〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Goodbye the clueless, cruel, crawful, world toward to the transworld.

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 9 〉

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)からの続き。



 9.   複数性としての幽霊 ①

 


a.   精神は移行の運動という全体性において自らの真理を知る、つまり精神は知となる。しかし、移行に抵抗する個物が自らの中に収縮する時、精神は知に至らず、個物から離れる事が出来ず、個物の影として幽霊となる。最も個物的である人間という存在の最も人間的なものの表象が幽霊なのです。精神の側から見ると、幽霊とは 知へと至る事の出来ない精神 であり、人間が自らの存在をひとつの知としては理解出来ないものなのです。

 

b.   ヘーゲルの『 精神現象学 』が英語版において、ゲルマン語系の ghost ではなく、ラテン語系の spirit が採用されているのは、精神が知的なものという意味での一般性として了解されている事以外の何物でもないでしょう。しかし、もしその精神を個別的なものとしての ghost とするならば何が見えてくるのでしょう。ただし、既に述べたように、Ghost は個別的なものでもあるので、一般性としての精神が展開されるという現象性を意味するPhenomenology ではなく、『 Philosophy of Ghost ( 幽霊の哲学 ) 』という仮タイトルを付けた場合に何が見えてくるのだろうかという事です。

 

c.   これを別の言い方をするならば『個物の哲学』という事が出来るでしょう。個物は自らにこだわり、自らの中に収縮する。これに対して哲学はひとつの知として個物の外へ出て行こうとする。知は移行を積み重ね、自らがたんなる個物ではなく、絶対知である事を知る。つまり、哲学は人間という個物の中に収まりきれるものではなく、知の移行の運動として "人間的なものを越え出る非人間的なもの" なのです( これが反-人間的なものや野蛮なものではない事は既にヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)で述べました )。

 

d.   ではこの相反する組み合わせの哲学的言説をどう考えるべきでしょう。個別から一般性へのヘーゲル弁証法的移行でなければ、個別それ自体についての存在論的言説だというのでしょうか。しかし、 ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)で述べたように、ハイデガー存在論的言説も一般性から個別への崩壊である限り、一般性についての別ヴァージョンに過ぎません。

 

e.   そうすると考えられるのは、個物が自らを一般性との関係性において掴むのではなく、自らをひとつの "形象" として、つまり "一者" として掴む事 です。それこそ人間的なものの形象に固執する幽霊的な身振りだといえるでしょう。

 

f.  人間が自らの存在を知として理解するのを止める時、そこにあるのは一般性の残滓にしがみつく幽霊としての人間です。幽霊は消えてしまう事に抵抗し、何度でも回帰して現れ、あたかもずっとそこにいるかにように同じ〈 私 〉として振舞う。同じ〈 私 〉がそこにいて、しかも 一人であるかのように振舞う。肉体が滅びても、それは続く。

 

g.   この終わる事のない〈 私 〉の振る舞いこそが幽霊としての人間の本質なのです。幽霊は自らの居場所である〈 個物 〉を全力で支え、維持しようとする。ここにおいて幽霊は〈 個物 〉を "一者" として支えるべく複数的な可能性となる。複数的なものが同時に同じ場所にあるという事ではなく、違う時間、違う場所に散在するという意味での複数可能性です。この複数性を束ねる一者において作用しているのが離接的綜合の論理である訳です。

 

h.   ここでの重要なポイントは、複数性が最初からあるのではなく、〈 人間的形象 〉が常にバラバラに分割され、引き離され、散在している事の結果として生じるという事 です。もっと言うならば、分割されるのではなく、引きちぎられ、奪われ、食べられるのです。人間が集団である限り、誰かと共にいる限り、他者を見る視線、他者についてしゃべる事、他者に何かする事などの日常的なささいな事から既に、他者の存在を引き裂く簒奪行為が始まっている。ここから倫理的なものとしての人間的形象、つまり他者を支える〈 幽霊 〉が動き出す。

 

i.   この人間的形象である他者を最大限に高める行為のひとつが喪に服す事です。フロイトからデリダを経由する〈 喪 〉についての概念の作業は、他者の体内化の失敗、あるいは体内化に抵抗する他者を示している。しかし、それは果たして最初から他者であったのでしょうか。我々に対して〈 他者というもの 〉は最初から無条件に完成されてはいないのではないでしょうか。私達が持つ相手の〈 断片的表象 〉を相手の〈 全ての人間的形象 〉として形成する事の不可能性こそが他者の体内化の失敗の真実ではないでしょうか。

 

j.   そうすると他者という人間的形象とは何でしょう。 人間的なものを全て網羅する形象が不可能であるならば、他者とは何でしょう。それは我々の中にある相手の断片が帰っていこうとする〈 宛先 〉としての〈 一者だと考えられないでしょうか。 その相手が実際に生きていようが、いまいが、断片が帰っていこうとする他者は実在の人物とはおそらく違う。実在の人物がいなければ、他者はありえないが、それでも他者は実在の人物とは違う。

 

k.   バラバラに散在する相手の断片的表象が帰っていこうとする場所がもし実在の人物のみであるならば、実在の人物が亡くなると、我々の中の断片的表象も帰るべき場所をなくして消滅してしまうかもしれない。しかし、実在した人物が既に亡くなった後でも、他者の断片的表象が一者の元に帰っていこうとする動きがあるという事は、幽霊的なものとしての他者が消滅する事なく彷徨っている という事なのです〈 続く 〉。

 

 

 

 続きは以下の記事を参照。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 8 〉

 

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  ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(7)からの続き



 8.   弁証法存在論 

 

a.   自分に先行するものとしての精神を否定して自らの存在に固執する人間とは何でしょう。ヘーゲルは『 精神現象学 』の 「理性」において現実に対する個人の二つの態度を挙げている。それを参考にして現実への対応を考えてみます。

 

b.   "ひとつは自分が現実に適応する事" です。これは自分を捨てて、現実に歩み寄るという単純な事ではありません。現実の一般的なものの視点から、自分を個別的なものではなく一般的な対象として扱う事に向かうのです。そのときには自分に可能な事・不可能な事、足りているもの・足りていないもの、などの区別が発生し、個人の行為化のための準備的状況 が発生する。

 

c.   "もうひとつは現実を自分の為に適応させる事" です。もちろんこれは全ての現実を変えるという物理的に不可能な試みの事ではありません。選び出した現実の対象に対抗させるかのように、自分の存在を特殊な現実として一般性のなかに組み込もうとする心理的試み です。

 

d.   では自らの存在に固執する人間の立場はどちらなのか? 言うまでもなく c. の後者です。ふたつの対場は見かけほど対等ではなく、"否定の力" が単純に働く後者こそ、人間的なものの力の源泉になっている。しかしこれは厄介な事でもある。なぜなら、自分の存在を一般的なものにしようとしているのに、目の前にある現実が自分の障害なので都合のいいように心理的に適合させる事は、精神の運動の要である移行に逆らい、自分は行動しない という事を意味するからです。

 

e.   移行抜きで無媒介に自分という個別の存在を一般的存在にしようとする この不可能な心理的試みは、人間的なものの内奥に、病理的な核が一般的なものの代償として備え付けられている事 を意味する。現実的には行動していなのに何かをしたつもりになっているこの心理的思い込みは行動の抑圧といえます。この行動化を阻むものこそ "存在という根本的なトラウマ" なのです。

 

f.   逆説的ですが、行動化こそ、存在というトラウマを脅かし、人間を不安定な状況に陥れるものです。なぜなら、存在する事こそ、人間に対して最も根本的で 原初になされた行動 という意味での移行の産物だから、自分以外の行動は自分を脅かすものとして抑圧しなければならないのです。自らに固執する人間の立場においては、個別から一般性への移行の為の行為化は存在という原初の移行によって抑圧されてしまう 訳です。

 

g.   では逆に、その存在という原初的移行は一般から個別への移行であるのでしょうか。 個別が自らを高め一般性へ移行する事は、物が精神へと至るという絶対知の哲学的意義を示しているが、一般性が再び個別へと戻る事は果たして精神の移行といえるのでしょうか。 実はそこでは精神の移行とは別の事が起きていると考えられるのです。

 

h.   人間の存在自体 ( 存在者 ) は個別的なものであるが、その人間を存在させる存在化の作用自体は一般的なものなのです。仮に、この存在論の巧妙さを無視して、一般的なものの正体が個物の現実から遡及的に反照された理念に過ぎないというマルクス的な弁証法的転倒を主張してしまうと、大切なポイントを見落とす事になります。

 

i.   つまり、個別から一般性に向かう精神の運動は、最初から対象物という物が自らを自己として認識していく過程であるという概念の主体的運動なのですが、一般から個別へと逆移行する存在論においては最初に一般性として把捉しておくべき対象物がない のです。この事が存在論を分かりにくくしている要因となっている訳です。

 

j.   存在論においては、一般的な対象は不明瞭だが個物の位相において初めて人間という対象が現れます。それはハイデガーが "個物における現れ ( 存在者 )" を一般性の次元で捕らえなおそうとして存在の概念を練り上げた事で示されている。この一般性の次元を考察する事によって、現れを何かの現象ではなく、"現れ自体という出来事" として考える事が可能になる。だから存在とは存在する何かの事ではなく、その何かをそこに存在させる存在化の作用あるいは出来事という一般性の事である のは言うまでもないでしょう。

 

k.   しかし、存在論において一般的なものとしての対象がないとはどういう事なのでしょう。 正確に言うなら、対象物のない一般性とは何か という事です。この点において存在論弁証法的移行とは違う のです。精神の弁証法的移行においては予め与えられていた物が究極的には自己であると主体的に理解される。

 

l.   それに対して、 存在論においては、なぜ自己であらねばならないのか、つまり、自己であると強制されている事こそが問題になる  ( *1 )。強制するとは、人間を存在させるという事( たとえ無でありたいと望んでも、残酷なことにそれはかなえられない )であり、人間を存在させるものとは何であるのかという事でもある。それこそが、存在論という視点からの一般性についての問題なのです。

 

m.   そして、おそらく存在論の一般性に対象がないのは、それが対象を持たないからではなく、まさに 一般的なものの内部についての問題である からです。つまり、一般性の次元で何かが起こった という事なのです。その結果、人間が存在する。

 

n.   この一般性から個物への移行は主体的なものではありません。それは一般性へと後戻りする事の出来ない偶然的事故、つまり、一般的次元の均衡が崩れた結果という意味での存在論的崩壊といえるもの です。初めから存在する何かが壊れるのではなく、一般的なものそれ自体が壊れる事によって存在という出来事が可能になるという事です。

 

o.  では対象物ではない一般的次元とは何か? これこそハイデガーが取り組みながらも未完のまま残した問題、つまり、時間( "時間と存在" )です。ただし、それは一日が二十四時間であるなどという個別的な時間ではなく、その個別的時間が可能になる永遠という "内在平面" の事です。

 

p.   この一般性である時間は、自らの時間の流れにより、一般的なものの変化のない持続が自らの同一性である事を否定する。つまり一般的なものでさえ、自らを持続できずに崩壊するという過程を保持しているのです。そして 存在は一般的なものの崩壊の過程において発生するもの なのです。個別に存在する ( 時間を持つ ) とは一般性 ( 時間性あるいは無時間性 ) において崩壊する事なのであり、これこそハイデガーが行き詰った問題であると言えるでしょう。

 

q.   弁証法の一般性に時間を導入する事によって存在論は可能になる。この意味で弁証法存在論もやはり、一般性についての問題であるのですが、個別的なものについての問題はまだ取り残されているのです〈 続く 〉。

 

 

( *1 )

ハイデガー的に言うなら、被投的存在という存在者の受動者的側面の事。

 

 

 

 次 ( 以下 ) の記事に続く。

 



▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(7)

 

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   ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)からの続き



 7.   人間的なものについて

 

a.   人間が〈 精神の過程 〉において発生したものに過ぎないのであれば、人間的なものとはいかなる意味を持つのでしょう。起源の分からない意識の中で、自らを人間であると漠然と思い込み、それ以外の物であるとは思わない生き物とは何か? おそらくはそれこそが、ここで問題になる人間的なものについての、いかなる規定よりも根本的な規定であるでしょう。つまり、誰しも自らを人間ではないと思わないという事 です。

 

b.   それは人間的なものについての積極的な規定があるのではない事を示しています。まず、その根本概念からして人間的なものそれ自体を普遍的に規定する事は不可能である事 を言っておく必要があるでしょう。それは規定される事によって成立するのではなく、ある状況下( 我々の存在を脅かすものが強力である状況 )において "偶然に出現したもの" です。その偶然としての我々の存在を維持する事によって様々な状況に抵抗する事こそが人間的なものの本質であると言えるのです。

 

c.   それは自らの存在をこの場から遠く ( 究極的に言うなら、それは "死" )に追放するような状況を否定する事によってひとつの力を有する事です。そのような状況とは、移行する精神の運動であり、現実の生活における危機( 政治、経済、環境、戦争、犯罪 )です。我々はその状況を何の媒介なしに直接的に否定するのではなく、我々自身の存在を媒介として、自らの存在を追放するであろう移行としての状況を否定するのです。

 

d.   "移行の否定を本質とする人間的なもの" 肉体の問題においても精神の移行を引き留める。この肉体こそが精神の運動に対抗するかのように強力な重力を発して距離を取ろうとする。ある意味では精神よりも肉体の存在こそが大いなる謎とも言えるでしょう。

 

e.   質量を有するこの塊が、世界の中で自らの存在を引き受けようとする時、移行する精神の運動の全体性とは別に、自らに留まろうとする個別の意志が、いやもっと率直に言うなら、かすかな "狂気" が動き出す。それは肉体が自らの存在をどう受け止めるべきか分からず、自らの中でひたすら痙攣しながら精神を自らの方に手繰り寄せ、我が物とするのです。

 

f.   想像してみるといいかもしれません。〈 肉体 〉という言葉でさえ、私達の事を指し示す利便的な表現に過ぎない。この言葉を抹消した時、その下に現れる現実としてのこの〈 物 〉を直感するならば、言葉の支えを途中で失う事によって人間の精神は現実の圧力に耐え切れず、いともたやすく崩壊するでしょう。この意味で私達の肉体とはひとつの〈 他者 〉なのです。驚くべき事に、精神はこの "他者において" 直接的統一をなす為に自らを見出すのです。

 

g.   肉体において精神は意識となり、自らを対象として扱い、自己を産み出す。精神の現象は、この肉体なしでは精神は先に進めないという意味で、肉体を資本とした論理であるとも言えます。人間が自らを確信するのは、意識という精神の側においてであるのですが、肉体は我々であるところの精神にとっての他者であり、その存在は謎であり、不安の元でもあります。自らの肉体が他者であるからこそ意識は自らを確信する際に自らの "位置取り" に苦労する のです。

 

h.   そうすると、デカルトのコギトは今までとは違う視点で捉えられるようになるでしょう。哲学的にも精神分析的にも詳細に論じられてきたコギトですが、それは自らの存在の確信の表明ではなく、"意識の自らの位置取りの困難さの表明" であると言える。つまり自らの意識の位置を自らの思考と紐付ける事により、何とか確保しようとする試みなのです。意識は自らが何者であるのか、自分がどこにいるのか知らない。ただこの肉体を経験を通して自分のものであると信じ込む事しか出来ないという意味で、意識それ自体が最も無意識的なもの なのです。

 

i.   この意識の地位の曖昧さは、それが人間的なものと非人間的なものの境界線上にある事に起因します。非人間的なものである精神の移行において意識は発生するが、肉体という強力な他者が意識を自らの元に引き留める為に、疎外関係を自らの運動の糧とする精神の移行それ自体が肉体において中断され疎外されるという "疎外" が発生している。ここでの出来事は、人間的なものによる精神の否定 なのです〈 続く 〉。

 

 

 次回 ( 以下 ) の記事に続く。 

 



▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 6 〉

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊  ― 幽霊の哲学  (5)からの続き



 6.   非人間的なものという哲学的真理

 

a.  精神の運動の結末としての絶対知の究極的結論は、ヘーゲルの標準的理解とは対極であるように思えますが、最初の出発点において自己疎外された物として存在するという形式こそが既に自己と等しかったのだ と理解する事です。自己から離れ外化された対象として存在するという否定的な形式こそ精神が自己を実現する為の最も基本的な手段であったという訳です。自己疎外された対象は人間的視点からすると克服すべき欠点であるように思えますが、"非人間的な精神" の視点からはそれこそが精神が自己を実現する為の基本的な第一歩だった のです。

 

b.  そうすると人間とは精神の運動からすると一体何であるのでしょう。

ヘーゲルにおける精神と幽霊 ― 幽霊の哲学 ー (2)』においても既に述べましたが、恐るべき事に、人間とは非人間的な精神の運動過程の産物に過ぎない のです。そしてへーゲルから引き出されるこの重大な哲学的帰結を継承したのはハイデガーです。ハイデガーヘーゲルの読解により、この恐るべき非人間的な哲学的真理を理解し、そこに到達した。ある意味では彼を批判するアドルノ以上にヘーゲルを哲学的に理解していたといえます ( *1 )。

 

c.   "非人間的なものという哲学的真理"、これを理解しなければハイデガーの政治への加担は説明出来ないでしょう。ナチスの政治運動を説明する試みは幾つもなされているが、ではなぜ哲学者であるハイデガーが政治活動に関わったのかを説明する効果的試みはほとんど見られない ( *2 )。 革命への情熱? ドイツ的なものへの過度の期待? 確かにそうかもしれません。しかし、それよりもありうるのは〈 政治的なもの 〉それ自体をハイデガーが哲学的真理において、その意味を理解したからではないでしょうか。

 

d.   つまり非人間的なものとは人間的なものに対立する野蛮なものや反人間的なものという意味ではなく、人間的なものに先行しそれを規定する何物かであるヘーゲルで言う所の精神という事であり、まさしく "政治" こそ人間的なものを規定する可能性がある ( *3 ) という意味で、ハイデガーの情熱の対象( ナチスから離反するまでの一時的なものではあったが ) になったのではないでしょうか。この場合、ハイデガーにおいて、人間的なものに先行し、人間を規定するものの第一歩が "存在" ある事は言うまでもありませんね。このような 政治における隠れた哲学的規定性 こそ、ラクー=ラバルトが言うところの、ハイデガーの "暗号化された政治的教説" というべきものなのです。

 

e.   実際にハイデガーは人間的なものについて批判をしているが(『 ヒューマニズム書簡 』)、これは自らの存在概念の特別性を際立たせる為の作業だと決め付けないようにしましょう。何故、人間的なものという概念を持ち出さなくてはならなかったのかという点を見過ごすべきではないのです。"非人間的な哲学的真理"、つまり人間的なものを越える非人間的なものに気付いた時( おそらくこれは "転回" 以前に存在の概念を見出した時から彼は気付いていた )から、哲学的真理の理解の躓きである "人間的なものの概念" を脱構築する必要性を感じていた と考えるべきです ( *4 )。さらに言うならば、ヘーゲルハイデガーにおいては哲学それ自体が人間的なものに仕える道具ではなく、非人間的なものについての学の総体であるという意味での人間的なものから独立した〈 出来事 〉になっているとさえいえるのです。

 

 

( *1 )

a.   アドルノの哲学理論書である『 否定弁証法 』を読めば分かるが、彼の思考には内在的な力、つまり自らの思考を展開していく哲学的力量は感じられない ( 作品や各章のタイトル付けのセンスはあるので目は惹かれるけど )。妥協なき弁証法の徹底化という考え方は、逆に言うと、元のヘーゲル弁証法を低く位置づけてしまうという裏目の結果に陥る危険性もある のです ( ヘーゲル弁証法は乗り越えられるという錯覚 )。結局の所、彼は教養があるが故に、常に何かを、あるいは誰かを引き合いに出す事によって話を進めるというタイプであり、哲学者であるというよりは、やはり洞察力のある社会批判の理論家という事でしょう。

 

b.   そのことについては、フィリップ・ラクー=ラバルトも 『 ハイデガー 詩の政治 』において、次のように言っている。 

 

アドルノは、ヘーゲルに対する執拗な、しかし、失墜をもたらしかねないある種の忠実さによって ( まさしくそこに、『 否定弁証法 』の賭金のすべてがあるのだが )、あらゆる手段を尽くして、たとえその弁証法が宥和なき弁証法であったとしても、ヘーゲル弁証法ヘルダーリンとの類縁関係を打ちたてようとする ー これに対しハイデガーは、少なくとも彼の書いたものにおいては、要するに、アドルノに比べて用心深かったのである

 

フィリップ・ラクー=ラバルトハイデガー 詩の政治 』p.122~123  藤原書店

 

( *2 )

そのような試みの難しさについてラバルトは言う。 

 

言い換えれば、ハイデガーの政治的教説は完全に暗号化されているのである。つまり、それはいわゆる政治的教説ではなく、またそれを聴き取るためには、政治的なものの彼方へと  ーあるいはむしろ手前へとー  我々は 一歩踏み越えなければならないのだが、この政治的教説は、政治的なものを、それ自身としては少しも政治的ではない自らの本質に向かって踏み越えるようにと促す。

 

前掲書 p.206

 

( *3 )

これについては、ハイデガーの〈 存在 〉概念が人間に及ぼす作用について考えればよいでしょう。ハイデガーにおいては〈 存在 〉は外部から人間を〈 存在者 〉たらしめる強力な原理以外の何物でもない。要するに、彼は "人間を外部から根本的に規定するもの" という考え方に固執し過ぎていたのです。彼の考えが正しいとしても、それは同時に彼の欲望 ( 哲学的名声など ) を刺激するものであり、存在原理を人間を規定する政治に接続出来るもの として短絡させる程までの昂揚原理であった訳です。

 

( *4 )

その脱構築が成功したかどうかは検討する必要があるでしょう。おそらくデリダなら成功はしていないと言うでしょうけど。

 

 

  次回 ( 以下 ) の記事に続く。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(5)

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(4)からの続き



 5.  知としての精神

 

a.   ヘーゲルにおいては、精神は自らを自己の元ではなく他のものにおいて他在するという形で自己を回復する。しかし、ここからが大切なのですが、自己を回復するといっても、それは通常思われているように他在を廃棄する事ではありません。つまり通常の標準的理解とは違い、自己は他在において疎外されたままなのです。では自己を回復するとはどういう事なのか。そのためにはヘーゲルの言う〈 精神 〉が何 "である" のかに注意する必要があります。

 

b.   といえ "である" という表現は精神の本質を示すのにふさわしくないでしょう。というのも精神とはひとつの実在ではないし、ハイデガー的な存在でもないからです( 精神が自らを定立する為に存在という形式を利用する事はあるにしても )。端的に言うなら、ヘーゲルの言う精神とは知であるが、その知はそれ自身においては実在、あるいは存在ではないのです。では知とは何か。最も重要なポイントは、ヘーゲルが言いたいのは、何らかの対象について知るという意味での知ではなく、"知という形態" が現実に出現している という事なのです。

 

c.   それはある対象がその反対物から見られている限りは、当然、相互に排斥しあうという否定的関係ですが、知の立場からするとその否定的関係自体は知にとって "知られるため" に出現した基本的関係 ( この時点でこの関係性は既に否定的なものではなくなっている ) 以外の何物でもないという事です。この意味で否定的関係や自己疎外は知を無視したそれらだけの元の関係性においては廃棄されるが、その関係性という形式自体は知にとって知られるために有効なものとして知の中で保持される のです。それが先程述べた自己は他在において疎外されたままなのであるという事の意味なのですね。

 

d.   ではここでの知の動き方は どのようなものなのでしょう。それは主体として自ら何かを掴みにいくという単純な能動的行為ではありません。対立する事物同士の反照規定という関係性は、それらの事物の中だけに属するように見えるが、その反照規定という概念に忠実であれば、それはひとつの〈 抽象 〉になってそれらの事物から脱して新たな運動を開始する

 

e.   つまり、対立する事物同士の関係の結果に過ぎなかったものが、その関係性が抽象化されそれ自体( 反照規定 )として独立すると、今度はその関係性がその名の通り自らに忠実に運動を開始する。事物という対象同士の結果に過ぎなかったものが、今度は自らを対象として動き出す。

 

f.   そうするとどうなるのでしょう。対立という関係性が事物同士の中に限定されるのものではなくなり、それは別の次元つまり知との関係性におけるものへ移行する のです。さらに言うならば、それは反照規定の効力が事物の対立関係をひとつの極 ( ひとつの内部抗争 ) とした後、もう一方の極として知の次元を呼び起こし、引き寄せてくる。これこそ何かを知るのではなく、"知られるようになるという事柄の出現" としてのヘーゲルが言うところの "" なのです。これは精神分析ジャック・ラカン的な意味での "現実界としての知" であるとも言う事が出来るでしょう。

 

g.   以上の事は哲学的説明としては段階的な運動を示しているように見えますが、それはあくまで説明のためであり、理解としては一気に理解される必要があります。つまり、絶対知への移行は常に既に完了しているのであり、究極的には "自己疎外された対象としての物がそれ自体でひとつの知である" と理解されねばならない のです。それこそが絶対知なのです。ヘーゲルは精神の運動の過程を歴史の発展段階と重ね合わせて哲学的叙述を行いましたが、それも絶対知を一気に理解しているからこそ出来る応用技なのです。少し考えれば分かりますが、絶対知を理解せずに叙述されたヘーゲル的歴史の発展段階には何の意味もない。最初に絶対知の哲学的理解が一気に完了されてなければ、発展段階の最後が絶対知に至ることの根拠はどこにも無いのです、残念ながら ( 言うまでもなく、これはヘーゲルに対する批判ではなく、ヘーゲルを批判する人の理解力に対する批判なのですが )。〈 続く 〉。

 

 

 次回 ( 以下 ) の記事に続く。 

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(4)

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(3)からの続き



 4.   移行する事が出来ない精神の正体としての幽霊

 

a.   既に述べたように自己疎外された対象において開始される精神の運動は、その過程において外部から人間を形成するという意味で "非人間的なもの" です。自分に執着する人間は〈 物 〉という対象を見て、それが自己疎外されたものであるが故に取り戻すべき自分であるとは認識出来ない。自分は自分の中に常に定在すると無意識的に思い込み誤解しているので自分の由来を外部に求める事が出来ない という訳です。

 

b.   それに対し非人間的なものとしての〈 精神 〉は、〈 物 〉という対象を自らとの外見的な関係性を、無関係ではなく "非関係という一定の関係性" がある事を認識する。つまり、対象が区別され疎外された自分である事を反照的に理解し自己を回復すべく主体として動き出す。こうなると主体の保有権は強力な移行を展開する精神の運動が握る事になります。

 

c.   いつまでも自分の中に定在し続けようとする人間は、自分の背後で展開される精神の運動から目を背ける事しか出来ない。周囲で何が起きようが自分は自分だという訳です。この人間の在り方は、自らの由来に気付かず、現在の自分の状態が昔からこうであり未来もこうであろうと誤解する〈 意識の無意識的形態 〉なのです。さらに言うなら 意識というものがある事こそが無意識的であるという事実、つまり、"意識の無意識性" に没入している自分から永遠に抜け出せず自らの外に立つ事が出来ないという事 であるのです。

 

d.   しかし、そのような人間的身振りは批判されるべきものなのでしょうか。 そのような人間は精神の運動において廃棄される契機にすぎないのでしょうか。そのような人間は精神の運動を邪魔しているのいえるでしょうか。

 

e.   これに答えるためには精神が標的にする対象の性質がどのようなものであるのか考える必要があります。つまり精神の対象がヘーゲルのような哲学的叙述に適合する国家や歴史などの崇高な対象ではなく、資本主義やイデオロギー、貧困や暴力、という対象であればどうだろうかという事です。

 

f.   そのような対象を前にして、精神はそこに回復すべき自己を見出すような展開をしていく事が出来るでしょうか。おそらく出来ない。精神はそのような対象に移行する事が出来ず、立ち止まる事しか出来ない。なぜなら、そのような対象に飛び込んで移行する事は精神が自らを手に負えない獰猛なものである事を証明してしまうから。別の言い方をすれば、精神は自らの記憶においてそのような獰猛性の中に自らを回復するのは耐え難い経験である事を想起する という事です。

 

g.   ではその時、対象はどうなるのでしょう。 答えは 対象は疎外されたままである という事です。しかし、それは対象が私達とは無関係である事を意味しない。もし本当にそうであるならば、もはや我々に出来る事は何もない。疎外された対象は我々と外見的には何もなさそうな非関係を結んでいる のです。人間は対象との非関係性において移行する事を躊躇し立ち止まる事しか出来ないが、精神は対象に関わるために媒介行為を定立する、分析や思考などの〈 〉という形で。

 

h.   では精神の運動において取り残される人間的なものとは何であるのでしょう。おそらく、それは自らの元に定在する事に固執する精神の姿、すなわち "幽霊" なのです。この幽霊はそれほど謎めいた存在ではありません。それは自らの身体、自らの経験を詰め物としてシェリングが言う所の無底という深淵を塞ぎ、自らの起源から目を背ける。それは 自分の意識が自分の存在の証明であると錯覚し、自分の意識こそが自分ではない何者か( 精神 )によって与えられた "無意識的な形式" である事に気付かない人間的なものの態度 なのです。その意味で幽霊こそ最も人間的なものであり、それこそは我々自身の事でもあると言えるでしょう〈 続く 〉。

 



 次回 ( 以下 ) の記事に続く。

 

 

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 3 〉

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー( 2 )からの続き

 



  3.   主体の真実としての対象 

 

a.   ヘーゲルの哲学において、〈 精神 〉は〈 主体 〉として自己展開する。だが見かけ上は主体はその姿を直接的に見せる事はない。主体 ( 精神 ) は別の何物かに他在するという形で自己を展開する。主体は見かけ上は消滅している事こそが、主体としての精神の運動が論理的に機能している事を示している。つまり主体は単独的な実在ではなく、常に移行しているものであり、もっと言うならば 移行それ自体という表象不可能なもの なのです。それ故にヘーゲルは "真理は全体である"というのですね。

 

b.   主体が自己を回復する事こそ精神の運動の本質であるので、それは主体の反対物である対象 ( 外見的には自己が失われているという意味での ) において開始される。運動の始めから主体がいきなり自らを何らかの主体であると意識することはない、赤ん坊が自らを赤ん坊という主体であると自覚しないように。しかし、それは主体性が排除されているのではなく、主体はそれが最初に関わる事になる対象の中に意識として溶け込んでいるという事なのです。その時点での対象とは自分が見るだけで、見られている事に気付かないという主体の姿であるのです。

 

c.   それは対象としての主体であり、自らの意識の由来に気付かないという意識の "無意識的形態" でもある といえます。その対象が自らも見られている事に気付く時、そこには意識の二重性としての自意識が既に働いている。未だ対象に過ぎない未発達の主体が外界に向かって自らの感覚性を振りかざすだけから、自分自身も見られる対象である事を受け容れた証明として自意識は作動し始めるのです。

 

d.   だから自意識とは主体が最初から備えているものではなく、対象が主体に移行する時に手に入れるものであり、それは意識による外界の捉え方自体が自らへの定義となって自身に跳ね返り差し込まれた結果としての事 なのです。

 

e.   この意識の基本的な在り方としての自意識は、対象という主体において経験される超越論的なものであり、その超越的論的なものの経験とは主体には理解出来ないが受け容れるしかない出来事 ( 誰も自分に意識というものがある事に疑問すら抱かないでしょう ) なのです。これこそ "主体において経験される外部から到来する非人間なもの" であるのです。その意味で 反照規定とは、外部から対象という主体に作用する非人間的なものとしての精神の作用である といえます。

 

f.   これに対して精神がもし人間的なものに過ぎないというのであれば、精神の活動領域が人間的なものに限界画定されているという事であり、そこでは "人間的なもの" が既に、精神の運動以前に超越論的に決定されている のを無意識的に前提としている、つまり、神という大他者に依存してしまっているのを露呈させてしまう。もし〈 人間性 〉というものが私達の中に無条件に書き込まれているのならば始めから〈 精神 〉の必要性などないのですが、人間性に先立つ "何か" がなければ人間性を書き込む事すら出来ない ( *1 )。

 

g.   人間的なものの概念が曖昧であるという事は、外部から人間的なものを形成する精神の運動があるという事であり、その非人間的なものとしての精神がなければ人間的なものに辿りつけない。人間的なものの概念が不安定であるのは、それが精神の運動の過程にあるものだからなのです〈 続く 〉。

 

 

 ( *1 )

これが宗教的な方向に走ると、人間に先立つ〈 〉の概念が出てきてしまう。

 

 



 次回 ( 以下 ) の記事に続く。