公開:2014年
監督:熊切和嘉
脚本:宇治田隆史
音楽:ジム・オルーク
出演:浅野忠信 ( 腐野淳吾 )
:二階堂ふみ ( 腐野花 )
:藤竜也 ( 大塩 )
:河井青葉 ( 大塩小町 )
:大賀 ( 大塩暁 )
:モロ師岡 ( 田岡 )
:高良健吾 ( 尾崎美郎 )
:三浦貴大 ( 大輔 )
二階堂ふみが十代後半にして、その女優としての凄みを見せつけた作品。これを見れば彼女がいかに早熟の女優であったかが分かる。個人的には、これが、彼女の才能が最も発揮された代表作であり、今後もこれ以上の作品はないのではと思えますね。それはこの作品が、たんに性的に過剰であるからだけでなく、その過激さに飲み込まれない彼女の存在感がここでは際立っているからです。これを見た人は、彼女のこれ以降の出演作品に物足りなさを感じるくらいに圧倒されるといっていいでしょう。
1. 二階堂ふみの存在感
■ まず言っておきたいのは、二階堂ふみの演技と存在感が、この映画を見るに値する作品たらしめているということです。淳吾 ( 浅野忠信 ) の娘役くらいの年頃で、この難しい役を演じ切ることが出来た女優は彼女以外いないのではないか、つまり彼女でなければ見るに堪えない単なる近親相姦的映画になっていた可能性もあったという事です。浅野忠信の存在感に負けない彼女であったからこそ、この映画は見る人の倫理観を冒涜するだけの映画に成り下がらずに済んでいると僕は考えます。
2. 花の衝動
■ 花 ( 子役は山田望叶 ) は10歳で孤児になり、家族を欲していた淳吾に引き取られてオホーツク海に面した北海道の紋別で暮らすようになります。映画の冒頭に、成長した花 ( 二階堂ふみ ) が流氷のオホーツク海から突然、上がってくるシーン があります。これは花と淳吾の近親相姦の関係を目撃して淳吾から離れて暮らすよう説得する大塩 ( 藤竜也 ) を沖へと追いやった後 ( 結果として大塩は凍死します ) で、そこから逃げ出してくるシーンの続きなのです。大塩は男女の関係はやっかいだと説得しましたが、花は言いました 「 すべて私のものだ 」 「 男とか女とか関係ない 」 「 あの人は心が欲しいんだよ、だからあげたんだ 」「 私がすべて許す、あれが私のすべてだ 」 と。
3. 花の衝動をどう理解するか
■ ここで、この台詞をどう受取るかによってこの映画の印象は変わってきます。細かく考えて見ましょう。もしその台詞を以って、花が近親相姦だと分かりながらも "父親"を好きな思いに逆らえなかったと常識的に理解してしまったなら、この映画は近親相姦のタブーと侵犯を巡る作品としか受取られないでしょう。しかし難しい事に、原作と違って映画では主人公を淳吾と花というダブルキャストにしてしまっているため、近親相姦的な色合いが強くなっています。原作者の桜庭一樹も二階堂ふみとの対談〈 ※1 〉で述べているように、原作は主人公の女の子の一人称の語りが強いのです。
■ この違いは重要なポイントです。というのも『 私の男 』というタイトルを素直に受け止めるならば、これは本来、花を中心とした話であるはずなのに、映画ではもうひとつ、淳吾という支柱を持ち出してきているため、花の視点がかなり弱められています。もし花を並みの女優が演じていたら、浅野忠信の存在感に食われて、『 私の男 』というタイトルが無意味な作品になっていたでしょう。
■ しかし、ダブルキャストだからこそ、淳吾との対比によって花の存在を明確に考える事が可能になるとも言えます。淳吾は小町 ( 河井青葉 ) と付き合い、肉体関係も持っていましたが結局の所、彼女を真剣に愛す事が出来ませんでした。なぜなら彼が本当に愛しているのは花だからです。他人を愛せず、血のつながった身内しか愛せない淳吾。これでは大塩に言われたように家族をつくることは出来ない ( そもそも妻は他人なのですから )。このような淳吾の性向は近親相姦的であるとしか言えないでしょう。
■ それに対して花はどうなのでしょう?端的に言うと、彼女は近親相姦的ではないといえます。彼女は淳吾を父親ではなく一人の男、自分にエネルギーを向ける一人の "男" として見ている のです。彼女の欲望は男である淳吾とは違い、近親相姦のタブーを侵犯することを享楽するのではなく、父親を他人として見る事で最初からタブーなど持たず自分の欲望を奔放に放流させる事を享楽している のです〈 ※2 〉。
■ だから花は 「すべて許す」というのであり、彼女の中では すべてが可能になる という訳です。男の淳吾にとって花はたったひとつの絶対的対象ですが、花にとって淳吾はただひとつの対象ではなく、自分を満足させる幾つもの対象のうちのひとつに過ぎません。実際に花は淳吾を捨てて別の男と結婚しますからね。
〈 ※1 〉
■ 以下はインタビューからの抜粋。
( 桜庭 ) 『 私の男 』ですが、原作は主人公の女の子の一人称の語りが強くて、この娘に寄り添うから感情移入してしまうっていう書き方をしたんです。映画のほうは、ヨーロッパの映画にあるような、感情移入させるというよりは、こういう人たちがいる、こういう現象があるというふうに撮られるんだろうな、と思っていたので、試写で観て、ストーリーとテーマは原作と一緒だけどアプローチがすごく違うな、と感じました。
桜庭一樹×二階堂ふみ『私の男』との運命の出会い(前編) 「オール讀物」2014年6月号より転載 | インタビューほか - 文藝春秋BOOKS
■ おそらく、桜庭一樹がインタビューで映画のアプローチが原作と違うと感じたのは、映画のラスト ( 原作では第1章。原作は過去に遡る章立てになっている ) でしょう。原作では、大人になった花が、淳吾との "関係" を断ち切りたくても出来ない葛藤の描写こそが最も面白いからです。もっと細かく考えるなら、原作では、形式的な親子関係 と 元々は他人である故の男女関係 が重ね合わされた二重性の中で花は苦しむのですが、映画の花は親子関係から男女関係へと移行する "強さ" を見せているのですね〈 ※3 〉。
〈 ※2 〉
■ このような花の特徴については、二階堂ふみもインタビューで次のように言っています。もうこれ以上はない、というくらい見事な回答ですね。
( 二階堂 ) 〈 中略 〉それから熊切監督がずっとおっしゃっていたのは、花を受け身にさせない、花を被害者にしない、ということですね。
( インタビュアー ) 原作との大きな違いですよね …… 花が自分で自分の人生を選んでる。
( 二階堂 ) 花自身が、自分からどんどん進んでいこうとしている訳じゃありませんし、べつに暴れている訳でもないですけど、彼女がそこにただ居ることによって渦が出来ていくというか、周りの人たちがどんどん呑みこまれていく。
( インタビュアー ) 原作だともう少し、花が翻弄されてるというか、淳悟に迷い続けている ……
( 二階堂 ) 逃げていますよね。映画の花は逃げない。逃げない花であるべきというか …… あるべきではなくって、映画の中ではそうあったというか ……
( インタビュアー ) それがこの映画をすごく魅力的にしてると思うんですよね。
( 二階堂 ) 二階堂 彼女自身は、別になにか特別な、まわりと違う変な子、っていう訳ではなくて、たぶん女性なら誰でも自分では気付かない一面を持っていると思うんですよ。 少女が女性に変わる瞬間って、たぶん女性がいちばん無敵である状態というか。…… なんか女子高生とかって、すごく私、無敵だと思うんです。
( インタビュアー ) 無敵、ですか?
( 二階堂 ) はい。そういう「無敵」さを感じているのが、江口寿史さんや、会田誠さんで、だからその年頃の女性を描きつづけていて、きっと、あの無敵さに魅了され続けているんだろうなと、作品を拝見していていつも思うんです。
( インタビュアー ) なるほど。
( 二階堂 ) この『私の男』は、特にそういうタイプの女性の、いちばん多感な時期を切り取って、描いているんだと思うんですね。 中学生から25歳っていう大人の女性に変わっていく時期に、いろんなものを捨てて、いつのまにか失っていて、一方で大きなものを手に入れていて、っていう、女性が一番変化している時期を、この映画は切り取っているんだと思うんです。
二階堂ふみ インタビュー 映画『私の男』 ツイナビインタビュー Vol.32 全部、私のもんだ。
〈 ※3 〉
■ 原作『 私の男 』については次の記事を参照。
4. 『 私の男 』というタイトルの意味
■ 気付かれないでしょうが、これはある意味で 淳吾の近親相姦的欲望よりも強力な欲望である と言えるでしょう。映画においては、二階堂ふみの演技が、この花子の強い欲望を描く事を可能にしています。原作以上に『 私の男 』というタイトルの効果が発揮されているのです ( これは映画の結末に関わる事なのですが、それについては次の5. を参照 )。『 私の男 』というタイトルはそれくらい、言い得て妙なのです。もしタイトルが「私の父」、あるいは「私と父」という近親相姦を予感させるものであったなら、花の持つ奔放かつ獰猛な欲望は見えないままになっていたでしょう。
■ それでも『 私の男 』というタイトルには、父ではなく『 男 』という言葉があるからこそ、その前に来る『 の 』という言葉が全ての男を所有しようとする花の "強力な欲望" を示している と言えます。つまり、この『 の 』は花にとっての男という説明的な意味ではなく、『 男 』が花の『 ものである 』と言う所有的意味での『 の 』であると考える事が出来る のです。これが『 男 』ではなく、『 父 』であったなら、『 の 』は単なる説明的なものでしかなく、つまらないものになっていた事は言うまでもないでしょう。だから花にとっての父とは、結局の所、花が所有しようとする男というものの象徴でしかなかったのです、少なくとも花が働きだして他の男を知るまでは・・・。
5. 結末は一体・・・
■ では映画のラストシーンはどう解釈すべきでしょう?淳吾が姿を消してしまう原作と違い、映画では独自のひねりが加えられています。レストランのディナーで花は婚約者と共に淳吾を会うのですが、しばらくすると婚約者はいつの間にか姿を消し、見つめ合う花と淳吾のシーンになってしまうのです。そしてテーブルの下では花が足で淳吾の足を挑発的になぞっている所で終わります。
■ おそらくこれは原作の結末を覆すつもりで、熊切監督が用意したのでしょう。近親相姦の関係が終わらずに続くのを暗示する事によって映画を見る者の倫理観を挑発しようとしているのかもしれません、今度は花が大人として優位に立ち、落ちぶれた淳吾を支配するという昔とは逆転した関係性を導入する事によって。
■ しかし、この場面では花、いや二階堂ふみの存在感が、淳吾を圧倒しているため、淳吾の近親相姦的欲望よりも、花の奔放な欲望が勝っている。お金がないであろう淳吾がスーツを着てきたのを見て、無理しちゃってといわんばかりに花は言う「どうしたの、その服?」。この時、淳吾は父親の威厳を失い、一人の男に成り下がっている。ここでの二階堂ふみの存在感によって、花は男を手玉に取る奔放な女性として近親相姦的関係から脱しているのかもしれないのです。少なくとも二階堂ふみによって、この映画は救われているといえるでしょう。
〈 関連記事 〉
二階堂ふみ つながりという事で。