It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

池上遼一の講演録『 劇画家・池上遼一ができるまで 』を読む

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◆   小学館の漫画家本 vol. 12 『 池上遼一 』は、池上遼一の漫画家人生が凝縮された読み応えのある本でしたね。池上氏のメジャー作品 ( 例えば、有名な所で『 サンクチュアリ 』、『 HEAT ー灼熱ー 』など ) にしか興味のない方は結構いる ( 残念なことに ) かとは思われますが、数々の傑作の裏側にある氏の人生遍歴を知ることは、氏の作品を別の角度から楽しませてくれるきっかけとなるはずです。

 

 ◆   特に、本書冒頭の、池上遼一のファンだという高橋留美子インタビュー『 私は、池上先生の、おっかけでした 』と池上氏自身へのインタビュー『 "暗さ" との戦いだった 』は、池上氏が、世間が認める劇画作家としての池上遼一になる以前の、マイナーな存在だった池上氏の歩みに焦点が当てられていて、興味深いものがありました。知らないことが結構、書かれてましたからね

 

 ◆   僕自身の池上作品の体験は、小学生の頃に、立ち読みした週刊サンデーに掲載されていた「 男大空 」でした。当時はジャッキー・チェンの初期のカンフー映画が流行っていたこともあり、主人公の祭俵太が神骨拳法を会得する一方で、敵である鬼堂凱も対抗して暗黒拳法を会得して戦うという物語の後半の設定にすんなりと入っていけました。そして、何よりも衝撃的だったのが、その格好良すぎる劇画タッチで、虜になってしまいましたね。当時は、そんな "クセ" になるようなタッチの漫画が結構あって、僕にとっては良い意味でのトラウマになった訳です。

 

◆   例えば、週刊ジャンプで連載されていた車田正美のボクシング漫画『 リングにかけろ 』。見開き1ページを使い、剣崎順のギャラクティカマグナムによって、相手がローマ字の衝撃音と共に吹っ飛んでいくという今ではあり得ない贅沢な作画 。同じくジャンプで連載が始まった鳥山明の『 Dr. スランプ 』の目新しい細かすぎる書き込み ( それは池上氏の劇画タッチの対極にあるかのような "カワイイ" タッチでした )。いずれも、僕だけじゃなく、友達の間でも、ずいぶん話題になりました。

 

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   例えば、氏がデビュー前の若かりし頃、共産党の民主青年同盟に入っていて、当時の学生運動の影響を受けていた事とか、安部公房遠藤周作大藪春彦山田風太郎、をよく読んでいた事など。

 

( 池上 ) …… つげ先生なんかと話し込んだりして。いろいろ教えてもらって。僕は、大阪にいた頃、民主青年同盟に入っていたじゃない、共産党の。それでマルクスの話をよくしてたんだけど、そしたら「 池上くん、マルクスはダメだよ 」って、「 サルトルを読めよ、サルトル 」って。サルトルなんか余計難しくてわかんない ( 笑 )。

 

( インタビュアー ) 椎名鱗三とか、あの辺の作家は誰が勧めたんですか?

 

( 池上 ) あれも、つげ先生じゃないかな。葛西善三とか。当時、僕は、安部公房も好きで読んでたけど、つげ先生は、「 俺は椎名鱗三よりも、梅崎春生だなあ 」とか言ってました。あの当時、ものすごく読んでましたよね。つげ先生。で、最終的に好きなのは井伏鱒二だと。

 

( 池上 ) それと、あの人も評価してたね、『 楢山節考 』。

 

( インタビュアー ) 深沢七郎。〈 中略 〉それって、やっぱり広がりますよね。池上さん読書体験。

 

( 池上 ) そうね。大藪春彦とか山田風太郎、あと江戸川乱歩くらいしか読んでなかったからね。読むと、面白いのがたくさんある。遠藤周作とかもね。あの当時、純文学が台頭していたじゃない。

 

( インタビュアー ) 若い書き手が続々と出てきたころだから。

 

( 池上 ) そうだね。学生運動も勢いがあったし、若い人たちが無意識のうちに、そういう思想や哲学的なものを求めていた。必要としていた時代だよね。

 

( インタビュアー ) 池上さんって、そういう、時代の風に当たったってことは、すごく良かったと思いますね。

 

( 池上 ) そうだね。あ、忘れてた。「 ゲーテ読め 」と、常に水木先生 が仰ってたこと。とにかく。兵隊に行ったときにゲーテを持って行った人だから

 

池上遼一本 』p 37.

 

   『 ゲゲゲの鬼太郎 』などの作者、水木しげるのこと。池上遼一水木しげるのアシスタントをしていた。その頃のことは、本書でもよく語られているのですが、面白いのは、本書には、その水木しげるが、池上遼一がアシスタント時代のことを描いた『 漫画狂の詩 池上遼一= 』( 週刊少年サンデー 1975年6月20日臨時増刊号掲載分 ) が収録されていること。水木氏の池上氏への愛情が何気なく描かれていて、そのような日常を描き出すのに、水木氏の作風ほど秀逸なものはないなと改めて思わされます。

 


   正確には、ゲーテの著作ではなく、ゲーテとも交流のあったドイツの作家 ヨハン・ペーター・エッカーマンの『 ゲーテとの対話 』。そこから選んだ箴言で構成した水木の最後の著書が『 ゲゲゲのゲーテ双葉新書 2015年。そんなゲーテについても語った生前最後の水木のインタビューはこちら。 

 

◆   このような作画が当時のジャンプやサンデーの表紙や扉絵とかでもよくあったのが分かるのが、以下の高橋留美子への冒頭のインタビュー。

 

( インタビュアー ) 『 うる星やつら 』の連載開始時、『 男組 』もやっていましたよね。

 

( 高橋 ) 載っていました。『 男組 』の最期のところですね。その後の『 男大空 』の方が、なんか、ちょっと変な感じで面白かったかな。

 

( インタビュアー ) あれね! あのころ、池上さんに表紙をお願いすると、印刷したら原寸大になるような大きさで、流れの顔、アップで描かれていましたね。女の子が、こうやって本に頬を寄せるかもしれないからって ( 笑 )。

 

( 高橋 ) あ、でも、それ、ナイスですよ。寄せたくなるわ。『 男組 』は、女子高生に結構人気があったでしょ?

 

池上遼一本 』p 20.

 

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   『 池上遼一本 』の中でも、氏の遍歴を知る上で、おすすめなのが〈 池上遼一 講演録劇画家・池上遼一ができるまで 」〉です。池上遼一の原画展「 極 ( きわみ ) 池上遼一展 」( 2019年 7/1~9/5 ) が氏の故郷・福井県越前市で開催されている中で行われた ( 2019年8月10日 ) もの。本人が語っているだけあって、面白い上に、上手く纏まっています。詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、興味を持ってもらうために少し、紹介しておきましょう。

 

講演録は18の章立てになっています。

 

 

◆ 劇作家・池上遼一ができるまで

" まあ、人に限らず、地球上の生きとし生けるものは、何ていうのか、時代とか場所、親を選ぶことはできませんよね。ポコンと生まれてきたところが、その子にとっての世界であって現実なわけでね。当たり前のことなんですけど。この年になると、その偶然性というか、不思議さを、しみじみと感じることがあるんです。"

 

 

◆ 子供時代の楽しい思い出といえば

" 将来は自分も漫画家になりたいなんて、小学5、6年生のころには、もう考えてました。中学1年生のとき、父が病気で入退院を繰り返すようになり、実質、母子家庭みたいなものでした。姉二人に妹一人。高校へは行きたかったんですけども、子供ながら進学は無理だなあ、と職業コースに入って。当時はクラスの三分の一くらいは中卒で就職したもんです。だから別に、それ自体に気持ちが落ち込むことはなかったです。"

 

 

◆ 漫画家になれば家が建つ

" 少年雑誌の編集後記のところにね、漫画家になってヒット作を一本出せば風呂付の家が建ちますっていうのが書いてあったんですよ。さらに、学歴関係なしってね。それが唯一僕の希望だった。"

 

 

◆ 大阪の看板屋に就職

" とにかく、さいとう先生に絵をみてもらいたくてしょうがない。そのためには描かなきゃいけないと思って、看板屋さんに勤めながらね、休みは日曜1日しかなかったんですけど、休みの日と、仕事が終わって、みんながパチンコとか、酒を飲みにいったりとか、なんかそうしてる夜中にね、ミカン箱を机代わりにして描きました。夜、みんなが寝てるときは、毛布をかぶってね、明かりが外に漏れないようにして描いていた。"

 

 

◆ そして、第一回目の壁が

" 結局ね、漫画家になりたいと思って一生懸命描いても、食えない。雑誌に投稿するんだけど、なしのつぶて。もう、絶望的な気持ちになった。"

 

 

◆ これが最後の挑戦だと思い・・・・・・

" 当時は僕ね、小説っていうのは大藪春彦くらいしか読んでなかった。あと、山田風太郎とか。ああいうエンターテイメント色の濃いものしか読んでなかった。純文学は全然読んでなかったから、つげ先生の芸術性なんてまったく理解できなかった。で、隣にいた同僚がね、「 こんなんだったら、お前も描けるんじゃないの。お前の方が、上手いんじゃないないの 」なんて言われましてね、それもそうかなと思ってね。それで、これが最後の挑戦だと思って奮起し、描いて出したら、それがたまたま「 ガロ 」の新人賞に入選したんですよ。"

 

 

◆ 水木プロでの日々

" 先生の原稿、点描が多いですよね。ご存じの方もいらっしゃると思うんだけど、一番簡単なんですよ。誰でもやれる。要するに、ただペンに墨汁をつけて点々点々と写真を見ながら陰影を合わせていけばいいわけですね。それがね、僕にとっては地獄なんですよ。これはね、もう睡魔との戦い。もう寝ちゃうんですね。あるとき、先生が、「 君は寝てばかりいるなあ・・・・・・」って。「 池上氏は絵がうまいから、こっちのほうやってよ 」って、違うのを描かしていただけるようになったんです。"

 

 

◆ 暗いものやってるから頼むんだ

" その辺でね、僕が、それで少し自分の暗さを払拭できたかなと思ったときに、講談社から『 スパイダーマン 』の仕事が来るんですね。「 ガロ 」描いてるときに、つげ義春さんと出会ったことによって、文学にめざめてたんですよ。特に純文学。大阪時代なんて一切読んでなかった純文学を好きになっちゃって、読んでました。大江健三郎とか、開高健とかね。最終的には救いがないんですよ、暗い、突き放したような終わり方。それが好きで、世の中の現実ってこんなもんだろうって、努力したってダメなやつはダメなんだから、みたいな、ウソは描きたくない、そんな気持ちがあったんです。だから『 スパイダーマン 』の依頼が来たときに、僕は生意気に断ったんですよ。喫茶店でコーヒーを飲みながら、「 池上君、違うんだよ。これはね、池上君だから頼むんだよ。池上君が暗いものやってるから頼むんだ。スパイダーマンは悩めるヒーローなんだ。君が思ってるようなスーパーヒーローじゃない。」って言われて、「 ああそうなんですか 」って。それで、お引き受けしたんですね。"

 

 

◆ 小池先生の教えられたこと

" それまで、小池先生にはエンターテイメントの構成のやり方だとか、演出方法とか、見せ方とか、いろんなものを教えていただいた。小池先生っていうのはもともと、さいとう先生の『 ゴルゴ13 』の脚本を書いてらっしゃった人だからエンターテイメント性の高い劇画を熟知してらっしゃるんですね。最初の脚本、僕が初めて先生と組んだ時にはね、扉一考とかね、扉絵は、こういう絵、ここは見開きに、ここはクワッと叫ぶようにとか、いちいち書いてある。そうするとわかりやすいんです、新人でもね。慣れてくると、一切そういうのはナシになるんですけど、慣れるまでそうやって育ててくれました。"

 

 

◆ ラブコメという "壁"

" ・・・第三の壁。僕ら劇作家にとって想像もしなかった壁が現れた。高橋留美子先生。ラブコメなんです、ラブコメディー。"

 

" だからその頃の僕は『 I・餓男 』のときみたいに、痩せた体格、筋肉質な男というより、もっとムキムキのね、要するに時代が飽食の時代だから、いっぱい食ってるだろうと思って、ものすごくいい体格を描き始めてたんだけども、イマイチ人気が出ないそうするうち、さっき言った高橋留美子先生のラブコメ。若い男の子と女の子の軽い恋愛をからめたファンタジーなコメディーが、爆発的な人気を得るようになった。"

 

" でも、その経験から、時代が変化する中で、あまり若い才能に合わせて、年取った作家がそれを真似をしたりなんかしてもね、結局は、バカにされるだけだと痛感しました。"

 

 

◆ さらに、大きな壁が

" 次に、史村翔先生とのタッグでの『 サンクチュアリ 』。これはもう、僕の中では最高傑作だと思っています。売れ行きもすごくよかった。しかし、そこに第四の壁が現れたんですね。

 これが、大友克洋先生です。『 AKIRA 』って大作を引っ提げて現れたんです。フランスのコミック「 バンドテシネ 」の巨匠・メビウスのファンタジックな作風っていうんですかね、独特の世界観を持ってらっしゃった作家さんなんですが、そのメビウスの影響を受けたと思われる大友先生の作品、『 AKIRA 』の前の『 ショート・ピース 』などもそうなんだけど、僕なんかが描いてきた劇画の泥臭さと違って、知的なんですよ。"

 

" その、大友先生の影響を受けて、その後、多くの人が人気を獲得していく。完全にコミック界のベクトルが変わってきました。もう、劇画っていうのは隅っこのほうにあるっていう感じかな。やはり、時代の流れっていうんですかね、その頃、ハリウッドで『 ブレードランナー 』という映画があって、あれも近未来を舞台にした映画でしたね。バブル期で飽食の時代だったけど、なんとなく、そんな明るい未来を想像できない気配があったのかもしれないですね。"

 

 

◆ 今がもう、霧のようなものの中を

" それでまあ、現在に至ってるるんですけど、この仕事をやってる間はね、やっぱり常に壁は忍び寄ってくる。要するに、若いうちは今の空気を吸ってますからね、何が流行とか、何を求められているとか、別に意識しなくても自分の感性で描けるんですよ。僕みたいに長くやってると、だんだん若い人たちが何を考えてるかわかんなくなるんです。そうすると分析するんです。流行の本を読んだりとか。でも、分析しても、分析で終わっちゃう。うまくいかないんです。"

 

" 僕はもう75歳です。そんなのがね、20歳くらいの読者に相手にされるわけがないんです。"

 

" だから、僕なんかが面白いと思って描いても、読者が、なかなかついてこないっていうか、くらいついてこないというところがあってね、すごく今でも苦しんでるんだけど、それはもう霧のようなものですよ。"

 

 

◆ 小学校の先生、看板屋の大将

" 振り返ってみるとね、僕は、中卒でね、いろんな専門的な勉強は何もしてません。でも何とかこうしてね、生き延びていられるのはね、漫画の世界で、いろんな人との出会いがあったからなんです。その人達がさりげなくしゃべったひと言とか、書かれた文章の中の一節とか、それらを記憶に溜めて、自分の糧にしてきたような気がするんです。"

 

 

◆ 人生は屁のようなもの

" ・・・( 水木 ) 先生から教わったのは、先生がね、60歳の頃かな、『 幸福論 』っていうエッセイを書かれて、その中に、「 人生は屁のようなもの 」っていう言葉を見つけたんです。"

 

" 考えれば考えるほど、含蓄があるんですよね。何かこう、宇宙の永遠の時の流れの中、ほんの瞬間を人間は生かされてるわけですよね。人生は一瞬の匂いのようなものであって、だからこそ人間は真摯に生きなければいけないよっていうようなことを言ってるのかなあと、僕は解釈したんです。"

 

 

◆ 天下とっても二合半

" ・・・小池先生曰く、「 起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半 」。これは人間が生きる本当の基本というかね、欲を出さなければそれで人間は生きられるんだよ、ということらしいんです。"

 

" ところがね、あの先生はそう言いながら、『 子連れ狼 』が大ヒットして、すごくお金が入ると、秘書に運転させてロールスロイスを乗り回してましたけどね ( 笑 )。まあね、人間ってそういうもんですよね。僕なんか欲のかたまりですからね、そういう生き方はできませんけど、まあ、すばらしいじゃないですか。"

 

 

◆ 大衆は豚だ!

" その次が、雁屋哲先生です。この先生は、過激なんですね。「 大衆は豚だ! 」っていうんです。これは『 男組 』の中で神竜剛次っていうキャラがいるんだけど、彼はすごい権力を持った影の総理と言われる男の息子で、高校を、不良を使って支配していましてね。その抵抗しない無力な生徒達に向かって、「 大衆は豚だ 」って叫ぶんです。"

 

" あ、この間ね、ここの展示会をやるためにね、『 男組 』の原画の展示の件で、雁屋先生に、許可していただけますかってメールを送ったら、先生が喜んじゃって、「 どう使っていただいても結構。久しぶりだから飲もうよ 」って。それで二か月ほど前に一緒に食事をしたんですよ。で、今の話をしたら、「 いや、俺、今も変わっていないよ 」って。神竜の言うとおりなんだよって ( 笑 )。"

 

 

◆ 70歳過ぎたら、何が起こっても

" その後、何年か後に、同業者の漫画家の方が、70歳前に亡くなって、そのお通夜のときに工藤先生もみえられていて、ポツリと、「 70歳過ぎたら何が起こっても不思議じゃないよね 」とか言うんですよ。その顔見たら、涼しげな顔をしてるんですよ。なるほどなあと、やっぱり、『 信長 』を書いた人だなと。「 是非もなし 」って言葉をうまく書いた人だなと思って。"

 

 

◆ 200年は生きられないっす

" 何故かというと、『 サンクチュアリ 』は、内容がね、王道というか、建設的なんですね。ところが、『 HEAT - 灼熱 - 』の場合、主人公は "横道" なんです。俺はまっすぐじゃなくて横だよっていう。この考え方が、「 人間、200年は生きられないっすよ 」っていう、なんか冷めた言葉となって表現される。これでね、史村先生を見直したんです。先生は、上に上がる、そういう上昇志向だけの人かなあと思ってた。じゃないんだね。もう少し人生を客観的に見ていて、さっきの水木先生の話じゃないけど、「 人生は屁のようなもの 」みたいな、ああいう考えもできる、幅の広い方だなという認識をを抱いた、そういうことなんです。"

 

" で、最後になりますけど、これはね、僕がお会いした人ではありません。ドイツの方らしいんですけど、マルティン・ルター、ご存じですか? この人が残した言葉で、「 たとえ明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える 」。この言葉、これが僕の今の座右の銘なんです。素晴らしい言葉だなと思って、誰にでも当てはまると思います。「 たとえ明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える 」いいですね。未来ですよね、希望を捨てない。終わりです。"

 

 

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