ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(3)からの続き。
4. 移行する事が出来ない精神の正体としての幽霊
a. 既に述べたように自己疎外された対象において開始される精神の運動は、その過程において外部から人間を形成するという意味で "非人間的なもの" です。自分に執着する人間は〈 物 〉という対象を見て、それが自己疎外されたものであるが故に取り戻すべき自分であるとは認識出来ない。自分は自分の中に常に定在すると無意識的に思い込み誤解しているので自分の由来を外部に求める事が出来ない という訳です。
b. それに対し非人間的なものとしての〈 精神 〉は、〈 物 〉という対象を自らとの外見的な関係性を、無関係ではなく "非関係という一定の関係性" がある事を認識する。つまり、対象が区別され疎外された自分である事を反照的に理解し自己を回復すべく主体として動き出す。こうなると主体の保有権は強力な移行を展開する精神の運動が握る事になります。
c. いつまでも自分の中に定在し続けようとする人間は、自分の背後で展開される精神の運動から目を背ける事しか出来ない。周囲で何が起きようが自分は自分だという訳です。この人間の在り方は、自らの由来に気付かず、現在の自分の状態が昔からこうであり未来もこうであろうと誤解する〈 意識の無意識的形態 〉なのです。さらに言うなら 意識というものがある事こそが無意識的であるという事実、つまり、"意識の無意識性" に没入している自分から永遠に抜け出せず自らの外に立つ事が出来ないという事 であるのです。
d. しかし、そのような人間的身振りは批判されるべきものなのでしょうか。 そのような人間は精神の運動において廃棄される契機にすぎないのでしょうか。そのような人間は精神の運動を邪魔しているのいえるでしょうか。
e. これに答えるためには精神が標的にする対象の性質がどのようなものであるのか考える必要があります。つまり精神の対象がヘーゲルのような哲学的叙述に適合する国家や歴史などの崇高な対象ではなく、資本主義やイデオロギー、貧困や暴力、という対象であればどうだろうかという事です。
f. そのような対象を前にして、精神はそこに回復すべき自己を見出すような展開をしていく事が出来るでしょうか。おそらく出来ない。精神はそのような対象に移行する事が出来ず、立ち止まる事しか出来ない。なぜなら、そのような対象に飛び込んで移行する事は精神が自らを手に負えない獰猛なものである事を証明してしまうから。別の言い方をすれば、精神は自らの記憶において、そのような獰猛性の中に自らを回復するのは耐え難い経験である事を想起する という事です。
g. ではその時、対象はどうなるのでしょう。 答えは 対象は疎外されたままである という事です。しかし、それは対象が私達とは無関係である事を意味しない。もし本当にそうであるならば、もはや我々に出来る事は何もない。疎外された対象は、我々と外見的には何もなさそうな非関係を結んでいる のです。人間は対象との非関係性において移行する事を躊躇し立ち止まる事しか出来ないが、精神は対象に関わるために媒介行為を定立する、分析や思考などの〈 知 〉という形で。
h. では精神の運動において取り残される人間的なものとは何であるのでしょう。おそらく、それは自らの元に定在する事に固執する精神の姿、すなわち "幽霊" なのです。この幽霊はそれほど謎めいた存在ではありません。それは自らの身体、自らの経験を詰め物としてシェリングが言う所の無底という深淵を塞ぎ、自らの起源から目を背ける。それは 自分の意識が自分の存在の証明であると錯覚し、自分の意識こそが自分ではない何者か( 精神 )によって与えられた "無意識的な形式" である事に気付かない人間的なものの態度 なのです。その意味で幽霊こそ最も人間的なものであり、それこそは我々自身の事でもあると言えるでしょう〈 続く 〉。
次回 ( 以下 ) の記事に続く。