〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アンジェイ・ズラウスキーの映画『 シルバーグローブ 』( 1989 ) を哲学的に考える

 

f:id:mythink:20201102133804j:plain

 

監督   アンジェイ:ズラウスキー  
公開   1989 年  
原作   イェジー・ズラウスキー  ( 『 月三部作 』)
製作国  ポーランド

 



 1章 『 シルバーグローブ 』の成り立ちと演出

 

映画『 シルバーグローブ 』は、アンジェイ・ズラウスキーの大叔父であった イェジー・ズラウスキー ( 1874~1915年 ) ( A ) が発表したSF小説『 月三部作 』の第一部『 Na srebrnym globie ( 銀の惑星で ) 』( 1903年 ) と第二部『 Zwycięzca ( 勝利者 ) 』( 1910年 ) を原作としています ( B )。もちろん映画『 シルバーグローブ 』のタイトルは、『 月三部作 』の第一部『 Na srebrnym globie ( 銀の惑星で ) 』から来ているという訳です。

 

ただし、この映画を見た人なら分かると思いますが、SF的なのは設定だけで中身は全く違う。これは原作に基づいた脚本を正確に表現していくような映画ではなく、俳優に振り切った演技をさせる事で "過剰性" を演出する演劇的映画 ( C ) なのですね。それこそがアンジェイ・ズラウスキーならではの演出方法であり、そこではSF的設定は俳優が演技する上での必要な枠組みでしかなくなっている。なので設定やストーリーを理解しようとすることに気を取られて、この映画の特異性を見失わないようにしたいですね。

 

とはいえ参考のため、ストーリーを要約しておきましょう。ある惑星に不時着した宇宙飛行士の内のピョートルとマルタから始まる子孫が、巨驚異的なスピードで数世代まで増えていき、宗教的とでもいうべき集団を形成する。宗教的というのは、彼らの父であったピョートルを殺しマルタを大いなる母とする父親殺しの神話をなぞる行動と、新たに到来した宇宙飛行士マレックを半人半鳥の民族シェルン (D ) との戦いのための救世主として崇めるという身振りから示される。そのマレックもシェルンとの戦いの後で、十字架に磔にされて仲間達に殺される・・・。

 



 2章 『 シルバーグローブ 』のメタ映画的視点

 

この映画の内容で特徴的なのは、ある惑星 ( 原作では月だけど映画では明言されていない ) に到着した宇宙飛行士たちが惑星での生活を小型カメラで記録する ( 原作ではヤン・コレツキーの手記 ) 事です。最初はマルタとピョートル ( 原作ではペドロ ) が、そして彼らからカメラを取り上げたイェジー ( 原作ではヤン・コレツキー ) が記録を続ける。それを小型ロケットで地球に届け、それを見たマレックがその惑星に仲間を探しに来るという流れになっている。

 

f:id:mythink:20201102134814j:plain

 

原作ではコレツキーの手記という形が、映画ではイェジーによるカメラでの記録という形に変わっているのですね。これだけだと現代風になっただけではと思うかもしれませんが、ここにアンジェイ・ズラウスキーは大きなひねりを加え、彼ならではの演出を行います。そのひねりとは、ストーリーの進行上必要なのかと思われかねないのですが、カメラに向かって俳優に哲学論と俳優論を語らせることによって "メタ映画的視点 a " ( 5~17. ) を映画の中に導入してしまう事です。

 

地球に思いを寄せ哲学を語るイェジー

f:id:mythink:20201102134841j:plain



地球に思いを寄せ哲学を語るイェジー

f:id:mythink:20201102134903j:plain



突然語られる俳優論・・・

f:id:mythink:20201102134925j:plain

 

これは非常に興味深い事です。というのも、この映画が撮影中止に追い込まれた旨のナレーションが冒頭から入り、ラストでもズラウスキー本人が出演し撮影中の1977年にポーランド文化省から撮影中止に追い込まれた事が語られるという事実に基づいた "メタ映画的視点 b " ( 18~23. ) がやはり導入されているからです。

 

この ab の双方のメタ映画的視点の存在をどう理解すべきでしょう。少なくとも、撮影時の a の時点では 後年の b のきっかけとなる撮影中止を予期出来るはずもなかったので a b の並列は偶然的だと考えるべきでなのでしょうか。いや、そもそも唐突な a のメタ映画的視点がどうして必要だったのかを考えてみると、それらが偶然ではなく、なるべくしてなった結果だという事が分かるはずです。

 



 3章 メタ映画的視点の出現する背景

 

一言でメタ映画といっても、それが映画の中の映画なのか、監督の自伝的要素が込められたという意味での自己言及的映画なのか、あるいはそれらが混ざった映画なのか、と様々な見方が出来ます。ここで僕の関心を惹くのは、監督の自伝的要素の強い自己言及的映画なのですが、自伝的要素と言うと聞こえは良くても大概は夫婦関係に問題があるパターンが多い ( 苦笑 )。

 

自己言及的映画というと、ジャン・リュック・ゴダール の『 軽蔑 ( 1963 ) 』を挙げておきましょう。この映画は、女優アンナ・カリーナと結婚したばかりのゴダールが彼女との上手くいかない当時の状況 ( 1965年に二人は離婚 ) を反映させています。こういうエピソードは作品の裏側にあるものとして語られたりしますが、それは作品の創造過程の余白に書きとめられる類のものではなく、それどころか創造性の不安定な起源であるとさえ言えるのです。

 

夫婦同士の揉め事が続いていても、仕事を休む訳にはいかないし、子育てを止める訳にもいかない。解消する事の不可能な不安定さが行き場を失くし、くすぶり続ける。もう既に夫婦の絆など壊れている事は分かりきっているのに、その崩壊の現場に居続けることの苦痛。そして自分が否定されていると感じずにはいられない苦痛・・・。

 

そのような不安定さは、現実の夫婦関係においては解消できない困難でも、創造的的活動においては、驚くべき集中力の源泉になる事がある。自分の人生の一部が既に壊れているのに、逃げることが出来ず、それと背中合わせになった時、人は自分を創造的活動の方に押し出す事が出来る、まるでその不安定さから力を借りて来ているかのように・・・。

 

それが『 軽蔑 ( 1963 ) 』の時のゴダールであり、『 シルバーグローブ 』の脚本執筆時に妻マウゴジャータ・ブラウネックと離婚したアンジェイ・ズラウスキーだった。おそらくこの時、ズラウスキーは映画製作を通じて意識的に自分の映画監督としてのアイデンティティーを強化する選択をした事は容易に推測出来ます。映画の中で唐突に語られる哲学論、俳優論、そして俳優達によるSF映画どころか、暗黒舞踏的ともいえる振り切ったパフォーマンス ( E )・・・およそこれらはズラウスキーの強力な主導権の痕跡であり、自己言及的なメタ映画であるとも解釈出来るのです。

 

そうズラウスキーはこの映画を通じて夫婦関係において壊れた自分のアイデンティティーを回復しようとしたのであり、だからこそ1977年にポーランド文化省によって制作中止に追い込まれた後でもこの映画に執着し、1989年の公開に漕ぎ着けた。自分のアイデンティティーを喪失する訳にはいかないという事で。何よりもこの映画のラストでのズラウスキー自身の言葉 "私はアンジェイ・ズラウスキー。『 シルバーグローブ 』の監督だ" がその事を示していると言えるでしょう。

 

f:id:mythink:20201102135021j:plain

 

f:id:mythink:20201102135041j:plain

 

 

( A )

『 シルバーグローブ 』は難解な映画だと言われますが、大まかなあらすじを理解する上で一番いいのは、ウィキペディア イェジイ・ジュワフスキ のページ、特に小説 ( 念のためですが映画とは細部で違いがありますので ) の項目 ( 月三部作 ) を参照する事でしょう。それを念頭において映画を見れば、原作との差異を認識しながら整理をしていく事が出来ると思います ( 日本ではマイナーな作家なので再編集されて内容が大幅に変更される事はほとんどないでしょうから )。それと共に、若い頃にベルン大学でスピノザの論文で博士号を取り、ニーチェショーペンハウエルポーランド語訳を出したり、『 月三部作 』でスタニスワフ・レ ( F ) に影響を与えるなど、イェジイ・ズラウスキーが知的教養のある人物であった事がわかりますね。

 

(B )

ほとんど気付かれる事がないが、イェジイ・ズラウスキーと同時代を過ごした作家が同じくポーランド出身のイギリスの作家、ジョゼフ・コンラッド ( 1857~1924年1884年イギリスに帰化 ) です。16才でポーランドを出て船乗りとなった彼の作品は、帝国主義時代の雰囲気を漂わす冒険文学 ( そこに東欧的なものはほとんど感じられない ) ですが、航海先の現地民族の中でただ一人の別民族である男の英雄としての一生を描くという紋切型モチーフ ( 『 闇の奥 』1899年、『 ロード・ジム 』1900年、など ) はZwycięzca ( 勝利者 ) 』( 1910年 ) のマレクの一生と共通していて興味深い。コンラッドについては以下の記事を参照。

 

 

(C )

過剰性の演出という事であれば、 アンジェイ・ズラウスキーの『 ポゼッション 』におけるイザベル・アジャーニサム・ニールの狂気の演技を思い浮かべれば十分でしょう。この過剰性こそが彼の映画の特徴であり、そのために俳優を追い込んで演技させることも彼は厭わない。イザベル・アジャーニはあるインタビューで "監督の要求は暴力的で、あの作品でやったようなことはもう出来ない" と言っている。

 『 シルバーグローブ 』でマレク役のアンジェイ・セヴェリンも "監督は気難しく要求も厳しかった。この撮影以降はどんな相手とも仕事が出来ると思ったくらいだ" と言っている。

 そしてズラウスキーの晩年の制作助手であり、『 シルバーグローブ 』のデジタルリマスター版の作業に関わったダニエル・バードも『 映画秘宝2018年7月号 』のインタビューで "映画監督は、まるで攻撃的な生物とかテロリストのような生き物であり、自分で作った爆弾を爆発させる存在なんだ。観客に刺激を与えるのが映画監督の仕事なんだ " というズラウスキーの言葉を語っている。

 

 ( D )

シェルン・・・異形の怪物を何のためらいもなくあっさり登場させる所はズラウスキーらしい。これを見て同じくズラウスキーの 『 ポゼッション 』でイザベル・アジャーニとセックスする怪物を思い出すのは僕だけじゃないでしょう。『 シルバーグローブ 』でもシェルンと女性がセックスするシーン ( 過激なものではない ) がちょっとだけありますからね。

f:id:mythink:20201102135228j:plain


(E )

マレクを救世主と崇め、彼を取り囲む白塗りの人の群れ・・・これはもう映画というより舞台を見てるような気分になるシーンです。 

f:id:mythink:20201102135259j:plain



そしてここで突然の俳優の自己言及的演技・・・ぶっ飛んでますね。

f:id:mythink:20201102135315j:plain

 

( F )

スタニスワフ・レムといえば、やはりSFの古典『 ソラリスの陽のもとに 』でしょう。それを映画化したアンドレイ・タルコフスキーの『 惑星ソラリス 』については以下の記事を参照。