〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

ジョン・カサヴェテスの映画『 こわれゆく女 』を哲学的に考える

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監督 ジョン・カサヴェテス

公開 : 1974

出演 ピーター・フォーク     ( ニック・ロンゲッティ )

   ジーナ・ローランズ     ( メイベル・ロンゲッティ )

   : キャサリン・カサヴェテス  ( マーガレット・ロンゲッティ )

 

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 1.   日常を映画に昇華させるカサヴェテスf:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 最もありふれたものだが最も取り扱うのが難しい映画のテーマが "日常" でしょうそれが夫婦であるならなおさら …… 。この "夫婦という日常" をカサヴェテスは映画に見事に昇華してしまった。"夫婦" とは身内である以前に本来他人同士である男と女であるが故に、"問題" が常につきまとうものである事をカサヴェテスは率直に示しています

 

人生とは、そして結婚とは、結局は女と男の闘いなんだ。それは途切れることなく続く、愛すべき闘いだ。男と女は根本的に異なっているんだよ。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain  そしてこの "日常" は映画の中だけの虚構ではないつまり "日常" は映画の中に回収されない "強力な現実" であるが故に日常についてのこの映画もまた日常に結びついたひとつの "現実" であるとカサヴェテスは言っています

 

( 『 こわれゆく女 』について ) 僕はこれを映画とは思わない。これはまさに ……、家庭の謎、継母、それに ……、僕らはみんな、同時に愛し合い、憎み合う、この狂った世の中に生きているという事実に結びついているんだと感じる。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter 

 

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 2.   A WOMAN UNDER THE INFLUENCE f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 結婚した事のある男なら以下のシーンは落ち着いて観る気分にはならないでしょう誰であれこんな経験はあるでしょうからニックの帰りを一人で待つメイベル子供たちは義母の元に預けているしかし水道工事員であるニックは急な仕事で帰る事が出来ない

 

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f:id:mythink:20210212192015j:plain 恐る恐る電話するニックメイベルは落ち込む

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f:id:mythink:20210212192015j:plain こんな具合に、"日常" が深く掘り下げられ描写されていくそしてこの "日常" の中の "狂気" を体現しているのがニックの妻であるメイベルです彼女は常に興奮し落ち着きがないのですがカサヴェテスはこれを他人そして社会との関係においてそれらの影響と圧力を受けながらもそこでしか生きていると感じられない女性の特徴として描き出している のです

 

( 『 こわれゆく女 』において ) 他人との相互作用によって、他人との一種の競合に加わることによってだけ、メイベルは生きていると感じることができる。ここで強調されているのは、女性であると同時に社会でもある。社会が振るう、メイベルへの圧力と影響力だ。

 

よし、本当に何かを言うために映画を作るぞと思った ……。凄まじい試練を体験した、ほとんどの時間孤独だった一人の女についての映画だ。それに彼女は男の気まぐれ、親分風、無知、不安、裏切りに従属している。それがこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の主題だった。

 

女たちは人生で常に裏切られている。裏切られた彼女たちは孤独、不安、男の仕事への嫉妬、そして僕らの社会で評価されていない身分 - 母親であること、夫に献身的な何者かであることに苦しむ。女が男の影響下にあるべきだなんて一体何で言えるんだ?

 

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain ある意味でメイブルは自分以外の他者に関わり過ぎているといえますその他者を愛したり ( 彼女の子供たち )嫌ったり ( ニックの母親 )楽しませたり ( ニックの労働者仲間達 )そして共に居続けようとして ( ニック・・・)他者の中で生きようとしているのですこれは何を意味しているのでしょう孤独を紛らわすため仮にそうだとしてもメイブルはそれが上手く出来ずに狂気の度合いを強めていく……。

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain それは 彼女が "自分自身" に関わろうとして耐え切れずに壊れていく過程 だといえますこの点において女性の内面には自分自身では制御する事の出来ない獰猛な何かがある女性はそれを避けるために外部の他者に向かうのではないでしょうか

 

女性は孤独で、自分たちの愛に囚われていると思う。女性は囚われている。何かにのめり込むと、すっかりのめり込んでしまい、それが拷問になる。

 

夫を愛しながら、結婚してしばらく経つ女性はすべて、自分の感情をどこに向けていいか分からず、そのせいで狂気に陥るんだと僕は確信している。

 

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain しかし結局の所カサヴェテスも言うようにその外部からも揺さぶられてしまうために不安定な存在になってしまうのですこの映画の原題 "A WOMAN UNDER THE INFULUENCE" まさにその事を言い表していますそれに対して "こわれゆく女" という邦題は悪くはないのですがそれだとどうしてもメイブルの狂気の過程ばかりを観る人に読み取らせてしまう ( とはいえ "何かの影響下にある女" という直訳では商業的に難しい・・・)カサヴェテスはそうしたものを越えた二人の絆を描き出そうとしている事を忘れるべきではないでしょう

 

ジーナはこの登場人物とこの登場人物の背後に隠れている女性について、かなりじっくり考えている。彼女は自分の演じている人物を下品に演じたり、戯画的に演じたりしないように心がけているんだ。彼女はメイベルを「 犠牲者 」や「 変人 」にしたくないんだ。

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 3.   男と女、二人でいる事f:id:mythink:20210320151713j:plain


f:id:mythink:20210212192015j:plain 女性は自分の "外部" 内面に沈み込みそうな自分を引っ張り出してくれる "" を求めているあるいはカサヴェテスの言葉でいえば女性は男が尽くしてくれるのを望んでいるという事になるでしょう

 

女性は1人の男性 - 魅力的な王子様が献身的に尽くしてくれるのを望んでる。おとぎ話じゃなくて、それが女性の望んでることなんだよ。女性にとって、子供を生むのと同じくらい本質的なことなんだ。

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f:id:mythink:20210212192015j:plain しかし女性の "理想" とする " " は現実にはほとんどいない理想に照らし合わせてこの男ではないと思う限り、"" と一緒にいる事は難しいはずですなぜならそんな理想は "日常" の中にはないからです大切なのは "日常" の中で時にすれ違い時にぶつかり合う "" と一緒にいたいと思えるかどうかですそう思える時男が不器用で少々がさつでも男が自分と一緒にいたいと思っているかどうかも分かるはずです互いにそう思っている男と女は一緒にいる事の幸せを掴んでいるといえるでしょう

 

f:id:mythink:20210212192015j:plain ニックとメイブルは紆余曲折を経た上で互いの事をそのように再確認しています言葉には出さないけど一緒にいたいという思いを抱きながらそれはロマンチックなものではなくあらゆる困難や感情が渦巻く日常生活の中においてしか維持されないものですそこには二人で一緒にいる事の意味がつまり本来他人同士である男と女が一緒にいる事を互いに選択しているという奇跡があるその経験は男であれ女であれ一人でいる者が決して辿りつけない出来事なのです

 

( 『 こわれゆく女 』において ) ニックとメイベルはあらゆる問題を抱えている。問題は山ほどある。それでも他人といるより二人で一緒にいるときの方が快適だった。彼らが二人きりでいれば、これほどお互いに好きで尊敬し合っている二人がいるかどうか分からないくらいだ。

 

僕が思うに …… 今日の男女の間には根元的な敵意がある。だから、僕はこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の中で、根元的な敵意ではなく、愛を選んだ。そこには奇妙な愛がある。それは奇妙だが、決定的だ。

John Cassavetes (@cassavetes_bot) | Twitter

 

   

f:id:mythink:20210212192015j:plain なので病院から帰ってきて気を使うぎこちないメイブルに対してニックがいつものように振舞えと言って、"日常" を再開した時それは単に以前の生活に意味無く戻ったのではなく、"日常" こそ二人が一緒にいる事を再確認するものとして "新しい日常" になっていると解釈できるでしょうそこにロマンティックな言葉はないがカサヴェテスはそんな瞬間的なものより永遠の男女関係を描き出したのです

 

人生に影響を与えるのは、男と女の相互関係だけだ。確かに現代は政治的な衰退と混乱の時代だ ― でも、そんなものは面白くない。持ってる情報ですべてが決まる知的なことだからね。男女の関係は人間の本能に永遠に具わったものだ。幻想じゃなくてね。

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僕を楽しませてくれた映画『 キラーインサイドミー 』のサウンドトラック・・・リトル・ウィリー・ジョンの "Fever" とともに・・・

      

 

監督  マイケル・ウインターボトム

原作  ジム・トンプソン

出演  ケーシー・アフレック   ( ルー・フォード )

    ケイト・ハドソン     ( エイミー・スタントン )

    ジェシカ・アルバ     ( ジョイス・レイクランド )

    ネッド・ビーティ     ( チェスター・コンウェイ )

    ジェイ・R・ファーガソン  ( エルマー・コンウェイ )

    ビル・プルマン      ( ビリー・ボーイ・ウォーカー )

    サイモン・ベイカー    ( ハワード・ヘンドリックス )

    トム・バウアー      ( ボブ・メイプルズ )

公開  2010

 



 1章  オープニング

 

ジム・トンプソンの "おれの中の殺し屋" を原作とするこの映画、リトル・ウィリー・ジョンの "Fever" に乗せて始まるオープニングクレジットの軽快さは見る者を自然に引き込みますね。その後は、オープニングの軽快さを裏切るかのようなルー・フォードの殺人劇へと流れ込んでいくのですが・・・。

 

思えばトンプソンの "おれの中の殺し屋" が出版されたのが1952年、リトル・ウィリー・ジョンの "Fever" が発表されたのが1956年。1950年代のアメリカの空気の中で生まれた両者が50年以上経て、この映画において出会うというのは興味深い事です。そしてリトル・ウィリー・ジョンが、喧嘩相手をナイフで刺殺した罪 ( 本人は正当防衛を主張していた ) で服役中に心臓発作で死亡した事 ( 1968年、享年30才 ) は、映画の内容を暗示するものだと考える事も可能でしょう。

 

POPなオープニングクレジットがリトル・ウィリー・ジョンの "Fever" ともに軽快に始まる。

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リトル・ウィリー・ジョンの "Fever"やはり本家は格好いい。

   

               

 "Fever" といえば、ペギー・リーが有名なのですが、実はリトル・ウィリー・ジョンのカバーだった訳ですね。         

   

 

エルヴィス・プレスリーもカバーしています。

       

 

リトル・ウィリー・ジョンの詳しい説明については、こちらのブログを参照。

 ・リトル・ウィリー・ジョン Fever by Little Willie John - Audio-Visual Trivia

・Feverの真実―Little Willie John|紅花紅子のブログ

 



 2章   その他のサウンドトラック

 

この映画には"Fever"以外にも、優れた楽曲が流れているので幾つか紹介しておきますね。

 

"Jolie Blond Likes the Boogie"  by Bob Wills and His Texas Playboys

           

 

"Baby won't You Please Come Home"  by Helen Forrest

    

 

"One Hand Loose"  by Charlie Feathers

    

 

"Take It Away Lucky"  by Eddie Noack

    

 

"Symphony No.2 in C Minor 'Resurrection' "  by Gustav Mahler

    

 

 "I'm Waiting Just For You"  by Lucky Millinder [ vocals:Annisteen Allen&John Carol ]

    

 

"Una furtiva lagrima from [ L'elisir d'amore ] "  by Marcelo Alvarez

    

 

"Im Abendrot in [ Four Last songs ]by Elisabeth Schwartzkopf

    

 

"The Tickle Toe song"  by Adolph Hofner&The Pearl Wranglers

    

 

"Shame on You"  by Spade Cooley and The Western Swing Gang

    

 

"Al's Steel Guitar Wobble"  by Jack Rhodes&Al petty

    

 

"Ich Bin der Welt Abhanden Gekommen ( Rückert-Lieder )"   by Violeta Urmana

    

 

 

長くなるので映画の内容については別の機会に。

 

 

【 関連記事 】

 

 

 

 

【 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン〈 1 〉 】

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1. 大橋鎭子花森安治

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   2016年4月スタートのNHK朝ドラ "とと姉ちゃん" は、雑誌『暮らしの手帖』とその出版元の"暮らしの手帖社"の創業者である大橋 鎭子をモデルにした物語ですね(ヒロインは高畑充希)。日本読書新聞編集部にいた大橋 鎭子は戦後、花森 安治と知り合います。当時24歳の大橋は、日本読書新聞編集長の田所太郎に "独立して女性の役に立つ雑誌を出版したい" と相談し、彼から花森安治を紹介されたのです。大橋は彼に、父を結核で亡くし女手ひとつで3人の娘を育てた母親を幸せにするためにお金持ちになりたいという話をし、彼から君の親孝行を手伝おうと言われました。

 

 

   こうして社長・大橋鎭子、編集長・花森安治とする "衣装研究所" を銀座に設立します。昭和21年5月には『スタイルブック』第1号を発行します1

 

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   そして昭和23年9月には、『美しい暮らしの手帖』を創刊する事になります。

 

 

2. 花森安治の『暮らしの手帖』表紙デザイン

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■  『暮らしの手帖』の表紙デザインは編集長・花森安治の仕事でした。1号から100号 ( 1948年9月~1969年4月 )、そして2世紀1号から2世紀53号 ( 1969年7月~1978年4月 ) まで質・量ともよくぞここまで書いたと思わせるの程のものですね。

 

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   1号から9号までの表紙は、その手書フォントと相俟って、今見ても圧倒的な存在感を放っています。作家の太田治子は、子供時代の母親 ( 太田静子。言うまでもなく彼女は太宰治の愛人でした。つまり太田治子太宰治の私生児という事です2) との表紙にまつわるエピソードを語っています。

 

 

"「花森さんの『暮らしの手帖』の表紙は、素敵ね。とても明るいわ」( 母 )

そういって、いつまでも表紙をみつめていたことも思い出した。近所の古本屋さんで買った創刊まもないころのものであった。赤いオルガンの横の木の椅子の上に、丸い毛糸玉がふたつ置かれていた。毛糸玉には毛糸棒が二本さしこまれていて、暖かな家庭のぬくもりが伝わってきた。きっとこのようなお家には、優しいおとうさんがいるのに違いなかった。こういうお家の子供に生まれたかったなあと、私はその表紙をみつめながら思った。"

 

"「花森さんは、私の本の表紙も描いてくださったのよ」( )

母はその時初めてそうと教えてくれたのである。それまでにも何度かみたことのある母の本3 の表紙を描いた人と、毎号有名な『暮らしの手帖』の表紙を描く人が同じだなんてとても素敵だわと思った。・・・ "

 

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   22号から、"美しい"の文字がなくなり、『暮らしの手帖』のタイトルとなる。

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   44号から、写真画像が取り入れられ、ヴァリエーションがひろがっていく。

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   この時に日本読書新聞編集部での同僚であった時代小説家の柴田錬三郎大橋鎭子の事を"オール・マイティの女性だった"と評価している。

                           

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" 物資がなくなって、なにかと不自由をしていた戦争中でも、大橋鎭子に頼めば、砂糖でござれ、汽車の切符でござれ、ありとあらゆるものを、なんでも手に入れることができた。どんなルートをもっていたのかは知らないが、とにかくなんでも欲しいといった物資を揃えてくれる。彼女の異常に近い才能で、われわれ一同は、どんなに助かったか知れない。"

"(・・・)彼女はいつもの伝で、たちまち二十万円の金と、銀座八丁目にある日吉ビルの一室を花森にもたらしたのである。銀座のドまん中の一室は、大の男が奔走しても、半年はかかる時代に、二十万円の金もいっしょにもってきたのだから、花森ならずともどんなにか頼母しい女にみえた。"

 

 

2

   太田治子"治" は、太宰治の本名である津島修治の "治" からとられている。ただし、太宰は、別の愛人である山崎富栄と共に玉川上水入水自殺 ( 1948年6月 ) したため、治子 ( 1947年11月誕生 ) と会う事はなかった。ちなみに1948年は暮らしの手帖が創刊された年。

     

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3

   母の本、つまり太田静子の本とは、斜陽日記の事。もともとは太宰の『斜陽』の題材として提供した日記で1945年の春から12月までの日々が書かれている。で、『斜陽』はベストセラーとなる。太宰の自殺後、井伏鱒二伊馬春部らから10年ほど伏せて置くようにいわれたものの、生活苦から1948年の10月に石狩書房から出版。この時の装釘を手がけたのが花森安治

         

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〈このブログ内の関連記事〉

 

 ◆ 僕を楽しくさせる花森安治のデザイン 2. 

 

 

 

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クリストファー・ノーランの映画『 インターステラー 』( 2014 )を哲学的に考える

 

初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 

 

  

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監督  クリストファー・ノーラン   
公開  2014 年
脚本  クリストファー&ジョナサン・ノーラン
 
出演  マシュー・マコノヒー   ( ジョセフ・クーパー )
    ジェシカ・チャステイン  ( マーフィー・クーパー )
    マッケンジー・フォイ   ( マーフ幼少期 )
    エレン・バースティン   ( マーフ老年期 )
    アン・ハサウェイ     ( アメリア・ブランド )
    マイケル・ケイン     ( ジョン・ブランド )
    マット・デイモン     ( ヒュー・マン )
    ジョン・リスゴー     ( ドナルド・クーパー )

 




 クリストファー・ノーランはこの映画において驚くべき創造性のレベルに到達しているといっていいでしょう。驚くべき創造性とは、理論物理学者のキップ・ソーンの監修によるブラックホールワームホールの映像化の事ではありません。並みの監督なら、それだけで満足したでしょう。これは『 2001年宇宙の旅 』の延長上にある映画だ、というふうに。

 

■ それよりもノーランは物語の冒頭から、明らかに父と娘の関係を軸に据えて、最後までぶれる事はありませんでした。それはSFファンの人にとって面白くないかもしれませんが、そこが2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリックと違う所です。確かにノーランは宇宙論に忠実な映像化に成功してるのでしょうが、それはあくまで映像的な至高性を求めての事であり、彼が本当に忠実なのは、宇宙論ではなく彼自身の創りだすストーリーなのです。

 

■ では彼のストーリーの創造性とは何でしょう?常識的な考え方をしていては、それについて深く考える事は出来ない。それは、"父と娘の関係性""宇宙での旅" をそれぞれ違う状況における話として、ひとつの作品の中に並べているという事ではありません。そうではなく地球にいたときの父と娘との "曖昧な距離" を、ジョセフが宇宙に行ってからの二人の "物理的距離" という形で、よりはっきりと浮かび上がらせている  〈1 〉 という事なのです。

 

■ 巨大な宇宙における父と娘の その "物理的距離" が縮められたとき、彼らの "精神的距離" ( 父が宇宙に行った時、彼女は自分が見捨てられたと感じている ) も解消されるという形で昇華される・・・。この物理的なものによる精神的なものの救済という非凡な唯物論的発想 ( 普通の監督は愛などの精神的なものによって物理的障害を乗り越えるというありふれたストーリーを作る ) を見逃すべきではありません。

 

■ 一見関係のないように見える巨大な物理的宇宙が、"父と娘の関係を媒介する物" として差し込まれているという仕込・・・。それこそが、この作品における強力な推進力であり、父と娘の関係性と宇宙を短絡 ( ショートカット ) させるというノーランの驚くべき創造性なのです。

 

■ そこらへんの映画監督ならば、せいぜい巨大な宇宙と無力な人間の奮闘、というありふれた筋書きになってしまうところですが、ノーランは父と娘の関係性という微妙で難しい距離感を巨大な宇宙とショートカットさせて、人間を超えた精神性 ( 宗教的ではなく哲学的な意味での ) を描ききっているのですね。

 



 

■ その短絡性の最たるものが、ブラックホールに吸い込まれたジョセフが、マーフの部屋の本棚の裏側に展開された4次元超立方体の中に現れ、そこからマーフにメッセージを送るというものです。しかし、なぜブラックホールという宇宙の領域から、日常的光景としてのマーフの部屋の本棚の裏側へと移動する事が出来たのかと思われる方もいるでしょう。

 

■ 宇宙という巨大な物理的領域とマーフの部屋という日常的領域を交わる事のない二つの並行的なものだと思い込んでいる限り、両者の溝は通常の手続きではロケットの地球への帰還というシーンの導入によってしか乗り越えられないからですね。ただ、これではありきたりなストーリーになってしまうでしょう、父と娘の関係性が宇宙での困難な旅が終わった "" でしか解決されないという具合に。

 

■ それに対して、ノーランは全く別の驚くべき創造性を発揮します。ジョセフが地球に帰還せず宇宙にいながらも、メッセージを送る事によって娘との関係性における "遠さ" を克服します。これが先に述べた、父と娘の関係性と宇宙の遠さを短絡 ( ショートカット ) させるノーランの創造性 という訳です。

 



 

■ この映画における創造性のモデルが  "4次元超立方体 ( テッセラクト )" なのですが、これこそが 宇宙と日常との短絡の象徴 ですね。ジョセフはあくまで本棚の裏側に隣接する4次元超立方体の中にいるのであってマーフの部屋に入る事は出来ない ( 本に触れる事は出来るけど )。つまり両方は違う次元にあるものとして設定されているのです。隣接するテッセラクトからジョセフがマーフの部屋を見る時、マーフの部屋における様々な時間継起の出来事 ( ジョセフが宇宙に行く前の出来事も含まれる ) が見えるようになっています。

 

■ これをどう理解したらいいのか、哲学的に考えて見ましょう。そのためには "4次元" について哲学的に考える必要があります。通常、4次元というと、"空間3次元 + 時間1次元" だと理解されるでしょうが、このままだと空間3次元に余剰次元の時間がひとつ加わっただけという理解のままです。ここに哲学的ひねりを加えて、時間の次元によって、それまでの認識を変えてみたいと思います。

 

■ 既に確立された3次元に、もうひとつ別の時間の次元が加わるという考え方では、おそらく事態はさほど変わらない。時間の次元を3次元に影響を及ぼすものと考える事によって、初めて、その余剰次元を加える意義が出てくるといえます。つまり、時間の次元の導入が、空間3次元の "確立性" を見直す契機になるという事です。空間3次元は、そこで事物が "発生" する事によって初めて認識される。空間が初めにあって、そこに事物が "発生する" という考え方は知識を得た事による事後遡及的なものです。そうではなく、事物や出来事の "発生" こそが空間3次元それ自体の認識を可能にする という事なのです。

 

■ では、その "発生" をどう考えるべきなのか。これを誘惑に屈して、場所論的な考えの方向に行くと、遡及的なものに過ぎない空間3次元の全能性に結局帰ってしまう。そうではなく、"発生" を "時間" として考える事 が重要になります。ただし、ここでいう "時間" とは、私達の通常の感覚、つまり1日が24時間、1年で365日、というような始めと終わりがあり、その繰返しがあるという理解では捉えられません。

 

■ 事物が発生する時、まずそこには前提として空間があるのではありません。空間は事物の発生ともに作り上げられ認識される次元でしかない。そこで真に機能しているのは、"永遠の時間" なのです。始まりもなければ終わりもない "ゼロ時間" が事象を可能にする "基盤" として無限に拡がっている。そして、この "ゼロ時間からの脱化" が事象の発生という運動であり、空間化であり、通常の時間化だ と考えられるでしょう。これこそが、空間3次元の疑似的な第一義性を脱構築するものとして時間の次元が付け加えられる事の意味なのです。

 

■ なのでテッセラクトから見える様々な時間継起の出来事は、"ゼロ時間" からの眺めであったとしておきましょう。それ故に、そこからはジョセフが宇宙に行く前の出来事すら、時間継起のひとつとして見えるのであり、そこにおけるジョセフの振舞いは、映画の冒頭における "こちら側" から見た時のマーフの部屋の奇妙な出来事に繋がるという訳です。さらに言うなら、そのような4次元超立方体がそれ自体として成立するには、4次元超立方体として閉じられていなければならないのであり、それを閉じるのは、もうひとつ別の余剰次元としての "重力" であるといえるでしょう。

 

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父と娘は表立って対立している訳ではありません。父は彼なりに愛情を娘に向けてはいるものの、娘は年頃のせいか上手く受け止める事が出来ない ( 嫌いな訳ではない )が、何とかしようとしている。父と娘の距離感とは、近くもあり遠くでもあるという両義的なものです。正確に言うなら、血縁関係としては親子なので当然近いが、精神的には離れている といえるでしょう。

 

そんな彼女の振舞いは、本棚から本が落ちる現象を見て、誰かからの二進法によるメッセージとして解読しようとする姿勢に象徴されている。もちろんこの時は、メッセージが父からのものである事は分からない、彼女にも、そして父自身にも。でも彼女は "誰か" からのメッセージを受け止めようとしている・・・。

 

そのメッセージを解読する事が出来た時、彼女は自分にメッセージを送る何者かが父であると認識する のです。つまり重要なのは、メッセージを送る何者かが父だと最初から分かりきっていたら、メッセージを真面目に受取ろうとしない ( いつもの小言か、というくらいで )。でも誰かは分からないが、メッセージを真剣に受取った結果、それが父からのものであると後から分かった時に、父を精神的に、つまり自分に近い存在として認識する といえるでしょう ( それまでの父への固定観念を脱しているという意味で )。

 

 



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磯崎新の言葉 "〈 建築 〉が暗殺された" を哲学的に考える

 

 

 3月31日に死去したザハ・ハディド氏に対して磯崎新氏が追悼文を書いています以下の追悼文は 建築が暗殺された というセンセーショナルな言葉で始まっていますがこの言葉を中心に追悼文を哲学的に考えてみたいと思います

 

 

ザハ・ハディド

 

建築 が暗殺された

ザハ・ハディドの悲報を聞いて私は憤っている

30年昔世界の建築界に彼女が登場したとき瀕死状態にある建築を蘇生させる救い主があらわれたように思った

彼女は建築家にとってはハンディキャップになる2つの宿命異文化と女性を背負っていたのにそれを逆に跳躍台として張力の漲るイメージを創りだしたドラクロワの描いた3色旗にかわり、〈 建築の旗をもかかげて先導するミューズのような姿であったその姿が消えたとは信じられない彼女のキャリアは始まったばかりだったではないか

デザインのイメージの創出が天賦の才能であったとするならばその建築的実現が次の仕事でありそれがいま始まったばかりなのに不意の中断が訪れた

彼女の内部にひそむ可能性として体現されていた建築の姿が消えたのだはかり知れない損失である

そのイメージの片鱗があと数年で極東の島国に実現する予定であった

ところがあらたに戦争を準備しているこの国の政府はザハ・ハディドのイメージを五輪誘致の切り札に利用しながらプロジェクトの制御に失敗し巧妙に操作された世論の排外主義を頼んで廃案にしてしまった

その迷走劇に巻き込まれたザハ本人はプロフェッショナルな建築家として一貫した姿勢を崩さなかっただがその心労の程ははかりはかり知れない

建築が暗殺されたのだ

あらためて私は憤っている

 

磯崎 新

 



  1章 〈 建築 〉が暗殺された。ザハ・ハディドの悲報を聞いて、私は憤っている。

 

 

. 磯崎新氏の余りにも率直な言葉は共感を呼ぶ以上に否定的な反応を引き起こしているといえるでしょうもちろんそんな事が分からない磯崎氏ではない否定的反応が起こるのは分かっていただがそんな事は問題ではないザハ氏という稀有な建築家の存在を消滅させる死という出来事に直面して今ここでしか言えない事を率直に言っただけだという所でしょう僕自身もこの追悼文を冷静に読んだ限りでは否定的感想は持たなかったですむしろ理論的言説で埋め尽くされるいつもの磯崎節が剥ぎ取られ、〈 ザハという建築家 〉、そして建築に対する磯崎氏ならではの誠実さを感じ取りましたねザハ氏を "排外" した人達への皮肉ももちろん感じましたけど

 

 

. 問題なのは一部の人達が建築論的装いで磯崎氏を批判しながらもその根底にあるのが "排外主義" などの表現に過剰に反応するヒステリックな倫理観である事だと思います排外主義は言いすぎだそういうものではないだろうという所なのでしょう確かに "排外主義" という表現の選択は誤解されやすい負のイメージがありますがザハ氏が "複合的な排外" にあったのは間違いないはずです

 

 



 2章   複合的排外



. 複合的という事について考えていきましょうまず第一に槇文彦氏らによるザハ案 ( あくまでもザハ案ですねザハ自身ではないです ) への反対運動がありました

 このブログの記事で 以前にも取り上げていますが具体的な行動化とその理論付けという意味では槇氏以外にあの当時に上手く動けた人はいなかったでしょう

 

 

. 第二に槇氏らの運動の成果もあってザハ案への反対がTVなどのマスコミを通じて世論に浸透していきましたねしかしここでザハ案を税金の無駄使いであるとする事と共にザハ案がいやザハの建築自体がキワモノ的なものであるというイメージも世論の中に形成された事は否定出来ないでしょう ( 注意すべきは槇氏らはあの場所にザハ案はふさわしくないとしただけでザハの建築物自体を否定しているわけではないのですが微妙にズレながら浸透していった訳で )

 

 

. 第三に政府の介入です第一第二の状況を見ながらこのタイミングで最初のコンペを破棄しゼロベースで再コンペを行う事を宣言してもほとんどの人は反対しないだろうと見越した上での政府の介入ですそして再コンペはデザインビルド方式 だったので組むゼネコンが見つからなかったザハ側は見送るしかなかったという訳ですこの方式はゼネコン主体のものでありあらゆる建築家のオープンな参加と言う意味では絶望的なものでしたつまりこの時点でザハ氏のような論争を引き起こす不都合なものは 政府 / JSC によって意図的に閉め出されたのです

 

 

. 少なくともこの三つの状況が絡み合って複合化した大きな潮流が"排外" だったのです第一第二の状況にいた人達が自分たちは排外したつもりはないと言っても結果として自分たちの意図とは違う所でつまり政府に都合よく利用されたという意味では結果として一緒に排外の潮流を形成したのですもしこれに対してそうではないという人がいるのならその人はこの潮流に対して部外者 ( 建築の専門家じゃないという事ではなくこの問題を深く考察しようとしない人の事 ) である事を知らないうちに告白している事になるでしょう

 

 

. この複合的排外は当初は確かにザハ案への反対という対象がはっきりと定まった反対論を起点としていました景観の問題コストの問題などを通じてザハ案の問題点について槇氏らが理論付けを行いましたこの時点ではあくまでコンペにおけるザハ案が問題だったのでありザハ氏の建築自体が問題とされた訳ではありませんつまりザハ氏という建築家への尊重の余地は残されていたはずです ( 磯崎氏を含めたごく一部の人はザハ氏にプランの修正や変更を含めて継続的な依頼をすべきだとしましたね )

 

 

. しかしこの反対論にはザハ氏の建築自体への否定的な見方の発生という危険な萌芽もあったといえるでしょう反対論が槇氏らの手を離れ世論に浸透していくにつれザハの建築自体を奇異なものとして見る ( あるいはそういうものとしてしか見れない ) という "世間の解釈の安易な傾向" が形成された という事ですそういった傾向の中でザハ氏は尊厳のある建築家というよりは揉め事を起こす厄介な対象として位置付けられたといっていいでしょう

 

 

. 結局の所複合的排外とはザハ案への反対を起点として始まりましたが最終的にはザハを排除するというよりはあらゆるものを含めた厄介な対象を締め出すという日本の全体的な傾向だった といえますつまりここではザハという特定の固有名を持つ対象が明確な批判的態度 (A ) で締め出されたのではなく匿名的な無用なもの ( ここではザハとは単なる記号になっているのでありザハ氏でなくてもそうなる可能性がある ) として "対象への尊厳を欠く排外" に遭っているという訳です

 

 



 3章 〈 建築 〉が暗殺された? あるいは〈 彼女 〉が・・・?

 

 

. そして "排外主義" 以上に衝撃的な言葉が "暗殺" です建築が暗殺されたと磯崎氏は言うもちろんこの括弧付きの建築はオブラートな言い方に変えられたものです括弧の中に入るべき本当の言葉がザハ・ハディドである事は多くの方が察したでしょう

 

 

. ザハ氏は現実には心臓発作で亡くなっているのですが磯崎氏はこれを 建築界における象徴的出来事 として解釈し直している のですザハ氏の排外という一連の流れと関連させた上でこれに対して実際に暗殺された訳じゃないのだから暴論だろうと言う人もいるでしょう

 

 

. しかしそういう事ではないのです先程述べたように日本におけるザハの排外とは匿名的な無用なもの ( 彼女の建築家としての尊厳など殆どの人が気にかけていないという意味で ) として扱われているという事でありザハという対象がきちんと認識されずに曖昧に葬られている ( 私達はザハのコンペ案を批判しているのかザハの建築自体を批判しているのかそれともザハ自身を批判しているのかはっきりとした線引きをする事の出来ない曖昧な排外の主体となってしまっている ) のはまさに秘かに殺されたという事つまり磯崎氏が言う所の "暗殺" という訳なのです

 

 

. それと「建築が暗殺された」の建築ザハ・ハディドに置き換える前に ( いや正確にいうなら磯崎氏は大文字の建築とザハ・ハディドを重ね合わせて語っている )文字通り大文字の建築つまり象徴的なものとしての建築だと解釈する事も出来るのですザハ・ハディドの死と共に象徴的なものになりえる建築の可能性も死んでしまった という事です建築が象徴にならないのなら何になるのか?  答えはおそらくコストや景観地域性とのマッチングなどますます実用的なもの ( しかし 実用性とは何か? この言葉の定義と使い方次第では、将来的には建築があらゆる場面で放棄される可能性も増大する ) として残っていくしかないと言えるでしょう (B )、〈 実用以外の可能性が閉ざされているという条件で・・・。

 

 



( *A )

逆説的だがこのような明確な批判的態度においては相手への最低限の尊重があるなぜなら批判すべきものであれまずは相手を 対象 として認識しなければならないのだから明確な批判作業には相手への最低限の尊重が必要な要素として発生してくる

 

 

(B )

放棄の可能性という事でいえば磯崎新氏はその著書偶有性操縦法 』において神宮外苑の国立競技場建設予定地を「 原ッパ 」として残す事を提案しているこのような国立競技場建設を巡る一連の騒動を止揚記憶として残そうという発想はいかにも磯崎氏らしいもちろんそのような事が現実には難しいことは磯崎氏も承知だろうけど。

 

 



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 新国立競技場の建設問題を哲学的にかんがえる〈 1 〉

 

 

 

園子温の映画『 ヒミズ 』を哲学的に考える

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監督 : 園 子温

公開 : 2012年  

原作 : 古谷実

出演 : 染谷将太      ( 住田祐一 )  二階堂ふみ   ( 茶沢景子 )

   : 渡辺哲         ( 夜野正造 )     光石研         ( 住田の父 )

   : 渡辺真起子   ( 住田の母 )    黒沢あすか   ( 茶沢の母 )

   : でんでん      ( 金子 )    テル彦         ( 窪塚洋介 )

 

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この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 ヒミズ 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という個人的欲求に基づいています。なので映画のストーリーのみを知りたいという方は他の場所で確認されるのがよいでしょう。

 

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   1.   原作と映画

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a.    『 映画ヒミズは原作の 『 漫画ヒミズとは違うべきものとして見るべきだと言っても、この映画を見た人なら異存はないでしょう。しかし、違うとは言っても、決して原作に見劣るようなものではないです。それどころか原作を見た事がない人にでも、この映画だけで十分に楽しませる事が出来るといえます。これは監督である園子温の力量によるものですね。

 

 

b.   漫画では主人公の住田を通して人間の内部に巣食う暗黒がクールに描かれています。この場合、クールといってもスタイリッシュであるという意味ではなく、冷たく覚めているという意味です ( 住田と茶沢の存在自体が冷めたものとして描かれていますね、映画と比べて )。この漫画は人間をどこか遠くに在るモノとして描いているいや理不尽な世界に投げ出されている人間という存在を遠くから見る視線によって貫いているといえます

 

 

c.   この遠さこそが、この漫画のクールな世界観を支えているのですが、逆説的なことに ( ここがこの漫画の恐るべきところですが ) 蓄積した鬱憤父親殺し自殺といった暗黒がこの遠さを縮めるものとして描かれているのです。

 

 

d.   ただし距離を縮めるといっても私達にとって共感できるというものではなく、それまでの冷徹な世界に対して物理的に生々しく温度を持つものになっているという事です。この得体の知れない生々しいものが既にある冷酷な世界に染みのように広がっていくというのがこの漫画の凄味といえるでしょう。

 

 

e.   この冷たい世界が基盤である漫画に対して、映画の世界は明らかに熱を持っている、いや熱を持とうとしている、希望という熱を・・・。周知の通り、映画の撮影中に福島の災害事故があり、園子温はこれを見過ごす訳にはいかなかったと言って脚本を書き換えています。つまり基本的には原作を踏襲しながらも、実際の被災地及びそれへの言及を映像として取り込む事によって、独自の "ヒミズ" を作り上げたという訳です。これに対してヒミズ"それら" を持ち込む必要があったのかという声もありましたが・・・。

 

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  2.   映画は原作とは違うものとして見るべき?

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a.   この映画は、"映画と原作の関係はどうあるべきか" という問いについて、ひとつの答えを出しているといえるでしょう。つまり、映画は原作を踏まえながらも別物であるべきだという事です。これに対しては、原作ファンは "それならば原作をそもそも持ち出す必要があるの? 原作なしのオリジナル脚本にすればいいのに" と言うでしょう。

 

 

b.   確かにその気持ちは理解できますが、残念ながら映画というメディアは、原作があろうがなかろうが、作品の製作過程において、私達がそれを見る以前に既に監督の物の見方というフレームを与えられているのです。鑑賞者の目に触れる以前の純粋な客観的状態の作品などない、つまり、私達が客観的映像だと思い込んでみている作品は既に監督の思い描くフレームで縁取られた主観的映像でしかないのです

 

 

c.   だから映画が原作に近いかどうかという考え方は、原作の世界に浸っている人のものでしかないのであり、映画に対する感想や批評になり得ていないのです、少なくとも映画の世界ではそれとは別の事が起こっているのですから。問題は、その映画が作品として面白いかどうかという事でしょう。

 

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  3.   映画の当初の脚本を変えさせた〈 現実界

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a.   園子温に当初の脚本を変更させてまで言及した福島の災害は、この映画においていかなる意味を持つのでしょう?ここでフランスの精神分析ジャック・ラカンが提唱した概念である現実界を参照して考えて見ましょう

 

 

b.   現実界とは、言葉では語れない世界それ自体という純粋な客観性であるといえます。通常、僕達は言葉を使うという象徴化作業を通じて世界を語れるものとして、現実界の手前で僕達が動き回れる ( あるいは動いているつもりになれる ) 象徴界を構築しています。この幻想の横断を可能にする象徴界があるからこそ、現実界に触れずに生きていけます。しかし、言葉ではその全てを語りえない純粋な客観性としての世界に触れたとき人は自分の主観性を奪いつくす客観性の波に飲み込まれる事に耐え切れず狂気に陥るのです

 

 

c.   福島の災害事故は象徴界への現実界の侵入であったといえます。前代未聞の "普通ではない事" が起きてしまった。人々の生活を問答無用で奪い、悲しみの底に突き落としたこの出来事は、言語に絶する "普通ではない経験" でした。そうであったからこそ、その経験をヒミズに持ち込む意味があったのだと僕は理解します。

 

 

d.   住田は "普通" が一番だと考えていた。その普通が普通じゃない異様な暗黒によって侵食されていく過程がヒミズの辿る道筋だったのですが、その前提が災害によって突き崩されてしまったのです。つまり、住田の暗黒以上の "普通じゃない" 獰猛な出来事が僕達の目の前で起きてしまった漫画以上の出来事が。この漫画の前提が崩れたのを直感した園子温が作品を何とか完成させるためには〈 現実 〉を取り込むしかないとして脚本を変更したのは、映画に対する誠実さがあったからではないでしょうか。

 

 

e.   ラストの方では、前日に茶沢に警察に自主するように説得された住田が金子 ( でんでん ) が預けていた拳銃を持ち、川の中に進んでいきながら死のうとしますが、死ねずに空に向かって発砲します。発砲音で目が覚めた茶沢が小屋から飛び出し、川に向かいますが住田の姿はありません。茶沢が泣き叫んでいると川の中から、いつの間にか消えたはずの住田がこちらに向かって歩いてきます。ここは原作に配慮しながらも、園子温の原作のラストとの決別をうかがわせるものとしても読み取る事も出来ます。

 

 

f.   そして住田と茶沢が、たまっていた鬱憤をはらすかのように土手の道を叫びながら走っていくラストは、この物語に希望という熱気を持ち込もうとする園子温の気持ちを示しているといえるでしょう。また染谷将太二階堂ふみでなければ、この役どころに立ち向かう事はできた俳優はいないのではないかとも思えましたね。

 

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   これについては、サム・メンデスの映画【 007 スカイフォール 】を哲学的に考えるにおいて"フレームの哲学的考察"を書いているので参考に。

 

 

   ラカン現実界については 「現実が夢ではないことを証明せよ」という入試問題 を哲学的に考えるでも述べているので参考に。

 

 

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〈 関連記事 〉

 

   熊切 和嘉の映画〈私の男〉を哲学的に考える

二階堂ふみの女優としての早熟ぶりが露になっている作品。見る人によっては耐え難いかもしれないが、個人的には面白いと感じた異色作。

 

 

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熊切和嘉の映画 『 私の男 』を哲学的に考える

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公開:2014年

 

監督:熊切和嘉   

原作:桜庭一樹『私の男』

脚本:宇治田隆史  

音楽:ジム・オルーク

 

出演:浅野忠信    ( 腐野淳吾 )  

  :二階堂ふみ   ( 腐野花 )

  :藤竜也     ( 大塩 )     

  :河井青葉    ( 大塩小町 )

  :大賀      ( 大塩暁 )  

  :モロ師岡    ( 田岡 )  

  :高良健吾    ( 尾崎美郎 )  

  :三浦貴大    ( 大輔 )

 

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二階堂ふみが十代後半にして、その女優としての凄みを見せつけた作品。これを見れば彼女がいかに早熟の女優であったかが分かる。個人的には、これが、彼女の才能が最も発揮された代表作であり、今後もこれ以上の作品はないのではと思えますね。それはこの作品が、たんに性的に過剰であるからだけでなく、その過激さに飲み込まれない彼女の存在感がここでは際立っているからです。これを見た人は、彼女のこれ以降の出演作品に物足りなさを感じるくらいに圧倒されるといっていいでしょう。

 

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   1.   二階堂ふみの存在感

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   まず言っておきたいのは、二階堂ふみの演技と存在感が、この映画を見るに値する作品たらしめているということです。淳吾 ( 浅野忠信 ) の娘役くらいの年頃で、この難しい役を演じ切ることが出来た女優は彼女以外いないのではないか、つまり彼女でなければ見るに堪えない単なる近親相姦的映画になっていた可能性もあったという事です。浅野忠信の存在感に負けない彼女であったからこそ、この映画は見る人の倫理観を冒涜するだけの映画に成り下がらずに済んでいると僕は考えます。

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  2.   花の衝動

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   花 ( 子役は山田望叶 ) は10歳で孤児になり、家族を欲していた淳吾に引き取られてオホーツク海に面した北海道の紋別で暮らすようになります。映画の冒頭に、成長した花 ( 二階堂ふみ ) が流氷のオホーツク海から突然、上がってくるシーン があります。これは花と淳吾の近親相姦の関係を目撃して淳吾から離れて暮らすよう説得する大塩 ( 藤竜也 ) を沖へと追いやった後 ( 結果として大塩は凍死します ) で、そこから逃げ出してくるシーンの続きなのです。大塩は男女の関係はやっかいだと説得しましたが、花は言いました 「 すべて私のものだ 」 「 男とか女とか関係ない 」 「 あの人は心が欲しいんだよ、だからあげたんだ 」「 私がすべて許す、あれが私のすべてだ 」 と。

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  3.   花の衝動をどう理解するか

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   ここで、この台詞をどう受取るかによってこの映画の印象は変わってきます。細かく考えて見ましょう。もしその台詞を以って、花が近親相姦だと分かりながらも "父親"を好きな思いに逆らえなかったと常識的に理解してしまったなら、この映画は近親相姦のタブーと侵犯を巡る作品としか受取られないでしょう。しかし難しい事に、原作と違って映画では主人公を淳吾と花というダブルキャストにしてしまっているため、近親相姦的な色合いが強くなっています。原作者の桜庭一樹二階堂ふみとの対談 で述べているように、原作は主人公の女の子の一人称の語りが強いのです。

 

   この違いは重要なポイントです。というのも『 私の男 』というタイトルを素直に受け止めるならば、これは本来、花を中心とした話であるはずなのに、映画ではもうひとつ、淳吾という支柱を持ち出してきているため、花の視点がかなり弱められています。もし花を並みの女優が演じていたら、浅野忠信の存在感に食われて、『 私の男 』というタイトルが無意味な作品になっていたでしょう。

 

   しかし、ダブルキャストだからこそ、淳吾との対比によって花の存在を明確に考える事が可能になるとも言えます。淳吾は小町 ( 河井青葉 ) と付き合い、肉体関係も持っていましたが結局の所、彼女を真剣に愛す事が出来ませんでした。なぜなら彼が本当に愛しているのは花だからです。他人を愛せず、血のつながった身内しか愛せない淳吾。これでは大塩に言われたように家族をつくることは出来ない ( そもそも妻は他人なのですから )。このような淳吾の性向は近親相姦的であるとしか言えないでしょう。

 

   それに対して花はどうなのでしょう?端的に言うと、彼女は近親相姦的ではないといえます。彼女は淳吾を父親ではなく一人の男、自分にエネルギーを向ける一人の "" として見ている のです。彼女の欲望は男である淳吾とは違い、近親相姦のタブーを侵犯することを享楽するのではなく、父親を他人として見る事で最初からタブーなど持たず自分の欲望を奔放に放流させる事を享楽している のです

 

   だから花は 「すべて許す」というのであり、彼女の中では すべてが可能になる という訳です。男の淳吾にとって花はたったひとつの絶対的対象ですが、花にとって淳吾はただひとつの対象ではなく、自分を満足させる幾つもの対象のうちのひとつに過ぎません。実際に花は淳吾を捨てて別の男と結婚しますからね。

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■   以下はインタビューからの抜粋。

( 桜庭 ) 『 私の男 』ですが、原作は主人公の女の子の一人称の語りが強くて、この娘に寄り添うから感情移入してしまうっていう書き方をしたんです。映画のほうは、ヨーロッパの映画にあるような、感情移入させるというよりは、こういう人たちがいる、こういう現象があるというふうに撮られるんだろうな、と思っていたので、試写で観て、ストーリーとテーマは原作と一緒だけどアプローチがすごく違うな、と感じました。

桜庭一樹×二階堂ふみ『私の男』との運命の出会い(前編) 「オール讀物」2014年6月号より転載 | インタビューほか - 文藝春秋BOOKS

 

■   おそらく、桜庭一樹がインタビューで映画のアプローチが原作と違うと感じたのは、映画のラスト ( 原作では第1章。原作は過去に遡る章立てになっている ) でしょう。原作では、大人になった花が、淳吾との "関係" を断ち切りたくても出来ない葛藤の描写こそが最も面白いからです。もっと細かく考えるなら、原作では、形式的な親子関係元々は他人である故の男女関係 が重ね合わされた二重性の中で花は苦しむのですが、映画の花は親子関係から男女関係へと移行する "強さ" を見せているのですね

 

 

  このような花の特徴については、二階堂ふみもインタビューで次のように言っています。もうこれ以上はない、というくらい見事な回答ですね。

 

( 二階堂 )   〈 中略 〉それから熊切監督がずっとおっしゃっていたのは、花を受け身にさせない、花を被害者にしない、ということですね。

 

( インタビュアー   原作との大きな違いですよね …… 花が自分で自分の人生を選んでる。

 

( 二階堂  花自身が、自分からどんどん進んでいこうとしている訳じゃありませんし、べつに暴れている訳でもないですけど、彼女がそこにただ居ることによって渦が出来ていくというか、周りの人たちがどんどん呑みこまれていく。

 

( インタビュアー )    原作だともう少し、花が翻弄されてるというか、淳悟に迷い続けている ……

 

( 二階堂  逃げていますよね。映画の花は逃げない。逃げない花であるべきというか …… あるべきではなくって、映画の中ではそうあったというか ……

 

( インタビュアー  それがこの映画をすごく魅力的にしてると思うんですよね。

 

( 二階堂  二階堂   彼女自身は、別になにか特別な、まわりと違う変な子、っていう訳ではなくて、たぶん女性なら誰でも自分では気付かない一面を持っていると思うんですよ。 少女が女性に変わる瞬間って、たぶん女性がいちばん無敵である状態というか。…… なんか女子高生とかって、すごく私、無敵だと思うんです。

 

( インタビュアー )   無敵、ですか?

 

( 二階堂  はい。そういう「無敵」さを感じているのが、江口寿史さんや、会田誠さんで、だからその年頃の女性を描きつづけていて、きっと、あの無敵さに魅了され続けているんだろうなと、作品を拝見していていつも思うんです。

 

( インタビュアー )   なるほど。

 

( 二階堂  この『私の男』は、特にそういうタイプの女性の、いちばん多感な時期を切り取って、描いているんだと思うんですね。 中学生から25歳っていう大人の女性に変わっていく時期に、いろんなものを捨てて、いつのまにか失っていて、一方で大きなものを手に入れていて、っていう、女性が一番変化している時期を、この映画は切り取っているんだと思うんです。

 

二階堂ふみ インタビュー 映画『私の男』 ツイナビインタビュー Vol.32 全部、私のもんだ。

 

 

■   原作『 私の男 』については次の記事を参照。

 

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   4.  『 私の男 』というタイトルの意味

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   気付かれないでしょうが、これはある意味で 淳吾の近親相姦的欲望よりも強力な欲望である と言えるでしょう。映画においては、二階堂ふみの演技が、この花子の強い欲望を描く事を可能にしています。原作以上に『 私の男 』というタイトルの効果が発揮されているのです ( これは映画の結末に関わる事なのですが、それについては次の5. を参照 )。『 私の男 』というタイトルはそれくらい、言い得て妙なのです。もしタイトルが「私の父」、あるいは「私と父」という近親相姦を予感させるものであったなら、花の持つ奔放かつ獰猛な欲望は見えないままになっていたでしょう。

 

 

   それでも『 私の男 』というタイトルには、父ではなく『 男 』という言葉があるからこそ、その前に来る『 の 』という言葉が全ての男を所有しようとする花の "強力な欲望" を示している と言えます。つまり、この『 の 』は花にとっての男という説明的な意味ではなく、『 男 』が花の『 ものである 』と言う所有的意味での『 の 』であると考える事が出来る のです。これが『 男 』ではなく、『 父 』であったなら、『 の 』は単なる説明的なものでしかなく、つまらないものになっていた事は言うまでもないでしょう。だから花にとっての父とは、結局の所、花が所有しようとする男というものの象徴でしかなかったのです、少なくとも花が働きだして他の男を知るまでは・・・。

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  5.   結末は一体・・・

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   では映画のラストシーンはどう解釈すべきでしょう?淳吾が姿を消してしまう原作と違い、映画では独自のひねりが加えられています。レストランのディナーで花は婚約者と共に淳吾を会うのですが、しばらくすると婚約者はいつの間にか姿を消し、見つめ合う花と淳吾のシーンになってしまうのです。そしてテーブルの下では花が足で淳吾の足を挑発的になぞっている所で終わります。

 

 

   おそらくこれは原作の結末を覆すつもりで、熊切監督が用意したのでしょう。近親相姦の関係が終わらずに続くのを暗示する事によって映画を見る者の倫理観を挑発しようとしているのかもしれません、今度は花が大人として優位に立ち、落ちぶれた淳吾を支配するという昔とは逆転した関係性を導入する事によって。

 

 

   しかし、この場面では花、いや二階堂ふみの存在感が、淳吾を圧倒しているため、淳吾の近親相姦的欲望よりも、花の奔放な欲望が勝っている。お金がないであろう淳吾がスーツを着てきたのを見て、無理しちゃってといわんばかりに花は言う「どうしたの、その服?」。この時、淳吾は父親の威厳を失い、一人の男に成り下がっている。ここでの二階堂ふみの存在感によって、花は男を手玉に取る奔放な女性として近親相姦的関係から脱しているのかもしれないのです。少なくとも二階堂ふみによって、この映画は救われているといえるでしょう。

 

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〈 関連記事 〉

 

   園 子温の映画〈ヒミズ〉を哲学的に考える

二階堂ふみ つながりという事で。

 

 

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