監督 : ジョン・カサヴェテス
公開 : 1974年
出演 : ピーター・フォーク ( ニック・ロンゲッティ )
: ジーナ・ローランズ ( メイベル・ロンゲッティ )
: キャサリン・カサヴェテス ( マーガレット・ロンゲッティ )
1. 日常を映画に昇華させるカサヴェテス
最もありふれたものだが、最も取り扱うのが難しい映画のテーマが "日常" でしょう、それが夫婦であるならなおさら …… 。この "夫婦という日常" をカサヴェテスは映画に見事に昇華してしまった。"夫婦" とは身内である以前に、本来、他人同士である男と女であるが故に、"問題" が常につきまとうものである事をカサヴェテスは率直に示しています。
「 人生とは、そして結婚とは、結局は女と男の闘いなんだ。それは途切れることなく続く、愛すべき闘いだ。男と女は根本的に異なっているんだよ。」
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そして、この "日常" は映画の中だけの虚構ではない、つまり、 "日常" は映画の中に回収されない "強力な現実" であるが故に、日常についてのこの映画もまた、日常に結びついたひとつの "現実" であるとカサヴェテスは言っています。
「 ( 『 こわれゆく女 』について ) 僕はこれを映画とは思わない。これはまさに ……、家庭の謎、継母、それに ……、僕らはみんな、同時に愛し合い、憎み合う、この狂った世の中に生きているという事実に結びついているんだと感じる。」
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2. A WOMAN UNDER THE INFLUENCE
結婚した事のある男なら、以下のシーンは落ち着いて観る気分にはならないでしょう。誰であれ、こんな経験はあるでしょうから。ニックの帰りを一人で待つメイベル。子供たちは義母の元に預けている。しかし水道工事員であるニックは急な仕事で帰る事が出来ない。
恐る恐る電話するニック。メイベルは落ち込む。
こんな具合に、"日常" が深く掘り下げられ描写されていく。そしてこの "日常" の中の "狂気" を体現しているのが、ニックの妻であるメイベルです。彼女は常に興奮し落ち着きがないのですが、カサヴェテスはこれを他人、そして社会との関係において、それらの影響と圧力を受けながらも、そこでしか生きていると感じられない女性の特徴として描き出している のです。
「 ( 『 こわれゆく女 』において ) 他人との相互作用によって、他人との一種の競合に加わることによってだけ、メイベルは生きていると感じることができる。ここで強調されているのは、女性であると同時に社会でもある。社会が振るう、メイベルへの圧力と影響力だ。」
「 よし、本当に何かを言うために映画を作るぞと思った ……。凄まじい試練を体験した、ほとんどの時間孤独だった一人の女についての映画だ。それに彼女は男の気まぐれ、親分風、無知、不安、裏切りに従属している。それがこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の主題だった。」
「 女たちは人生で常に裏切られている。裏切られた彼女たちは孤独、不安、男の仕事への嫉妬、そして僕らの社会で評価されていない身分 - 母親であること、夫に献身的な何者かであることに苦しむ。女が男の影響下にあるべきだなんて一体何で言えるんだ? 」
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ある意味で、メイブルは自分以外の他者に関わり過ぎているといえます。その他者を愛したり ( 彼女の子供たち )、嫌ったり ( ニックの母親 )、楽しませたり ( ニックの労働者仲間達 )、そして共に居続けようとして ( ニック・・・)、他者の中で生きようとしているのです。これは何を意味しているのでしょう? 孤独を紛らわすため? 仮にそうだとしても、メイブルはそれが上手く出来ずに狂気の度合いを強めていく……。
それは 彼女が "自分自身" に関わろうとして耐え切れずに壊れていく過程 だといえます。この点において女性の内面には自分自身では制御する事の出来ない獰猛な何かがある。女性はそれを避けるために外部の他者に向かうのではないでしょうか。
「 女性は孤独で、自分たちの愛に囚われていると思う。女性は囚われている。何かにのめり込むと、すっかりのめり込んでしまい、それが拷問になる。」
「 夫を愛しながら、結婚してしばらく経つ女性はすべて、自分の感情をどこに向けていいか分からず、そのせいで狂気に陥るんだと僕は確信している。」
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しかし結局の所、カサヴェテスも言うように、その外部からも揺さぶられてしまうために、不安定な存在になってしまうのです。この映画の原題 "A WOMAN UNDER THE INFULUENCE" まさにその事を言い表しています。それに対して "こわれゆく女" という邦題は悪くはないのですが、それだとどうしてもメイブルの狂気の過程ばかりを観る人に読み取らせてしまう ( とはいえ "何かの影響下にある女" という直訳では商業的に難しい・・・)。カサヴェテスはそうしたものを越えた二人の絆を描き出そうとしている事を忘れるべきではないでしょう。
「 ジーナはこの登場人物とこの登場人物の背後に隠れている女性について、かなりじっくり考えている。彼女は自分の演じている人物を下品に演じたり、戯画的に演じたりしないように心がけているんだ。彼女はメイベルを「 犠牲者 」や「 変人 」にしたくないんだ。」
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3. 男と女、二人でいる事
女性は自分の "外部" に、内面に沈み込みそうな自分を引っ張り出してくれる "男" を求めている。あるいはカサヴェテスの言葉でいえば、女性は男が尽くしてくれるのを望んでいるという事になるでしょう。
「 女性は1人の男性 - 魅力的な王子様が献身的に尽くしてくれるのを望んでる。おとぎ話じゃなくて、それが女性の望んでることなんだよ。女性にとって、子供を生むのと同じくらい本質的なことなんだ。」
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しかし、女性の "理想" とする "男 " は現実にはほとんどいない。理想に照らし合わせて、この男ではないと思う限り、"男" と一緒にいる事は難しいはずです。なぜなら、そんな理想は "日常" の中にはないからです。大切なのは "日常" の中で、時にすれ違い、時にぶつかり合う "男" と一緒にいたいと思えるかどうかです。そう思える時、男が不器用で少々がさつでも、男が自分と一緒にいたいと思っているかどうかも分かるはずです。互いにそう思っている男と女は、一緒にいる事の幸せを掴んでいるといえるでしょう。
ニックとメイブルは、紆余曲折を経た上で、互いの事をそのように再確認しています、言葉には出さないけど、一緒にいたいという思いを抱きながら。それはロマンチックなものではなく、あらゆる困難や感情が渦巻く日常生活の中においてしか維持されないものです。そこには二人で一緒にいる事の意味が、つまり本来他人同士である男と女が一緒にいる事を互いに選択しているという奇跡がある。その経験は男であれ女であれ一人でいる者が決して辿りつけない出来事なのです。
「 ( 『 こわれゆく女 』において ) ニックとメイベルはあらゆる問題を抱えている。問題は山ほどある。それでも他人といるより二人で一緒にいるときの方が快適だった。彼らが二人きりでいれば、これほどお互いに好きで尊敬し合っている二人がいるかどうか分からないくらいだ。」
「 僕が思うに …… 今日の男女の間には根元的な敵意がある。だから、僕はこの映画 ( 『 こわれゆく女 』 ) の中で、根元的な敵意ではなく、愛を選んだ。そこには奇妙な愛がある。それは奇妙だが、決定的だ。」
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なので病院から帰ってきて気を使うぎこちないメイブルに対してニックが、いつものように振舞えと言って、"日常" を再開した時、それは単に以前の生活に意味無く戻ったのではなく、"日常" こそ二人が一緒にいる事を再確認するものとして "新しい日常" になっていると解釈できるでしょう。そこにロマンティックな言葉はないが、カサヴェテスはそんな瞬間的なものより、永遠の男女関係を描き出したのです。
「 人生に影響を与えるのは、男と女の相互関係だけだ。確かに現代は政治的な衰退と混乱の時代だ ― でも、そんなものは面白くない。持ってる情報ですべてが決まる知的なことだからね。男女の関係は人間の本能に永遠に具わったものだ。幻想じゃなくてね。」
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