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ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)

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    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(7)からの続き。

 

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 8.   弁証法存在論

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a.   自分に先行するものとしての精神を否定して自らの存在に固執する人間とは何でしょう。ヘーゲルは『 精神現象学 』の 「理性」において現実に対する個人の二つの態度を挙げている。それを参考にして現実への対応を考えてみます。

 

 

b.   "ひとつは自分が現実に適応する事" です。これは自分を捨てて、現実に歩み寄るという単純な事ではないです。現実の一般的なものの視点から、自分を個別的なものではなく一般的な対象として扱う事である。そのときには自分に可能な事・不可能な事、足りているもの・足りていないもの、などの区別が発生し、個人の行為化のための準備的状況が発生する。

 

 

c.   "もうひとつは現実を自分の為に適応させる事" です。もちろんこれは全ての現実を変えるという物理的に不可能な試みの事ではありません。選び出した現実の対象に対抗させるかのように、自分の存在を特殊な現実として、一般性のなかに組み込もうとする心理的試み です。

 

 

d.   では自らの存在に固執する人間の立場はどちらなのか? 言うまでもなく後者です。ふたつの対場は見かけほど対等ではなく、否定の力が単純に働く後者こそ、人間的なものの力の源泉になっている。しかしこれは厄介な事でもあります。なぜなら、自分の存在を一般的なものにしようとしているのに、目の前にある現実が自分の障害なので都合のいいように心理的に適合させる事は、精神の運動の要である移行に逆らい、自分は行動しない という事を意味するからです。

 

 

e.   移行抜きで無媒介に自分という個別の存在を一般的存在にしようとする この不可能な心理的試みは、人間的なものの内奥に、病理的な核が一般的なものの代償として備え付けられている事 を意味する。現実的には行動していなのに何かをしたつもりになっているこの心理的思い込みは行動の抑圧といえます。この行動化を阻むものこそ "存在という根本的なトラウマ" なのです

 

 

f.   逆説的ですが、行動化こそ、存在というトラウマを脅かし、人間を不安定な状況に陥れるものです。なぜなら、存在する事こそ、人間に対して最も根本的で 原初になされた行動 という意味での移行の産物だから、自分以外の行動は自分を脅かすものとして抑圧しなければならないのです。自らに固執する人間の立場においては、個別から一般性への移行の為の行為化は、存在という原初の移行によって抑圧されてしまう訳です。

 

 

g.   では逆に、その存在という原初的移行は一般から個別への移行であるのでしょうか。 個別が自らを高め一般性へ移行する事は、物が精神へと至るという絶対知の哲学的意義を示しているが、一般性が再び、個別へと戻る事は果たして精神の移行といえるのでしょうか。 実はそこでは精神の移行とは別の事が起きていると考えられないでしょうか。

 

 

i.   人間の存在自体 ( 存在者 ) は個別的なものであるが、その人間を存在させる存在化の作用自体は一般的なものなのです。仮に、この存在論の巧妙さを無視して、一般的なものの正体が個物の現実から遡及的に反照された理念に過ぎないというマルクス的な弁証法的転倒を主張してしまうと、大切なポイントを見落とす事になります。

 

 

j.   つまり、個別から一般性に向かう精神の運動は、最初から対象物という物が自らを自己として認識していく過程であるという概念の主体的運動なのですが、一般から個別へと逆移行する存在においては、最初に一般性として把捉しておくべき対象物がないのです。この事が存在論を分かりにくくしている要因となっている訳です。

 

 

k.   存在論においては、一般的な対象は不明瞭だが個物の位相において初めて人間という対象が現れます。それはハイデガーが "個物における現れ ( 存在者 )" を一般性の次元で捕らえなおそうとして存在の概念を練り上げた事で示されている。この一般性の次元を考察する事によって、現れを何かの現象ではなく、"現れ自体という出来事" として考える事が可能になる。だから存在とは存在する何かの事ではなく、その何かをそこに存在させる存在化の作用、あるいは出来事という一般性の事である のは言うまでもないでしょう。

 

 

l.   しかし、存在論において一般的なものとしての対象がないとはどういう事なのでしょう。 正確に言うなら、対象物のない一般性とは何かという事です。この点において存在論弁証法的移行とは違う のです。精神の弁証法的移行においては予め与えられていた物が究極的には自己であると主体的に理解される。

 

 

m.   それに対して 存在論においては、なぜ自己であらねばならないのか、つまり自己であると強制されている事こそが問題になる 強制するとは、人間を存在させるという事( たとえ無でありたいと望んでも、残酷なことにそれはかなえられない )であり、人間を存在させるものとは何であるのかという事でもある。それこそが、存在論という視点からの一般性についての問題なのです。

 

 

n.   そして、おそらく存在論の一般性に対象がないのは、それが対象を持たないからではなく、まさに 一般的なものの内部についての問題である からです。つまり、一般性の次元で何かが起こったという事 なのですその結果、人間が存在する。

 

 

o.   この一般性から個物への移行は主体的なものではありません。それは一般性へと後戻りする事の出来ない偶然的事故、つまり、一般的次元の均衡が崩れた結果という意味での存在論的崩壊といえるもの です初めから存在するものが壊れるのではなく、一般的なものが壊れる事によって存在という出来事が可能になるという事です。

 

 

p.   では対象物ではない一般的次元とは何か? これこそハイデガーが取り組みながらも未完のまま残した問題、つまり時間( "時間と存在" )です。ただし、それは一日が二十四時間であるなどという個別的な時間ではなく、その個別的時間が可能になる永遠という "内在平面" の事です

 

 

q.   この一般性である時間は、自らの時間の流れにより、一般的なものの変化のない持続が自らの同一性である事を否定する。つまり一般的なものでさえ、自らを持続できずに崩壊するという過程を保持しているのです。そして 存在は一般的なものの崩壊の過程において発生するもの なのです個別に存在する ( 時間を持つ ) とは、一般性 ( 時間性あるいは無ー時間性 ) において崩壊する事なのであり、これこそハイデガーが行き詰った問題であると言えるでしょう。

 

 

r.   弁証法の一般性に時間を導入する事によって存在論は可能になる。この意味で弁証法存在論もやはり、一般性についての問題であるのですが、個別的なものについての問題はまだ取り残されているのです。

 

 

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▶   ハイデガー的に言うなら、被投的存在という存在者の受動者的側面の事。

 

 

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続きは以下の記事を参照。

 

 

 

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