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Life Without " Thinking " ・・・ Is Nothing!

〈 考える事 〉をしない人生なんて・・・〈無〉やね。

◆ 僕を哲学的に考えさせる映画〈ヒミズ〉

■ CINEMA【男と女】

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監督:園 子温 原作:古谷実

出演:染谷将太(住田祐一)  二階堂ふみ(茶沢景子)

  :渡辺哲(夜野正造)   光石研(住田の父)

  :渡辺真起子(住田の母) 黒沢あすか(茶沢の母)

  :でんでん(金子)    テル彦(窪塚洋介)

公開:2012年

 

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1. 原作と映画

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f:id:mythink:20160523084514j:plain "映画ヒミズ"は原作の"漫画ヒミズ"とは違うべきものとして見るべきだと言っても、この映画を見た人なら異存はないでしょう。しかし、違うとは言っても、決して原作に見劣るようなものではないです。それどころか原作を見た事がない人にでも、この映画だけで十分に楽しませる事が出来るといえます。これは監督である園子温の力量によるものですね。

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain 漫画では主人公の住田を通して人間の内部に巣食う暗黒がクールに描かれています。この場合、クールといってもスタイリッシュであるという意味ではなく、冷たく覚めているという意味です(住田と茶沢の存在自体が冷めたものとして描かれていますね、映画と比べて)。この漫画は人間をどこか遠くに在るモノとして描いている、いや理不尽な世界に投げ出されている人間という存在を遠くから見る視線によって貫いているといえます

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain この遠さこそが、この漫画のクールな世界観を支えているのですが、逆説的なことに(ここが、この漫画の恐るべきところですが)蓄積した鬱憤・父親殺し・自殺といった暗黒が、この遠さを縮めるものとして描かれているのです

ただし距離を縮めるといっても僕達にとって共感できるというものではなく、それまでの冷徹な世界に対して物理的に生々しく温度を持つものになっているという事ですこの得体の知れない生々しいものが、既にある冷酷な世界に染みのように広がっていくというのが、この漫画の凄味といえるでしょう

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain この冷たい世界が基盤である漫画に対して、映画の世界は明らかに熱を持っている、いや熱を持とうとしている、希望という熱を・・・。周知の通り、映画の撮影中に福島の災害事故があり、園子温はこれを見過ごす訳にはいかなかったと言って脚本を書き換えています。つまり基本的には原作を踏襲しながらも、実際の被災地及びそれへの言及を映像として取り込む事によって、独自の"ヒミズ"を作り上げたという訳です。これに対してヒミズ"それら"を持ち込む必要があったのかという声もありましたが・・・。

 

 

2. 映画は原作とは違うものとして見るべき?

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f:id:mythink:20160523084514j:plain この映画は、"映画と原作の関係はどうあるべきか"という問いについて、ひとつの答えを出しているといえるでしょう。つまり、映画は原作を踏まえながらも別物であるべきだという事です。これに対しては、原作ファンは"それならば原作をそもそも持ち出す必要があるの?原作なしのオリジナル脚本にすればいいのに"というでしょう。

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain 確かにその気持ちは理解できますが、残念ながら映画というメディアは、原作があろうがなかろうが、作品の製作過程において、僕達がそれを見る以前に既に監督の物の見方というフレームを与えられているのです。鑑賞者の目に触れる以前の純粋な客観的状態の作品などない、つまり僕達が客観的映像だと思い込んでみている作品は、既に監督の思い描くフレームで縁取られた主観的映像でしかないのです(※1)

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain だから映画が原作に近いかどうかという考え方は、原作の世界に浸っている人のものでしかないのであり、映画に対する感想や批評になり得ていないのです、少なくとも映画の世界ではそれとは別の事が起こっているのですから。問題は、その映画が作品として面白いかどうかという事でしょう。

 

 

3. 映画の当初の脚本を変えさせた〈現実界

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f:id:mythink:20160523084514j:plain 園子温に当初の脚本を変更させてまで言及した福島の災害は、この映画においていかなる意味を持つのでしょう?ここでフランスの精神分析ジャック・ラカンが提唱した概念である【現実界】を参照して考えて見ましょう(※2)

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain 現実界とは、言葉では語れない世界それ自体という純粋な客観性であるといえます。通常、僕達は言葉を使うという象徴化作業を通じて世界を語れるものとして、現実界の手前で僕達が動き回れる(あるいは動いているつもりになれる)象徴界を構築しています。この幻想の横断を可能にする象徴界があるからこそ、現実界に触れずに生きていけます。しかし、言葉ではその全てを語りえない純粋な客観性としての世界に触れたとき、人は自分の主観性を奪いつくす客観性の波に飲み込まれる事に耐え切れず狂気に陥るのです

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain 福島の災害事故は象徴界への現実界の侵入であったといえます。前代未聞の"普通ではない事"が起きてしまった。人々の生活を問答無用で奪い、悲しみの底に突き落としたこの出来事は、言語に絶する"普通ではない経験"でした。そうであったからこそ、その経験をヒミズに持ち込む意味があったのだと僕は理解します。

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain 住田は"普通"が一番だと考えていた。その普通が普通じゃない異様な暗黒によって侵食されていく過程がヒミズの辿る道筋だったのですが、その前提が災害によって突き崩されてしまったのです。つまり、住田の暗黒以上の"普通じゃない"獰猛な出来事が、僕達の目の前で起きてしまった、漫画以上の出来事が。この漫画の前提が崩れたのを直感した園子温が作品を何とか完成させるためには【現実】を取り込むしかないとして脚本を変更したのは、映画に対する誠実さがあったからではないでしょうか。

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain ラストの方では、前日に茶沢に警察に自主するように説得された住田が金子(でんでん)が預けていた拳銃を持ち、川の中に進んでいきながら死のうとしますが、死ねずに空に向かって発砲します。発砲音で目が覚めた茶沢が小屋から飛び出し、川に向かいますが住田の姿はありません。茶沢が泣き叫んでいると川の中から、いつの間にか消えたはずの住田がこちらに向かって歩いてきます。ここは原作に配慮しながらも、園子温の原作のラストとの決別をうかがわせるものとしても読み取る事も出来ます。

 

f:id:mythink:20160523084514j:plain そして住田と茶沢が、たまっていた鬱憤をはらすかのように土手の道を叫びながら走っていくラストは、この物語に希望という熱気を持ち込もうとする園子温の気持ちを示しているといえるでしょう。また染谷将太二階堂ふみでなければ、この役どころに立ち向かう事はできた俳優はいないのではないかとも思えましたね。

 

 

 

(※1) これについては◆ 僕を哲学的に考えさせる映画【 007 スカイフォール 】において"フレームの哲学的考察"を書いているので参考に。

(※2) ラカン現実界については◆ 僕を哲学的に考えさせる「現実が夢ではないことを証明せよ」という入試問題 でも述べているので参考に。

 

 

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〈このブログ内の関連記事〉

◆ 僕を哲学的に考えさせる映画〈私の男〉 二階堂ふみ つながりという事で。

 

 

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