれば、人は個体の殻・境界を溶かして融合するひとつの生命体になれる ( 碇ゲンドウは初号機において同機に取り込まれる形で先に亡くなった妻のユイと融合する ) という疑似宗教的思想だと思われかねないものである事を同作品は明らかにする。 碇ゲンドウはそのような高尚な思想の持ち主である、すなわち、"融合的生命体という形象" で以って人間を超越的存在へと至らそうとする "人類に対する主権者 ( あるいは神 )" と化している 訳です ( 融合的生命という考えに限って言うと、庵野はかつて永井豪デビルマンへの言及という形でアイデアの源泉を仄めかしている。 言うまでもなくデビルマンは人間の不動明と悪魔アモンの融合体 )。

しかし、それで話が終わるのなら同作品の核は本当に疑似宗教的権力思想になりかねないのですが、驚くべきことに庵野秀明碇ゲンドウの話をさらに突き詰める。 庵野はそのような碇ゲンドウの思想がどこから生まれたのか、いかなる経験が彼のそのような思想的昇華をもたらしたのか、を息子のシンジに向かい合う形で碇ゲンドウ自身に語らせる。 学生時代の彼も息子のシンジとは似て異なるが自分を周囲から浮いて殻に籠った人間であったが、後に妻となるユイ ( つまりシンジの母 ) だけが彼を受け容れてくれた愛の経験こそが、人間の成長にとって自分自身を超え出る事の必要性を教えてくれたのだと語る。 さて、このさほど衝撃の無い誰にでもあり得そうな凡庸な日常経験エピソード、単に碇ゲンドウは妻のユイと一緒に成りたかっただけじゃないかと邪推させかねないエピソード、こそが、ここでは大切なのです。

この凡庸な "日常的現実" の経験の中からこそ碇ゲンドウの超人間的思想という "想像的虚構物" が昇華的に生まれている事が重要になる、この "繋がり" が。 "現実と虚構" という言葉自体もこの物語の中に台詞の一部として出てくるし、この映画の作画自体も2Dアニメ描写の登場人物の背景が現実の世界に近い効果を生み出す3D合成物となっている為、その2D ( 虚構 ) と3D ( 現実 ) が組み合わされた非調和的CGI に違和感を感じた方も多いはず。 この意図的組み合わせが波長的グラデーションとして度々挿入され最終的にはラストの宇部新川駅という現実へと移行していく。

庵野は明らかに、虚構 ( 融合的生命体・超人間思想、そしてアニメ自体 ) と現実 ( 碇ゲンドウの学生時代の日常的経験・登場人物たちの田舎での生活、そしてアニメではない現実の日常 ) の両極を意図的に、かつ精神分析的ショートカットとして繋げている。その両極によって "人間" は媒介されていることを彼は知っている。 現実だけでは人間は生きていけないし、かといって虚構に依存するだけでも人間は生きていけない現実を生き抜く為に人間は時に、非常事態的に虚構を必要とするそしてまた現実へと帰っていく庵野はこの人間的真実をここで描いているのですが、この作品を単なるアニメ映画としてしか考えない人は、両極の弁証法的繋がりを原動力として生きる人間的真実には永遠に気付かないし、だからこそこの作品に差し込まれる "日常的現実" を退屈なもの・過激性からの撤退としてしか受け止めない人も出てくる訳です。 長くなりましたが、この弁証法的両極性の使用が、ルフォールによる人間形象を巡る独裁者と人民の関係性に対するアプローチとの近似性を思わせるという話でした。

 



 しかし、実はこの両極化は不均衡な結末になっている。 というのも、集団を支配する行為の主体者こそが人間形象を代表するという歪んだ形式性 を通じてではあるが、独裁者・主権者がそのようにして "人間的なるもの" に意識的かつ非常事態的にアクセスするのに対して、被支配的人間集団の方は、労働などの日常生活への没頭であれ、権力への恐怖反応や暴動反応であれ、日常行動自体には "人間的なるもの" への知的反省を促すような契機物が無いからです。 "人間的なるもの" を日常生活の中で考える為には 日常生活には役に立たない・必要ないだろうという疑似思考の節約経済 に逆らう外部知性・外部教養を自らの中に引き込む過剰な ( あるいは無駄な ) 非日常的選択行為が必要になる。 つまり、残念ながら、 "人間的なるもの" について考えるという非日常的行為・非常事態的思考 ( シュミット的に言えば、思考の例外状態 ) は人民の側よりも権力の側で強く働いてる  ( だからこそ、かつては知識人の果たす役割が強い時代もあったのですが、現在では人民自身が特にそのような "人間" を望んでいない )。 このような傾向は、レーニンスターリン毛沢東ポル・ポト、最近ではプーチンなどの独裁者の読書量や知的教養の高さを示すエピソード ( 実際、そのような本もある ) が私たちの関心を引くところに無意識的に現れている ( 一般人民が思うよりも彼らの知性は高いのだという神秘性願望 ) 。 事実がどうであれ ( 知的教養があっても暴力性と共存できる恐るべき人間はいる )、そのような独裁者たちが暴力的でありながらも知的教養が高いかもしれないという私たちの興味が成立してしまう所に既に "知性の他在性願望" 、物事をあまり考えたくない、自分以上に物事を考える人間を遠くに据え置く、という私たち自身の "知性の減算傾向"、が現れているのです。

 

 

 

 

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 2 〉

 

 

 

 



 第3章  人間が人間に向き合うという暴力的関係性

 ここで大切なのは、 人間が直接的に尊厳を持つとはいかなる "現実" であるのか誰も分からない という事です。 分からないからこそ人間は人間に対して未だ暴力を加え続けるのです、 国家政治体制内であれ、 学校の学級内のいじめであれ、 家庭内暴力の場合であれ。  分からないこそ人権概念による保護を人間は必要とするのですが、 その法の普遍性の出現は、 人権概念を尊重する者であれ踏みにじる者であれ、 人間的尊厳が暴力的圧制の中から生まれざるを得ないという 人間が人間に対して行き詰っている根本的な愚物性、 人間が人間に対して向かい合う事が暴力への欲望を引き起こしてしまう愚物性、 を裏付けてしまっている。 そうすると、 法の民主主義的普遍性の神秘とは、 このような人間的愚物性の袋小路の中からの跳躍的反照化として出現している人間集団における根源的関係性である自己暴力性に対する耐えがたさから出現している、 のだと逆説的に考えられるでしょう。

 

 つまり、 残念ながら根源的であるのは人間的普遍性 ( これがキリスト教や人権概念の歴史的発生を考えれば後出のものであるのはお分かりでしょう ) ではなく人間集団内における暴力的関係性の方なのです。  "暴力" とは人間が人間に対して向かい合う関係性それ自体が短絡的かつ極限化されたもの なのです。 暴力という概念それ自体の中に既に、 人間関係が攻撃対象物として暗存されている、 つまり、 人間の破壊衝動を最も満足させるものは人間関係それ自体に他ならない という欲動の自己破壊的作用がそこにはある。

 

 この人間集団における相互攻撃的自己暴力性は、 それ自体を否定的・限定的なものの一般性として人をそこから主体的に脱け出させる跳躍的行動を反照的に生み出す、 つまり、 何らかの暴力性・イデオロギー性には限定されない普遍的人間性を抽象的に生み出す。 ハンス・ケルゼンが国家や政治体制から独立した法の民主主義的普遍性を考えたように "人間" を政治的尺度で "規定" するのではなく 自由性によって "保護・保障" しようとする という事です。

 

 しかし、 この人間集団の相互暴力性を、 実はそれが人間関係の真実の姿であると、 トマス・ホッブズの『 リヴァイアサン 』 ( 万人の万人に対する闘争 ) を通じて気付いたカール・シュミットは、 論敵のケルゼンとは異なる論理的帰結を導き出す。 ケルゼンが人間集団の相互暴力性に無意識的に蓋をして下界に落とし込み、 法の民主主義的普遍性を人類の純粋な救済理念であるかのように説くのに対して、 シュミットはその蓋をされた 人間の相互暴力性こそが人民形態の根源であり、 それを統治することなく法の普遍性及び人間の自由を説くことは現実から目を背けている と考える。  つまり、 ケルゼンが法学という既に画域化された "法領域" において人間集団から法の普遍性を導くのに対して、 シュミットは 人間集団の相互暴力性を統治して人民形態にする為の政治的主権性の概念 を、 人間という現実の闘争的存在集団を規定する事の必然性に沿って法領域外の、 法が出現する以前の "政治的次元" において導く。

 

 シュミットは人間集団の相互暴力性というものを概念として明示している訳ではないので伝わりにくいのですが、 彼の思考の特徴のひとつは、 通常の法学者 ( イェリネクやケルゼン等の ) のような法学原理主義などではなく、 人間それ自体の在り方について考える所まで遡る思考の哲学的原理主義 ( 彼は著作において数々の哲学者を参照していると同時に現在でもデリダアガンベン等の哲学者らによって参照されもしている  ) である事です。  だからこそ彼は人間を集団存在として認識しているし、 しかも集団精神分析の次元でその集団は相互暴力的関係性として "内戦状態" にあるのだからそれは法以前に統治されるべく政治主権を必要とする "例外状態" であると無意識的に考えている。  そして同時に彼は決して権力を礼賛するのではなく権力が人間を超える善悪の彼岸にある現実的なものである事も知っている。  このような彼の思考の傾向は次のような言葉に表れている。

 

 私は、人間が人間に対して行使する権力が善なるものであるなどと言っているのではありませんし、また権力が悪しきものであると言っているのでもないのです。 強いて言いますと、権力は中性的なものでしょう。〈 中略 〉。 私が言っておりますのは、権力はすべての人にとって否権力者にとってすらも独立の現実であること、更にそれはすべての人を権力の弁証法にひっぱり込んでしまうものであること、これだけなのです。 権力は、一切の権力への意志よりも強く、いかなる人間の善意よりも強く、また、幸いなことには、いかなる人間の悪意よりも強いのです。

 

『 権力並びに権力者への道についての対話 』「 政治思想論集 」所収 p.119 カール・シュミット / 著 服部平治・宮本盛太郎 / 訳 社会思想社 ( 1974 )

 

私が上述のことで申し上げたいのは次のようなことにほかならないのです。つまり、人間は人間にとって人間である ー homo homini homo ー という美しい定式は何ら問題の解決なのではなくて、この定式をまって初めて私達の問題が始まるのだ、ということなのです。私は、このことを、次のようなすばらしい詩句の意味で批判的にではありますが肯定的に考えているのです。

 だが、人間であることは、それにもかかわらず常に一つの決意をすることなのだ。

これを私の結びの言葉としましょう。

 

前掲書 p. 122

 

 以上のシュミットの言葉は、 彼が "人間とは何であるのか" という今ではほとんどの人が真面目に考えようとしない ( それどころか冷笑するであろう ) 根源的問いに対して誠実である事を示している ( そしてこの問いは彼の有名な "友敵関係" の概念の根源でもある )。  少なくともシュミットは "人間が人間である" のは、 自己充足的・自己内部的確信としての単独的自己肯定 ( ヘーゲルならばこれを感覚的確信による迷妄というでしょう ) によって達成出来るものではないと考えている。 人間が人間であるとは、 人間が自分の中だけに留まる事が許されず、 他の人間の前に引きずり出され残酷なまでに人間関係網の中に囚われる事でしか生きていけない社会的暴力性に直面する事だといえるでしょう。 そして、 同時に、 そこには自分が暴力の被害者であるだけではなく他の人からするとまさに自分が暴力の加害者である可能性も含まれている事をも意味する ( 自分が思いもよらない意味で )。  "人間は人間にとって人間である" とはまさに人間が他人との関係において自分である事の暴力性、 他人 ( 家族や身内も含む ) に対して自分が自分であるという自己武装する事の暴力性を意味する。 もっと哲学的に言うならば、 人間が人間であるとは、 自分が自分であるとは、 それだけで他人に対するひとつの "暴力性の単独的具現者" である事を意味する。  自分である事の潜在的暴力性に気付かない者は、 未来永劫に自分が被害者・弱者であり続ける事に耽溺して無自覚な倫理的正義 ( エマニュエル・レヴィナスに見いだされるような ) に依存する事しか出来なくなってしまう。

 

 では "人間が人間に対して人間である事"、 "自分が誰かに対して自分である事"、 の関係性それ自体が暴力的であるというのなら、 そのような暴力に対して尊厳は一体何処に位置づけられるのでしょう。  いや、 そもそも尊厳とは人間に限定されるべき人間的なものなのでしょうか。 人間の尊厳などというよく見受けられる言い回しに表わされるように。 しかし、 そうするとそのような限定性は人間でない物に対しては一体どうなるのか ( 例えば "動物に対して" はどうなのか、 そしてそれは "人間対動物"、 やがては "人間対人間" へと流れていく ) という具合に "対物関係性的暴力の論理" が結局浮上してくることになる。  興味深い事に、 このような人間対人間の関係性がいかに暴力的であるのか示す例としてシュミットは暴力的決着が図られたソ連の政治舞台における二人の固有名詞を唐突にしかも意味ありげに挙げている。

 

スターリンという人間はトロツキーという人間からみますと一人のスターリンであり、トロツキーという人間はスターリンという人間からみますと一人のトロツキーなのだ、ということなのです。

 

前掲書p. 122

 



 第4章  暴力的関係網の中から出現する 〈 物の尊厳 〉

 このような暴力と人間の組み合わせこそが人間の真実であるならば ( いかに暴力が "反人間的なもの" に見えようとも )、尊厳がそのような暴力性とは別の哲学的意義を持つには、尊厳が人間的基準では測れないが人間圏域内部における "非人間的出来事 ( 反人間的なものとは違う )"、つまり、"出現 / 存在" として考える必要があるでしょう。 尊厳とは人権などのような人間保護概念でもないし、生物一般に限定される倫理概念でもない ( このような限定性はこの生物は保護されるがあの生物は保護されていないというような対物関係性論理の悪循環にしか向かわない ) 。人間や生物一般等の生命的励起それ自体を称揚するような尊厳性は実のところ、他の生命に対する対物関係性論理に基づく "単独物の暴力的樹立" に無自覚な疑似尊厳でしかないという事です。 ここで考え直したいのは、真の尊厳とは、そこに在る "何か"  に対して適用されるものではなく、何かがそこに "在る事" という生命や事物の相互関係性や個別のランク等に絡まれた "対象物一般" には関わらない "存在性" の尊重に他ならないという事です ( ただし、ここで打ち出したいのはハイデガー存在論への教条主義的帰依ではありません )。 どのような対象物であろうとそんな事には関係なく、そこに在る事自体が尊重される。 対象物の暴力的相互関係網の中には限定されない "物" がその中にあるという、 弁証法的二重性 ( 対象物=物 ) からの精神分析的昇華としての "対象物 ≠ 物" という分離、 そして、 "物=存在性" の出現という出来事への移行、これらの綜合結果こそが真の尊厳 でありジャック・ラカン"物の尊厳" と呼んだものなのです。 このような "物の存在性" はその弁証法性においてハイデガー存在論には収まり切れないのですが、ヘーゲル主義的思考のラカンがその弁証法精神分析論理によって存在論弁証法を接合した事で見出されるものだといえるでしょう。

 

 以上の説明を踏まえるならば、"物の存在性" は、尊厳というものが人間の現前を経由してしまった後では暴力的関係性という人間的政治化によってその真の力を失ってしまう事を教えてくれる。 人間的形象以前、直前の、"孤独な一者性" という世界の中でただ独り・ただ一つであるという達成物 ( 誰であれ何であれ、自らがそのような真実自体であるのを "知る" のは幸福だといえる ) が自らに纏う "神聖さ・崇高さ" こそが真の尊厳である事 は政治に敗北し続けて来た芸術文化の方が教えてくれる。 民主主義的人間、共産主義的人間、宗教主義的人間、国家主義的人間、経済的人間、社会的人間、いずれの人間であれ、あらゆる政治体制はイデオロギー的人間を再生産するし、また "人間と言われるもの" がイデオロギー的な人間でなければ "無用な物" でしかないかのような "政治的無意識" を人民に浸透させ続ける。 つまり、あらゆる意味を含んだ上での "政治というもの" に従わない者は人間形象を奪われ、尊厳がないかのように扱われてしまう。 芸術文化はそのような政治に関わらない生き方もあり得るし、そのような生き方をする者もまた人間であり、そこには既に尊厳がある事を "" を通じて描き出しているのです。

 

 ソルジェニーツィンは 『 収容所群島 』 などの告発物において、政治体制によって管理及び消滅させられる人間形象を描き出したのですが、彼の人間性がいかなるものであれ、その創作行為自体は、政治による操作物と化した人間形象の強制 "以後" の世界において "人間以前" "存在性尊厳" を訴えるものだ と哲学的に解釈出来るでしょう。 彼は 『 クレムリンへの手紙 』 において、まさにそのような人間形象を消滅させる国際的な戦争・政治・経済競争が激化する "世界からの撤退"、それも人間過疎地帯である "シベリアへの積極的な没入的発展" を促す。 あたかも、人間が政治体制によって規定されしまう以前の "非政治的世界としての大地" に還れと言うかのように。 もちろん、この主張を現実的政策提言として本気で受け止めってしまっては突拍子もない奇抜なものでしかなくなる ( ソルジェニーツィン自身は本気なのかもしれないが ) のですが、ここに賭けられた思索的投機を読み取るならば、ソルジェニーツィンは人間自体を消費しなければ維持出来ないような巨大政治体制ではなく、人間の日常生活を脱イデオロギー的に構築・維持する "脱権力政治的共同体" を考えている ( トルストイのコミューン主義のように )。

 

二つの世界大戦は別として、国内的ないさかいと反目だけからでも、政治・経済両面での国内的な 《 階級 》 絶滅政策だけからでも、われわれは六千六百万人を失った! 〈 中略 〉。 だいたいわが国では統計数字がすべて隠匿されており、この計算も間接的な推計であるが、しかし実際問題として、一億の人間 ( ドストエフスキーも予言したように、まさしく一億の人間 *) が欠けているのは事実である。 〈 中略 〉。 われわれは自分たちの傷を癒し、おのれの民族的肉体と民族的精神を救わなければならない。

 

* この箇所での訳者の江川卓の注は次のようになっている。

ドストエフスキーの 『 悪霊 』 の中に、「 どうせこの世界は、どんなふうに治療しても全治の見込みはないから、いっそ荒療治で一億人ほどの首をはねてしまえ 」 という考え方が出てくる。 主人公のピョートルがこれを受けて、ラジカルな社会変革のためには、「 一億の首だって恐れる必要はない 」 と予言的な言葉を吐く。

 

クレムリンへの手紙 』 ソルジェニーツィン / 著 江川卓 / 訳 P.39 新潮社 ( 1974 )

 

それはほかでもない。 軍事的方向においても経済的方向においてもわれわれに破滅をもたらそうとしている死んだイデオロギーを放擲することである。 このイデオロギーから生まれる、われわれとは無縁の空想的な全世界的目標を放擲し、ロシアの東北 - すなわち、わが国のヨーロッパ地域の東北、アジア地域の北部、シベリアの主要部分 - の開発 ( それも、安定経済、非進歩の経済の原則に立った開発 ) に専念することである。

 

前掲書P.35~36

 

全員に軍隊を経験させなければ防衛を確保することができないという点は認めるとしても、それならば兵役年限を大幅に縮小し、軍隊での 《 教育 》 を人間的にすることはできるはずである。 現行の兵役制度のもとでは、われわれは国民として、わが軍隊のパレード行進では到底つぐなえぬほどのものを "内的に" 失っている。

 軍備を思い切って削減することで、われわれはわが国の空を、無数に飛び交う航空機の耐えがたい轟音からも解放できることになる。 広大なわが領土の上空で、それらは昼となく夜となく、時間の見境もなく、際限のない飛行訓練をつづけており、それは音域をこえたすさまじい喧噪で、幾十万人もの人々の生活を、休息を、睡眠を、神経を破壊し、その轟音で人々を効果的に白痴化している ( 著名なおえら方は例外なく自分たちの別荘上空の飛行を禁じている ) - しかもこの一切が数十年間にもわたって続けられ、国を救うどころか、なんの約にもたたぬ空騒ぎに終わっているのである。 それなくしては健康な国民のありえない健康な "静けさ" をわが国に取り戻そうではないか。

 

前掲書 P.46~47

 

 たしかに、以前のロシアの諸都市には、もう一つ、むしろ精神的な意味での特質がそれぞれに備わっていて、もっとも教養ある人々は、わざわざ七百万人もの首都にごたごたと集まるより、それらの都市で快適に過ごすことを選んだものである。 多くの地方都市、イルクーツクトムスク、サラトフ、ヤロスラヴリ、カザンだけでなく、多くの都市が立派に自立した文化の中心であった。 しかし、いまのわが国に、モスクワ以外に自主的な、自立した考えをもつセンターが許されるだろうか? 〈 中略 〉。 あらゆる種類の精神生活の現在のような集中化は - 奇形的現象であり、精神的殺人である。 そのような都市が四十ないし八十もなければ、国としてのロシアは存在しない、あるのはただ声のない何かの付録にしかすぎない。 ところがこの点でも、他のどの面、どの点についても言えることだが、われわれの健康なロシアづくりをイデオロギーが邪魔している。

 

前掲書 P. 48~49

 

 "内的な" 発展の必要は、国民としてのわれわれにとって、外的な国力拡張の必要とは比べものにならぬほど重要である。 全世界史は、帝国を築きあげた国民がつねに精神的な損失を蒙ってきたことを示している。 大帝国の目的と国民の道義的な健康は両立しえない。 だとすればわれわれは、わが国民がそのような道義的頽廃に落ちこんでいる間は、そしてわれわれがこの国民の息子であることを自認する間は、国際主義的な課題を考案したり、そのために金を支払ったりはできないはずである。われわれはそろそろ地中海への野望を捨てるべきではないのか? そして、その第一歩としては、まずイデオロギーを捨てるべきなのだ。

 

前掲書 P.51~52

 

 

 

 

 

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 1 〉

 

 

作品  クレムリンへの手紙 」

原題  『 Letter to the Soviet leaders 』

著者  アレクサンドル・ソルジェニーツィン

訳者  江川卓

1974年9月20日 第1刷発行

発行所 新潮社

 

〈 目次 〉

クレムリンへの手紙

 1 膝まずく西欧                                                    p.12

 2 中国との戦争                                                    p.18

 3 文明の行きづまり                                             p.25

 4 ロシアの東北                         p.34

 5 外的ならぬ、内的発展                       p.41

 6 イデオロギー                         p.52

 7 では、これがどんなふうにうまく納まるのか?  p.62

 

嘘によらず生きよ                                                      p.109

 

訳者あとがき                                                             p.126

 



 

 

A. 収容所群島 』、『 イワン・デ二ーソヴィチの一日 』などの有名な作品に比べると、今日では一般の人にはほとんど読まれる事がないであろう、ソ連の現状を省みた上での指導者へ政治的提言をするソルジェニーツィンの政治綱領。 しかし、これは当時の政治体制の中での現実的改革の提案というよりは、現行の政治体制それ自体を歴史的に批判するソルジェニーツィンの個人的メッセージの色合いが強いという意味で、あくまでも "文学的な" 政治綱領だと言うべきでしょう。 訳者の江川卓もそれについて詳細に考えていて、次のように言っている ( このあとがきは彼の論理性によって面白いものとなっているので、長めですが引用しておきます )。

 

 

 私はこの文書全体を、一個の卓越した文学精神が、現代という時間、ソ連という空間に充満するもろもろの諸現象に触発されて、一つの大きな怒りと危険の予感につらぬかれ、それを作品として結晶させる以前に、どうあってもその怒りと予感に表現を与えておきたいと願った、いわば内的衝迫の所産であると考えたい。 したがってそれは、政治文書の形をとってはいるものの、その根源においてあくまでも文学的な「 作品 」であり、文学精神の政治文書のジャンルにおける発現であるということになる。

 

クレムリンへの手紙 』 ソルジェニーツィン / 著  江川卓 / 訳  新潮社 ( 1974 ) 訳者あとがき  p.135~136

 

 ロシア文学の伝統には、このようなジャンルはけっしてとぼしくない。 まず頭に浮ぶのは、トルストイがその晩年につぎつぎと発表した文明批判、政治批判の論文群だろう。 とりわけ一八八〇年代の 『 さらば、われら何をなすべきか? 』、九〇年代の 『 現代の奴隷制 』、日露戦争に際して激烈な戦争否定を訴えた 『 猛省せよ! 』、一九〇八年、帝政政府による大量な死刑の執行に抗議した 『 黙すあたわず 』 などは、その文体や内容においてさえ、ソルジェニーツィンの 『 手紙 』 と呼応するものを持っている。 ソルジェニーツィンが今度の 『 手紙 』 の執筆にあたって、これらのトルストイの論文群を想起せずにいられなかったであろうことは、ほとんど疑う余地がない。 彼がトルストイの存在を大きく意識し、創作的にもその影響を受けていることは周知の事実であり、そのトルストイへの傾倒、と同時に、この巨大な存在との内的な格闘の体験は、『 一九一四年八月 』 のなかでも執拗に跡づけられている。

 

前掲書 p.136

 

 しかし、『 クレムリンへの手紙 』 の文学的ジャンルを確定するにあたっては、もうひとつ、見落とせない事情がある。 それはこの文書がほかでもない 「 手紙 」、それも 「 指導者への手紙 」 だという点である。 つまり、この文書の本来のパラレルをロシア文学の伝統に求めるとすれば、たんなる論文、時事エッセイではなく、むしろ皇帝への直訴状、嘆願書のジャンルに注目しなければならないということだろう。 たとえば、トルストイにあっては、ドゥホボル教徒らに対する政府の弾圧に抗議して、アレクサンドル二世やニコライ二世に何度も送りつけた直訴の手紙が問題になる。 ドストエフスキーにあっては、直接に皇帝に宛てたものではないが、オムスク監獄を出たのち、トトレーベン公爵に宛てて送った流刑解除の嘆願書などを考えなければなるまい。

 

前掲書 p.137~138

 

 くり返すようだが、私は、この 『 手紙 』 に一見、政治綱領のような形で述べられている 「 諸提案 」 と、ソルジェニーツィンの本来の政治的信条との間には、ある種の表現上の落差のようなものが存在し、この落差は、文学者によって書かれた、いわば 「 作品 」 としてのこの文書のジャンルによって条件づけられているのではないかと考えている。 そこで、この 『 手紙 』 に盛られた提案の一項一項についてその政治的当否をあげつらう読み方をしていたのでは、ソルジェニーツィンがこの手紙を書かずにいられなかった真の衝迫をとらえ切れないのではないかと思う。

 

前掲書 p. 141~142

 

B. 江川の解説を踏まえ、ここで確認しておきたいのは、これが文学的政治綱領であるとしても、ソルジェニーツィンにとっては第一義的には真面目に受け止められる事、つまり、政治的に読まれる事、を望んでいたはず。 にも関わらず文学的だと称されるのは、この作品の無意識的意図が、目次にも見られる政策の実現化の固執よりも、現行政治体制への断固とした否定の声それ自体現行体制を転覆させようとする "静かなる革命" の願望、を "届ける事" に他ならないからです。 彼がマルクス主義共産主義を否定しながらも、度々レーニンという個人に立ち返って ( 例えば 『 チューリヒレーニン ( 1975 ) 』 ) 民主主義に向かわず 強力な指導者 ( これは少なくともスターリン以後の共産党書記長の事ではない ) による専制愛国主義を合わせた脱工業的な大地共同体 を主張する ( これこそ西側諸国のみならず、自国の人間も唖然とさせたものなのですが ) のは、まさに レーニンに現行の政治体制を破壊する〈 歴史的力 〉の形象を見出している からに他なりません ( * )。 『 チューリヒレーニン 』 の訳者でもある江川卓は同書のあとがきで次のように書いている。

 

 

つまり、ほとんどが論文と、演説と、公式発言のみに限られていたスターリンの言語遺産の極度の幅の狭さ、そのロシア語の驚くべき貧しさとは対照的に、レーニンの言語遺産はロシア語としても豊かであり、とくにその厖大な書簡類には、きわめてアンチームなところに到るまで、もっとも人間的な感情の振幅が言語イメージとして表出されているということである。 しかし、何より注目されるのは、そのようなものとしてのレーニンのことばに対して、作者ソルジェニーツィンが、スターリンのときのようにことさら距離を置かず、ある場合には、自分のことばをレーニンのことばにほとんど重ね合わせてさえいることである。

 

チューリヒレーニン 』 ソルジェニーツィン / 著 江川卓 / 訳 新潮社 ( 1977 ) 訳者あとがき p.265

 

 もっとも、逆に言えば、これはソルジェニーツィンの描いたレーニンが、どこかソルジェニーツィン自身に似ているということかもしれない。そしてこのことは、かつてレーニンが亡命生活を余儀なくされたと同じ土地に、六十年後、作者自身が、立場こそちがえ、同じように追放の身の落ちつき先を見出さなければならなくなった事情によって、いっそう強められているように見える。〈 中略 〉。 ソルジェニーツィンが、おそらく無意識のうちに、自身の愛するロシアへの郷愁を《 革命家 》レーニンの心情に移し入れてしまったとしても、そのことを責めるべき根拠はどこにもない。 いや、この事情が、本来は作者の糾弾の対象であるはずのレーニンにかえって人間味を吹き込む効果を生み、作品全体にほのぼのとした暖かみとリアリティを添える結果になったのかもしれない。

 

前掲書 p.266

 

( * )

このようなレーニンへの秘かな回帰を仄めかしている映画としてアレクサンドル・ドヴジェンコの 『 Michurin ( 1948 ) 』 がある。 以下の記事の第4章を参照。

 

 

 

 

 

C. このように、新たなる政治体制の為の革命を秘かに願う手紙を世の中に届ける事がソルジェニーツィンの欲望であったとするならば、それはまさに政治家ではない人民が政治批判をし、圧制を告発するという "語り"、政治的中枢の脇に押しやられている人民の不満の "放出行為"、がソルジェニーツィンの孤高かつ頑固な作家的特質において 政治中枢領域の周縁的噴出物として文学的に昇華されている と言う事が出来るでしょう。実はこのような "人民による喧噪" こそが "政治ならざる日常的騒動" として民主主義的なものの根源に潜むものだといえる。 誰であれ政治に不満と文句を言い放つ喧騒があるという事こそが重要かつ当然なのです。

 

D. そして文学とは、政治体制が人民を支配し操作するという意味での政治空間に取り込まれず、その中で浮遊する"人民の日常" における喧噪の奔流を政治体制に対抗する "政治以前のもの" として昇華的に現わさせる事が出来るものなのです。 それは、民主主義的な政治物ではないのですが、政治に対抗する政治以前の素人人民の喧噪こそが政治を転覆させる "境界線取り"、つまり、権力政治領域を人民の方から囲い込む "非政治線効果" を生み出す ( それは文学に限らない文化一般に現れる効果だといえる )。 ソルジェニーツィンは 『 収容所群島 』 という告発作品を通じて文学の持つ潜在力、人民の喧噪による取り囲み線の力を世間に知らしめたのですね。

 

E. なのでソルジェニーツィン政治的主張 ( 宗教的なものを含めて ) を現実に転化すべき政策として文字通りに受け止めてしまっては、彼の文学の意味を見落とす羽目になる。 彼の告発作品の歴史的意義が思想的に評価される一方で ( 例えば、クロード・ルフォールの 『 余分な人間 ( 1976 ) 』 )、アンドレイ・サハロフとメドヴェージェフ兄弟によるソルジェニーツィンの政治的発言や彼の人間性を批判する身振り ( メドヴェージェフ兄弟の 『 ソルジェニーツィンとサハロフ 』 ) は、結局の所、ソルジェニーツィンという人間的卑しさに満ちた著者の支配から切り離された "テクストそれ自体が持つ強度" を十分に考える事を出来なくするゴシップ的関心にばかり行き着く事になる。

 

F. そもそもがソルジェニーツィンが そのような執念深く俗世間 ( 人間関係・金銭関係 ) に固執する人間であった からこそ、『 収容所群島 』 などの反体制的作品を書き続ける事が可能になったのだ と考えるべきであって、彼が清廉潔白なだけの人間であったならば挫折していたかもしれないのです。 反体制的であるという以前に、何としてでも生き延びる、何としてでも自分の作品を世の中に届ける、という人間的執念こそが作品を生み出したと考えるべきでしょう。 彼の政治的正義はその人間的卑しさの上に成立していた のであり、その卑しさこそが告発という政治的正義を世間に知らしめるのに必要なものだった 人間的尊厳と人間的卑小の両極に生きる作家的特質においてこそ可能になる昇華物の発生という出来事性を認める必要があります。 サハロフとメドヴェージェフ兄弟はその事が全く理解出来ていなくて、ソルジェニーツィンの身近な関係者であったからこそ彼の人間性の看過出来ない部分 ( 恐らくそれは事実なのでしょうが )  を非難したりするのは構わないのですが、それはまた彼らもソルジェニーツィンと同じ土俵上の人間的卑しさに浸っていることを認めなければ、自分を優位にしようとする単なる政治的な批判行為でしかなくなってしまう ( 少なくとも自著で真実の赤裸々な暴露をしている限りは )。

 

G. このような人間的卑小さ・俗世間根性は民衆の喧噪において日常生活で当然のように見受けられるものであり、自分の身近に様々な種類の人間がいる事は誰であれお分かりでしょう。 大切なのは、このような喧噪の中からしか生まれない政治不満があり、それにプロの政治家がはびこる権力政治領域を縁取り奪化出来るような恒常的持続性 ( これこそ文学・芸術を含めた文化なのですが ) を与える事なのです。 サハロフとメドヴェージェフ兄弟の振舞いを見ていると、彼の作品を讃えながらも最後にはソルジェニーツィンの卑しい人間性のみが彼の薄汚れた真実であるかのような論調になっていく。 まるでスターリニストが人民の中の異分子に対して人民は崇高な "共産主義的人間( ルイ・アラゴン )" であるべきだという政治倫理に基づいて批判するかのように。

 

H. 人間の不浄な部分を批判するばかりで肝心の作品の読解・解釈を深めることをしないのなら、それはショスタコーヴィチのオペラ "Lady Macbeth of Mtsensk" を観て、その不道徳性に怒り途中退出して公的批判を出したスターリンと大して変わらない。 民主主義が人民の喧噪において渦巻く "不浄性・不穏性" ( これが犯罪行為に至った場合には行政上、当然罰せられるべきだが ) を "根本的に" 非難し排除しようとするのならば、それは統率的な全体主義を無意識的に望んでいるのに他ならない事にメドヴェージェフ兄弟は気付いていない。 人間存在のどうしようもなさは時に非難されても最終的には、人間の何らかの行為自体の秘かな原動力となっている事 を人間は文化という形で残して来た ( それがアドルノが批判する文化産業という形態を採るとしても )。 その意味を精神分析的に考える必要があります。

 

I. ただし、人民の喧噪は、"そのまま" では権力政治に対する暴動 ( 最悪な場合にはテロにもなりうる ) などの攻撃的欲動の具現化としてしか現れない。デヴィッド・グレーバーは次のような事を言っている。

 

マキァヴェッリは、「 近代 」の幕開けにあって民主主義的共和国の観念を再生させた時、武装した民衆の観念に立ち返ったのである。

 こうしたことを考えるのは、「 民主主義 ( デモクラシー ) 」という言葉それ自体を説明するのにも役立つだろう。 この言葉は、それに敵対するエリート主義者たちが、中傷の意図をもって考案したもののように思われるのだ。 それが文字通りに意味するのは、人民の「 力 」、さらには「 暴力 」でさえある。 つまり、kratos ( クラトス ) であって、archos ( アルコス ) ではないのだ ( 原注:kratos は単なる強さや力、archos は正当な支配者を含意 )。 この言葉を考案したエリート主義者たちは、民主主義というものをつねに、単なる暴動や暴徒支配とそう変わらないものとみなしていた。

 

『 民主主義の非西洋的起源について 「 あいだ 」の空間の民主主義 』 デヴィッド・グレーバー / 著 片岡大右 / 訳 p.49 以文社 ( 2020 )

 

J. そしてフロイトも『 幻想の未来 ( 1927 ) 』において大衆の危険性を指摘しているのは知られている。

 

しかし教養がなく、抑圧されている大衆においては事情は異なる。 こうした人々は文化の〈 敵 〉になる十分な理由があるからだ。〈 中略 〉。 それでは大衆の文化にたいする敵意が、この文化における弱点に集中するようになる危険性はないだろうか。 大衆はここにこそ、自分たちを抑圧する支配者をみいだすからである。 愛する神が隣人を殺すことを禁じているから、そして隣人を殺せば現世でも厳しく罰せられると信じているからこそ、大衆は隣人を殺さないのである。

 その大衆が、愛する神は存在しないことを知ったならば、懸念も抱かずに隣人を殺すようになるだろう。 これを抑制しうるのは、この世の権力だけである。 だから道は二つしかない。 この危険な大衆を厳しく抑制して、精神的に覚醒させるあらゆる機会を慎重に断ち切るか、文化と宗教の関係を根本的に変革するかのどちらかなのだ ( 引用者注:この後、フロイトは宗教を強迫神経症のようなものだとし、宗教への依存からの離脱、文化を宗教的儀礼によって神聖化する事からの離脱、を人類の成長過程において必要な事だと主張する )。

 

『 幻想の未来 / 文化への不満 』 フロイト / 著 中山元 / 訳 p. 81~82 光文社古典新訳文庫 ( 2007 )

 

K. つまり、民主主義においても、支配側からすると人民の喧噪は抑圧され封じられるべき攻撃性敵対物として存在する。 これは政治体制内における内乱・内戦状態 ( カール・シュミット的な意味での ) とでも言うべきものなのですが、ここにおいてこそフロイトが言う意味での文化の精神分析的意義がある。 生にも死にも向かいうる攻撃的、いや破壊的と言うべき欲動の 自己抑制された昇華物 こそ文化に他ならない。 国家政治が国外的には戦争を仕掛け、国内的には人民の喧噪を抑圧し管理操作する ( この点においてボリシェヴィズムからスターリニズムへの移行は人民管理術の構築過程だったといえる ) という具合に、攻撃的欲動のより洗練された権力編成 ( これはミシェル・フーコーを魅了した権力構造の歴史的変移でもあるのですが ) に向かうのに対し、人民の喧噪から発生する文化は、欲動の駆動力のひとつである攻撃性を、ひとつの事物 ( das Ding ) に置き換える事によって自己抑制的昇華を成し遂げる

 

L. どれ程攻撃的であるとはいえ、政治的集団物という枠内の要素でしかない攻撃性を、人民という集合素内には限定仕切れない不安定な個人を表象する事物へ置き換える作業がこの昇華を通じて起きている。 匿名的な集団的無意識が為せる暴力欲求は、その集団的匿名性を事物という孤独に付き纏われるが故の尊厳、いわば "個人の尊厳" へと高める事によって減算化させられる。 ジャック・ラカンが 『 精神分析の倫理 』 で "物の尊厳" と言う時、この孤独・孤高の論理的特質 ( 一者という数字的存在 ) から理解すれば興味深いものとなるでしょう ( * )。

 

( * ) この点については以下の記事の第三章を参照。

 

 

 

 

〈 Think Film Core 〉 ..... on Alexander Dovzhenko's film 『 Poem of the Sea ( 1958 ) 』

 

 

Film              Poem of the Sea ( Russian : Поэма о море )
Directed by  Yuliya Solntseva ( Russian : Юлия Солнцева )
witten by   Alexander Dovzhenko ( Ukrinian : Олександр Довженко )
Release        1958
Starring       Boris Livanov ( Ru : Борис Ливанов )   ( general Ignat Fyodorchenko )
        Boris Andreyev ( Ru : Борис Андреев )   ( Savva Zarudny / collective farm chairman )
                      Zinaida Kirienko ( Ru : Зинаида Кириенко )  ( Katerina / daughter of Savva )
                      Leonid Tarabarinov ( Ru : Леонид Тарабаринов )  ( Valery Golik / foreman )
                      Evgeny Agurov ( Ru : Евгений Агуров )   ( Mikhail Petrovich Grekov / scientific engineer )

 

 

 

 There was the military incident recently that drew attention to "Poem of the Sea ( 1959 )",  which is rarely seen today among Dovzhenko's works, compared to his earlier trilogy of  "Zvenigora ( 1928 )",  "Arsenal ( 1929 )",  and  "Earth ( 1930 )".  Needless to say, it was the Russian invasion of Ukraine in February 2022 and its continuation, the Russian sabotage of the Kakhovka Dam on the Dnipro River, in June 2023.

 

■ Yes, "Poem of the Sea ( 1959 )" is the story of the construction of the now destroyed Kakhovka Dam and the people who participated in it.  The film was directed by his wife Yuliya Solntseva from the script by Dovzhenko, who died the day before filming.

 

■ However, this film is not a documentary on dam construction.  Nor is it a de-capitalist film that condemns the environmental destruction caused by dam construction from today's ecological perspective.  Things are exactly the opposite. Reading Dovzhenko's notes, one can understand that he does not consider the construction of dams and hydroelectric power plants to be capitalist development, but considers in earnest them to be the great social project of communism toward the future of humanity, embodied on the global scale. ( *A )

 

( *A ) For example, Dovzhenko says the following.

"The gigantic project of communist construction not only does not exhaust the strength of our people who devote all their life and energy to the construction projects, but on the contrary, it increases them, the great construction projects of communism. Increasing People's Strength, Raising the Spirit and Historical Consciousness."

From 《 Dovzhenko's notes on "Poem of the Sea" 》 ( Translation from Ukrainian into Russian by L. Mikhailov ) published in the Soviet literary magazine "New world ( Новый мир )" issue 4, 1958  p.210

 

■ There are a few scenes in this film that seem to be the story of group of people with pastoral atmosphere in the background of dam construction, perhaps due to the fact that Yuliya Solntseva is the director of this film.  Andrei Konchalovsky, who saw the film, probably felt the same way and criticized it as being reminiscent of Fellini's "8½ ( 1963 )," but he overlooked Dovzhenko's sympathy for communist society latent in this film ( *B ).  Such ideas of Dovzhenko are already strongly expressed in "Ivan ( 1932 )", which is the prototype for "Poem of the Sea" and depicts the construction of a hydroelectric power plant on the Dnipro River, and from there his attitude has remained unchanged and consistent.

 

( *B )

Reading “The Romance of Lovers ( *about the script by Yevgeny Grigoriev )",  I recalled Dovzhenko’s brilliant script, “The Poem of the Sea.”  Everything in it is fused, mixed, inseparable - what is really happening and what is imagined, what happened once and what can still happen. Many discoveries of Fellini’s “8 1/2” were anticipated here.  But Dovzhenko’s main discovery is in people. His heroes stand with their feet on the ground and their heads pointing to the sky.

Возвышающий обман ( in English : Sublime deception ) by Andrei Konchalovsky p.125  Москва : Коллекция «Совершенно секретно» 1999
 

■ Ignat Fyodorchenko ( Boris Livanov ), a military man, looked out over the Dnipro River area from the plane on his way home and thought about the many people who live there ( 1~3 ).  On returning home, Ignat meets again with Savva ( Boris Andreyev ), his childhood friend and now the collective farm chairman ( 4 ).
 

 

■ Golik drives with Katerina to Kakhovka.  Golik hopes to make a career for himself by marrying Katerina, since she is the daughter of Savva, the collective farm chairman ( 5 ).  However, Golik was already married to another woman and even had a child.  The woman follows Golik and waves at him on the street, but Golik ignores her and passes by ( 6~7 ).  Katerina accuses Golik of such behavior, but she does not know that Golik is already married ( 8 ).

 

 

■ Katerina is happy to see her father again ( 9 ).  She had previously studied agronomy elsewhere, following her father's profession.  However, she returned to her hometown to participate as a scientist in the social project to build the hydroelectric power plant in Kakhovka.  Savva is perplexed by her daughter's change of heart, which is not to agriculture but to science, and she is influenced by Golik.

■ The woman in the previous scene ( 6~7 ) who followed Golik to Katerina's house ( 10~11 ).  Savka doesn't understand what's going on, and Katerina pretends not to know Golik, but she is still upset inside ( 12 ).  Golik does not show up.

 

 

■ Savva explains that the village will sink to the bottom of the lake due to the dam construction ( 13~14 ).  Ignat also explains to his family the significance of building the dam for the future of communist society ( 15 ).

 

 

■ Close-up of the bulldozer removing the house in the village ( 17~18 ).  Dovzhenko is very interested in bulldozers and writes in his notes that he would like to somehow take this into his poetry, but he cannot do it well himself.  As if to indicate that times have changed, perhaps his interest has gone from tractor in "Earth" to bulldozer in "Poem of the Sea".  In this case, the heavy machinery of tractors and bulldozers are, for Dovzhenko, the individuals that symbolize communism, and its beginning is Locomotive that the Bolsheviks ride, depicted in "Zvenigora" and "Arsenal".

 

 

■ Conference on the construction of hydroelectric power plants, chaired by Aristarkhov ( Mikhail Tsaryov ).  Because of the portrait of Lenin hanging in the room ( 25 ), it can be inferred that this committee was GOELRO ( Russian : ГОЭЛРО). ГОЭЛРО stands for "Государственная комиссия по электрификациии России ", in other words,  "State Commission for Electrification of Russia ",  the commission initiated by Lenin to promote the electrification program throughout Russia ( *C ).  However, the construction of numerous reservoirs associated with the construction of hydroelectric power plants, which followed Stalin's "Great Plan for the Transformation of Nature",  was unusually excessive in its sheer size.  The emergence of artificial oceans, comparable to lakes in the natural world, was not taken into account at all in its disruption of the environmental balance.  In his "Letter to the Soviet leaders ( 1974 )",  Solzhenitsyn criticizes Soviet industrialization as blindly following the West and ridicules these huge reservoirs as "Inland Seas".

"We have squandered our resources foolishly without so much as a backward glance, sapped our soil, mutilated our vast expanses with idiotic "inland seas" and contaminated belts of wasteland around our industrial centers — but for the moment, at least, far more still remains untainted by us, which we haven't had time to touch. So let us come to our senses in time, let us change our course ! "

《 Letter to the Soviet leaders 》 by  Alexandr Isaevich Solzhenitsyn p.26 New York : Harper & Row ( 1974 ) translated from Hilary Sternberg

 

( *C ) Refer to Chapter 4 of the following article about this.  We can see that Dovzhenko is aware of Lenin.

 

 

 

■ Golik and Katerina are attending a lecture by Grekov, a scientific engineer in the construction of a hydroelectric power plant ( 29~30 ).  But Golik is more concerned with himself than the content of the lecture, thinking that marrying Grekov's daughter will further his career.   Surprisingly, Golik is considering getting married for the third time ( 31 ).  

■ On the other hand, Katerina is also unable to believe in Golik's humanity, which makes it difficult to concentrate on the lecture ( 32 ).  Here again, Golik's first wife comes to Grekov and tells him that Golik is going to marry your daughter ( 33 ).  Grekov trembles with anger toward Golik ( 34 ).

 

 

■ Like Grekov, Savva is angry with Golik for cheating on his daughter and punishes him with the whip in his delusion ( 35~40 ).

 

■ Considering in here is why Dovzhenko embeds the behavior of Golik, who is trying to get ahead of himself, into the storyline.  That is because Dovzhenko's purpose in this work is not to tell the story of the tragicomedy of the inhabitants against the backdrop of the dam's construction, but to portray the solidaristic collectivity of the people, whose tragicomedy is ultimately directed toward the great communist project of building the dam.  In other words, Dovzhenko has no qualms about building the dam and fully endorses it as the social project that embodies the communist vision.

■ Thinking so, we understand that Golik's behavior, which on the surface appears to be portrayed critically as ethically problematic, is not.  Golik is being politically criticized as a political dissenter who disturbs General will ( This is the Jean-Jacques Rousseau concept ) of the people's collective to build the dam.

 

 

■ Aristarkhov criticizes Golik as a political dissenter ( 41 ).  Golik, who has also fallen out of favor with Katerina ( 42~43 ), says he no longer knows who he is ( 44 ).  However, the Golik can be considered to be a person who symbolizes the ideological contradiction of Dovzhenko, who has long been fascinated by the idea of the collective people, the foundation of communism, and the cul-de-sac in the real life of Dovzhenko, who came to Moscow to seek help from Stalin to avoid accusations from Ukraine, but was not allowed to return to Ukraine and remained in Moscow.

■ In other words, here we see Figure of Dovzhenko, who lived his life suspended in the air from the ideology of his origins or geographical affiliation, being neither Ukrainian nor Russian.

 

 

■ People looking out to "sea" ( 45~46  ).  Needless to say, the sea here is not the real sea, but the metaphor for the huge reservoirs created by drawing water from the Dnipro River into the plains of Ukraine.

 

 

■ A large ship that cruises the populated seas, with GOELRO and the general public on board ( 49~50 ).  Among them is Golik ( 51 ), who was supposed to be treated as an political dissenter.  This last depicts the final solidary unity of the people, the thought that Dovzhenko continued to hold.

 

 

 

 

〈 Think Film Core 〉 ..... on Alexander Dovzhenko's film 『 Michurin ( 1948 ) 』〈 4 〉

 

 




■ The title of this chapter "Earth Instead of Stalinism" is derived from "Muddle Instead of Music",  the title of the critical article ( 1936 ) in Pravda on Shostakovich's opera, Op. 29 "Lady Macbeth of Mtsensk".  Although this critical article is unsigned, the intensity of the criticism is said to strongly reflect Stalin's indignation at seeing this opera.  At the very least, reading the article, Shostakovich was shocked to realize that this was Stalin's opinion.  Solomon Volkov speculates that even if this article was written by someone else, it must have been the dictation of Stalin's own opinions.

 

■ Here, we are trying to criticize Stalinism, which made Shostakovich the target of criticism, in reverse.  However, the nuances of both titles are slightly different. Stalin was merely criticizing Shostakovich's opera in the sense that it was vulgar things that was no longer even music.  In contrast, the title of this chapter extracts Shostakovich and Dovzhenko's vague image by insisting on Earth as the clear versus alternative to Stalinism.  Shostakovich and Dovzhenko seek to return to the collective experience of the Russian Revolution by representing proto-communism as Earth against Stalinist communism.

 

■ The following is the festive scene inspired by the fact that Michurin was actually awarded the Order of Lenin by Stalin in 1931, but it is necessary to watch carefully here ( 59 ).  First and foremost, it emphasizes the difference that Michurin seems very serene and deeply moved, in contrast to the joyful expressions of the people around him.  It shows that while the people around him are excited about the award of the medal from Stalin, Michurin's thoughts turned to another person.

 

■ Needless to say, another person is none other than Lenin.  Looking closely, Mitchurin addresses his acknowledgment for the award of the medal to Lenin, not Stalin.  He is speaking to the now deceased Lenin, that Stalin gifted him with the medal on your behalf.  It means that Michurin still remembered his gratitude to Lenin for finding him.

 

■ However, it should be added here that Dovzhenko dislikes the flesh and blood of Stalin and does not admire the flesh and blood of Lenin.  Dovzhenko is here merely making the assessment of the symbolism of the leader in communism for the collective people.  What fascinates Dovzhenko here is Dialectical Development in History that the singular existence of Leader is the great human figure that symbolizing the collective existence which Human has formulated in the history.  Dovzhenko believes that People need the human figure of Leader, and that this figure is none other than Lenin.  So, it should be considered that what he criticizes is only the repressive political system referred to as Stalinism.  

 

■ Shostakovich also said the following about Lenin in his autobiography, 

"Now I am more and more seized with the idea of creating a work in the image of Lenin's immortality."
"Obviously, however, the work of embodying the greatest human figure in the most complicated times requires the strain of all creative powers."

 

 

■ Michurin speaks at the festive parade for the awarding of the Order of Lenin.  Michurin, speaking amidst the people and red, which here should be the symbolic color of the Bolsheviks rather than the communist color, is depicted as if he is no longer a scientist but the revolutionary, that is, superimposed on Lenin.

 

■ In this short speech, Michurin metaphorically states that the people are drowning in the current political repression and concludes his speech with the slogan-like appeal to go to Earth in the attempt to say that politics should be more toward the people.

 

■ Whether Shostakovich or Dovzhenko, these traces of secret resistance under such severe censorship mean that they continued to try to embody zeitgeist in which they actually lived through their art.  It was the great attempt to capture the thing that the Zeitgeist, which transcended the state politics of those in power, had emerged in the world we lived .

 

■ In other words, it can be said that Dovzhenko and Shostakovich unconsciously tried to revive the communist ideology, which had been degraded by Stalin into the oppressive mechanism in state politics, as the original form for the unity of the people that was revealed during the Russian Revolution, as the form of Zeitgeist that transcended the state ( The ultimate consequence of Lenin's thinking was the abolition of the State ).

 



 

〈 Think Film Core 〉 ..... on Alexander Dovzhenko's film 『 Michurin ( 1948 ) 』〈 3 〉

 

 




■ From here, Dovzhenko's attempt begins to symbolically depict the earth by projecting the great nature of the Soviet Union ( 35~40 ).  To understand how Dovzhenko's depiction of Nature impressed Shostakovich, the soundtrack producer, listen to his oratorio "Song of the Forests ( 1949 )".  In particular, the lyrics of "No. 6 A Walk into the Future" and "No. 7 Glory" in "Song of the Forests" seem to have been written upon seeing the sequence ( 35-40 ) by lyricist Yevgeniy Dolmatovsky, who was received the intention of Shostakovich in writing the lyrics.  As Shostakovich says in his autobiography, the collaboration with Dovzhenko in "Michurin" led him to "Song of the forests".

 

■ Here we see a glimpse of certain commonalities between Dovzhenko and Shostakovich, although they are rarely pointed out.  Both men have historically provoked controversy in their political stances because of their "ambivalent stance", which is both pro-regime and anti-regime.  The unconscious focus of the numerous controversies stemming from Solomon Volkov's memoirs of Shostakovich "Testimony ( 1979 )" is ultimately on Shostakovich's political thought rather than his humanity.  It becomes ambiguous because everyone tries to see him only as a musical figure divorced from political thought, be it Volkov, those who disagree with him, those who agree with him, or his family.

 

■ It should be recognized that at the foundation of the construction of any problematic, whether it is pro- or anti-regime, politics or music as anti-politics, hides a shortsighted and unconscious view of things as to whether Shostakovich is a communist or a democrat.  Curiously, everyone on either side would agree that they hope Shostakovich is a potential democrat who is dissatisfied with communism.

 

■ But was Shostakovich a potential democracy,  as was Dovzhenko ?  Does implying in the composition that they have the different true intention while superficially pandering to Stalinism really lead directly to being a potential democrat who opposes communism ?  Isn't that the delusion of those who support democratic system ?

 

■ The truth may be that Dovzhenko and Shostakovich are anti-Stalinists, but not anti-Communists.  They may be implicitly criticizing the Stalinist regime from the standpoint of Communists before Stalinism.  Otherwise, neither Dovzhenko nor Shostakovich would have been able to produce works of art with the embedded historical energy of the Russian Revolutionary period.  Because their works are filled with the explosive power of Zeitgeist of the past, they are able to uplift and give some kind of emotional impact even to those who are indifferent to political ideology in the present day.

 

■ Yes, Dovzhenko does not depict the earth as a mere hymn to nature, but as the resistance to the current political system, as he had already done in "EARTH ( 1930 )".  It is important to note that Dovzhenko does not naively claim that we should reject politics itself and return to nature,  just because he emphasizes nature.  He is not a political recluse.  He is secretly asserting the possibility of another politics in the art of cinema.

■ What is embodied as the possibility of another politics was Earth.  This Earth is People, the collective people in solidarity with the workers and peasants, the basis of the Russian Revolution, which Stalinism used only as the object of its political exploitation.  Dovzhenko resisted such political exploitation.

 

 

■ This sequence ( 41~46 ) evokes the connection to "EARTH ( 1930 )" in Image.  In particular, the slow-motion opening of the petals ( 41~42 ) is not merely a hymn to nature, but the symbolic blooming of the people of the Soviet Union.  "The collective of workers and peasants" at the bottom of Bolshevik hymns that Dovzhenko once depicted has been transformed into the Image of EARTH after it has been exploited by Stalinism.  The political plight of the people who cannot speak freely is anthemically sublimated into the Image of flowers that embody their own beauty through their blooming, though they cannot utter a word.

 

■ What is interesting here is scene 44, where Michurin is surrounded by flowers and gestures as if he is conducting a piece of music.  What on earth is he doing that for ?  Of course, it is not to the physical flowers, but to the symbolic flowers in the sense of representing the people.  In this light, we can see that Michurin, the conductor, is naturally superimposed on Lenin, the leader of the people.

 

 

■ Michurin talks with Kalinin under the evening sky in his own orchard.  Kalinin ( 1938~1946 )  was an Old Bolshevik who participated in the Russian Revolution with Lenin and was dispatched by Lenin, who appreciated Michurin's work, to meet Michurin in person shortly after the revolution.  Kalinin, who was dead at the time of Michurin's release, was only given a nominal position without power under the Stalinist regime as one of the few survivors of the Russian revolutionary period ( Stalin purged most of those with revolutionary experience ).

■ Dovzhenko's direction, which dares to depict such a dialogue between Old Bolsheviks Kalinin and Michurin, hides the intention to connect to the Russian Revolution before Stalinism.

 

 

■ The following sequence ( 53~58 ) is the scene neither of orchard cultivation nor of farm work.  Perhaps it depicts the tree-planting project, one of Stalin's "Great Plan for the Transformation of Nature",  which was the source of the idea for Shostakovich's "Song of the Forest" together with the film "Michurin",  as already mentioned above.

 

■ It is notable for Scenes ( 53-54 ).  Dovzhenko, who has been depicting nature up to this time, is suddenly depicting power transmission towers in large scale.  But the scene is no surprise when one remembers "State Commission for Electrification of Russia ( Russian : Государственная комиссия по электрификации России )", known as "GOELRO ( Russian : ГОЭЛРО )",  envisioned and promoted by Lenin beginning in 1920.  The vision is to build the axis for industrialization by linking the various regions through the network of electrification throughout Russia. 

■ Lenin's word, "Communism is Soviet power plus the electrification of the whole country",  are perhaps the most famous word to symbolize this Soviet electrification concept.  It spread not only as the actual industrial policy, but also as the ideological policy to praise Lenin, who brought electric lighting to every household.  In other words, Lenin was also the symbol of electricity.

 

■ Understanding the above, we can see that Dovzhenko is bringing up Lenin in the roundabout way in this sequence as the implicit contrast to Stalin, who promoted the tree planting project.