ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(9)からの続き。
10. 複数性としての幽霊 ②
a. 幽霊的なものの特徴は、時間的にも、場所的にも、複数的である可能性を保持しているにも関わらず、それらを束ねて単独的であるかのように振舞える事です。しかし、複数可能性を束ねるこの単独性、つまり、一者の効力は何に起因するのでしょう? それがなければ、何に対しての複数的であるのか分からなくなり、複数可能性は文字通り複数的なものとしてばらばらになり、もはや複数である事さえ分からなくなる。
b. ならば、ひとつであるとはどういう事なのでしょう? 幾つかの数のまとまりが、複数的なものであると言うには、一者への対自性を獲得しなければならないが、問題は 一者が、複数的なものからどのようにして出現するのか なのです。もし、一者が最初から複数的なものとは別に無条件にあるというのなら、それは間違っている。なぜなら、自らを一者とする為には、自らの単独性を証明するための判断基準としての複数的なものが隣接していなければならないからです。
c. 一者の出現は複数的なものを背景とするが、この一者を複数的なものとは全く別のものと考えてしまうと、一者は神的なものとして知的保留を示す標識でしかなくなってしまう。一者は同質の傾向性を共有する幾つかの数のまとまりが、自らの運動の中で自らに向かう対自性を獲得しようとして、自らを自己疎外する時に出現する。これは自己という対象が自らの元にはなく、自己に先立つ対象化の作用によって自らの元から離れることによってしか成立しないのと同様です。
d. 重要なのは、ここで出現する自己が、実在する個体ではないという事です。それは実在の個体ではないが、実在の個体の中で経験される対象からの反照であり、不可視のものとして存在する精神の経験なのです。自己という対象が自らの元にないという事は、実在の個体は自己であろうとする限り、永遠に自己という対象には到達出来ず、離れているしかない事 を意味する。
e. 複数的なものが自らに到達出来ない運動の中で、その近づき得ない距離それ自体が疎外された時、単独的なものとしての一者が出現した といえるのです。それ故に、複数的なものは自己の運動として一者に向かう。
f. だが、その時、一者は既に実在する個体とは別のものであり、精神が全体的運動の過程において個体に留まる姿、すなわち幽霊なのです。そして、我々とは、実在する個体において経験される幽霊であると言えるでしょう ( 終 ) 。