〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 6 〉

 

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊  ― 幽霊の哲学  (5)からの続き



 6.   非人間的なものという哲学的真理

 

a.  精神の運動の結末としての絶対知の究極的結論は、ヘーゲルの標準的理解とは対極であるように思えますが、最初の出発点において自己疎外された物として存在するという形式こそが既に自己と等しかったのだ と理解する事です。自己から離れ外化された対象として存在するという否定的な形式こそ精神が自己を実現する為の最も基本的な手段であったという訳です。自己疎外された対象は人間的視点からすると克服すべき欠点であるように思えますが、"非人間的な精神" の視点からはそれこそが精神が自己を実現する為の基本的な第一歩だった のです。

 

b.  そうすると人間とは精神の運動からすると一体何であるのでしょう。

ヘーゲルにおける精神と幽霊 ― 幽霊の哲学 ー (2)』においても既に述べましたが、恐るべき事に、人間とは非人間的な精神の運動過程の産物に過ぎない のです。そしてへーゲルから引き出されるこの重大な哲学的帰結を継承したのはハイデガーです。ハイデガーヘーゲルの読解により、この恐るべき非人間的な哲学的真理を理解し、そこに到達した。ある意味では彼を批判するアドルノ以上にヘーゲルを哲学的に理解していたといえます ( *1 )。

 

c.   "非人間的なものという哲学的真理"、これを理解しなければハイデガーの政治への加担は説明出来ないでしょう。ナチスの政治運動を説明する試みは幾つもなされているが、ではなぜ哲学者であるハイデガーが政治活動に関わったのかを説明する効果的試みはほとんど見られない ( *2 )。 革命への情熱? ドイツ的なものへの過度の期待? 確かにそうかもしれません。しかし、それよりもありうるのは〈 政治的なもの 〉それ自体をハイデガーが哲学的真理において、その意味を理解したからではないでしょうか。

 

d.   つまり非人間的なものとは人間的なものに対立する野蛮なものや反人間的なものという意味ではなく、人間的なものに先行しそれを規定する何物かであるヘーゲルで言う所の精神という事であり、まさしく "政治" こそ人間的なものを規定する可能性がある ( *3 ) という意味で、ハイデガーの情熱の対象( ナチスから離反するまでの一時的なものではあったが ) になったのではないでしょうか。この場合、ハイデガーにおいて、人間的なものに先行し、人間を規定するものの第一歩が "存在" ある事は言うまでもありませんね。このような 政治における隠れた哲学的規定性 こそ、ラクー=ラバルトが言うところの、ハイデガーの "暗号化された政治的教説" というべきものなのです。

 

e.   実際にハイデガーは人間的なものについて批判をしているが(『 ヒューマニズム書簡 』)、これは自らの存在概念の特別性を際立たせる為の作業だと決め付けないようにしましょう。何故、人間的なものという概念を持ち出さなくてはならなかったのかという点を見過ごすべきではないのです。"非人間的な哲学的真理"、つまり人間的なものを越える非人間的なものに気付いた時( おそらくこれは "転回" 以前に存在の概念を見出した時から彼は気付いていた )から、哲学的真理の理解の躓きである "人間的なものの概念" を脱構築する必要性を感じていた と考えるべきです ( *4 )。さらに言うならば、ヘーゲルハイデガーにおいては哲学それ自体が人間的なものに仕える道具ではなく、非人間的なものについての学の総体であるという意味での人間的なものから独立した〈 出来事 〉になっているとさえいえるのです。

 

 

( *1 )

a.   アドルノの哲学理論書である『 否定弁証法 』を読めば分かるが、彼の思考には内在的な力、つまり自らの思考を展開していく哲学的力量は感じられない ( 作品や各章のタイトル付けのセンスはあるので目は惹かれるけど )。妥協なき弁証法の徹底化という考え方は、逆に言うと、元のヘーゲル弁証法を低く位置づけてしまうという裏目の結果に陥る危険性もある のです ( ヘーゲル弁証法は乗り越えられるという錯覚 )。結局の所、彼は教養があるが故に、常に何かを、あるいは誰かを引き合いに出す事によって話を進めるというタイプであり、哲学者であるというよりは、やはり洞察力のある社会批判の理論家という事でしょう。

 

b.   そのことについては、フィリップ・ラクー=ラバルトも 『 ハイデガー 詩の政治 』において、次のように言っている。 

 

アドルノは、ヘーゲルに対する執拗な、しかし、失墜をもたらしかねないある種の忠実さによって ( まさしくそこに、『 否定弁証法 』の賭金のすべてがあるのだが )、あらゆる手段を尽くして、たとえその弁証法が宥和なき弁証法であったとしても、ヘーゲル弁証法ヘルダーリンとの類縁関係を打ちたてようとする ー これに対しハイデガーは、少なくとも彼の書いたものにおいては、要するに、アドルノに比べて用心深かったのである

 

フィリップ・ラクー=ラバルトハイデガー 詩の政治 』p.122~123  藤原書店

 

( *2 )

そのような試みの難しさについてラバルトは言う。 

 

言い換えれば、ハイデガーの政治的教説は完全に暗号化されているのである。つまり、それはいわゆる政治的教説ではなく、またそれを聴き取るためには、政治的なものの彼方へと  ーあるいはむしろ手前へとー  我々は 一歩踏み越えなければならないのだが、この政治的教説は、政治的なものを、それ自身としては少しも政治的ではない自らの本質に向かって踏み越えるようにと促す。

 

前掲書 p.206

 

( *3 )

これについては、ハイデガーの〈 存在 〉概念が人間に及ぼす作用について考えればよいでしょう。ハイデガーにおいては〈 存在 〉は外部から人間を〈 存在者 〉たらしめる強力な原理以外の何物でもない。要するに、彼は "人間を外部から根本的に規定するもの" という考え方に固執し過ぎていたのです。彼の考えが正しいとしても、それは同時に彼の欲望 ( 哲学的名声など ) を刺激するものであり、存在原理を人間を規定する政治に接続出来るもの として短絡させる程までの昂揚原理であった訳です。

 

( *4 )

その脱構築が成功したかどうかは検討する必要があるでしょう。おそらくデリダなら成功はしていないと言うでしょうけど。

 

 

  次回 ( 以下 ) の記事に続く。