1. 大橋鎭子と花森安治
■ 2016年4月スタートのNHK朝ドラ "とと姉ちゃん" は、雑誌『暮らしの手帖』とその出版元の"暮らしの手帖社"の創業者である大橋 鎭子をモデルにした物語ですね(ヒロインは高畑充希)。日本読書新聞編集部にいた大橋 鎭子は戦後、花森 安治と知り合います。当時24歳の大橋は、日本読書新聞編集長の田所太郎に "独立して女性の役に立つ雑誌を出版したい" と相談し、彼から花森安治を紹介されたのです。大橋は彼に、父を結核で亡くし女手ひとつで3人の娘を育てた母親を幸せにするためにお金持ちになりたいという話をし、彼から君の親孝行を手伝おうと言われました。
■ こうして社長・大橋鎭子、編集長・花森安治とする "衣装研究所" を銀座に設立します。昭和21年5月には『スタイルブック』第1号を発行します( ※1 )。
■ そして昭和23年9月には、『美しい暮らしの手帖』を創刊する事になります。
2. 花森安治の『暮らしの手帖』表紙デザイン
■ 『暮らしの手帖』の表紙デザインは編集長・花森安治の仕事でした。1号から100号 ( 1948年9月~1969年4月 )、そして2世紀1号から2世紀53号 ( 1969年7月~1978年4月 ) まで質・量ともよくぞここまで書いたと思わせるの程のものですね。
■ 1号から9号までの表紙は、その手書フォントと相俟って、今見ても圧倒的な存在感を放っています。作家の太田治子は、子供時代の母親 ( 太田静子。言うまでもなく彼女は太宰治の愛人でした。つまり太田治子は太宰治の私生児という事です( ※2 )) との表紙にまつわるエピソードを語っています。
"「花森さんの『暮らしの手帖』の表紙は、素敵ね。とても明るいわ」( 母 )
そういって、いつまでも表紙をみつめていたことも思い出した。近所の古本屋さんで買った創刊まもないころのものであった。赤いオルガンの横の木の椅子の上に、丸い毛糸玉がふたつ置かれていた。毛糸玉には毛糸棒が二本さしこまれていて、暖かな家庭のぬくもりが伝わってきた。きっとこのようなお家には、優しいおとうさんがいるのに違いなかった。こういうお家の子供に生まれたかったなあと、私はその表紙をみつめながら思った。"
"「花森さんは、私の本の表紙も描いてくださったのよ」( 母 )
母はその時初めてそうと教えてくれたのである。それまでにも何度かみたことのある母の本( ※3 )の表紙を描いた人と、毎号有名な『暮らしの手帖』の表紙を描く人が同じだなんてとても素敵だわと思った。・・・ "
■ 22号から、"美しい"の文字がなくなり、『暮らしの手帖』のタイトルとなる。
■ 44号から、写真画像が取り入れられ、ヴァリエーションがひろがっていく。
( ※1 )
■ この時に日本読書新聞編集部での同僚であった時代小説家の柴田錬三郎は大橋鎭子の事を"オール・マイティの女性だった"と評価している。
" 物資がなくなって、なにかと不自由をしていた戦争中でも、大橋鎭子に頼めば、砂糖でござれ、汽車の切符でござれ、ありとあらゆるものを、なんでも手に入れることができた。どんなルートをもっていたのかは知らないが、とにかくなんでも欲しいといった物資を揃えてくれる。彼女の異常に近い才能で、われわれ一同は、どんなに助かったか知れない。"
"(・・・)彼女はいつもの伝で、たちまち二十万円の金と、銀座八丁目にある日吉ビルの一室を花森にもたらしたのである。銀座のドまん中の一室は、大の男が奔走しても、半年はかかる時代に、二十万円の金もいっしょにもってきたのだから、花森ならずともどんなにか頼母しい女にみえた。"
( ※2 )
■ 太田治子の "治" は、太宰治の本名である津島修治の "治" からとられている。ただし、太宰は、別の愛人である山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺 ( 1948年6月 ) したため、治子 ( 1947年11月誕生 ) と会う事はなかった。ちなみに1948年は『暮らしの手帖』が創刊された年。
( ※3 )
■ 母の本、つまり太田静子の本とは、『斜陽日記』の事。もともとは太宰の『斜陽』の題材として提供した日記で1945年の春から12月までの日々が書かれている。で、『斜陽』はベストセラーとなる。太宰の自殺後、井伏鱒二や伊馬春部らから10年ほど伏せて置くようにいわれたものの、生活苦から1948年の10月に石狩書房から出版。この時の装釘を手がけたのが花森安治。
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