以前の記事 ( *1 ) で、マルクス・ガブリエルについての批判的考察をしたのでもう書くつもりはなかったのですが、最近の日本の出版界における異常ともいえるマルクス・ガブリエルのブームのおかけで、書店やネットで嫌でも彼の姿が目に入ってくる。困ったものです。それは彼だけの責任ではないのですが、史上最年少でボン大学の教授に就任だとか、哲学界の若きロックスターだとか、のキャッチコピーで、彼が、彼固有の哲学的思考力以上の評価をされてしまっている事に多くの人は気付いていない。そんな肩書きだけで哲学を理解しない人々の注目をここまで集めさせてしまうなんて、すごい時代です。これも "新しい現実" として受け入れるべきなのでしょうか?
( *1 )
以下の記事を参照。
Chapter1 「 ハイデガーを読むのはやめなさい ! 」
1 この記事のタイトル『 "マルクス・ガブリエルを読むのはやめなさい!" と言うのは言い過ぎだとしても …… 』は、マルクス・ガブリエルの "ハイデガーを読むのはやめなさい!" 発言を受けてのものです。その発言は、『 全体主義の克服 』( マルクス・ガブリエル / 中島隆博 集英社新書 ) の 第三章 「 ドイツ哲学は全体主義を乗り越えたのか 」で見られます。
今は、決定的に重大な瞬間です。だから2018年に京都大学で講演をしたとき、「 ハイデガーを読むのはやめなさい!」と言ったのです。わたしは人々の目を覚ましたかった。
p.101
2 この章におけるマルクス・ガブリエルのハイデガー批判はひどく、それはもはや客観的批判ではなく、ハイデガーを反ユダヤ主義者として読者に認識させようとする扇動でしかありません。たしかに ハイデガーは自らの思想において反ユダヤ的なものを考えていたのは間違いないのですが、それはナチスにおける人種差別的反ユダヤ主義とはまた違う事 を詳細に考える必要があるのです。マルクス・ガブリエルはその差異を無視して極論を進めます。ドイツの世論がそういう方向に進んでいるからこそ、それに迎合せず哲学者だからこそ考え抜かなければならない "細部" を彼は平気で捨てるのです。
彼は残忍な反ユダヤ主義者だったとわたしは言いたいと思います。ハイデガーは、気分としてユダヤ人嫌いだったというレベルにとどまりません。彼は、筋金入りの反ユダヤ主義信者でした。
p. 92
3 さらに彼は、ハイデガーの『 形而上学の根本諸概念 』における有名な ( といっても評判の芳しくない ) "石と動物と人間の区別" を持ち出し、『 黒ノート 』における "ユダヤ人は世界がない" という記述と結びつけて、ハイデガーはユダヤ人が石だと言っている、という暴論を展開する。
石には世界がなく、動物は世界という点で貧しく、人間は世界を創造する動物である。それは、無生物の自然、動物、人間を区別するものです。そして「 黒ノート 」では、彼はユダヤ人のことを「 世界がない 」と呼んでいます。つまり、それは世界という点で貧しいのですらなく、ユダヤ人は石だと言っているということです。ハイデガーにとって、ユダヤ人は虫ですらなく、石のように物質的な自然なのです。
p. 92
4 いや、ハイデガーを擁護するつもりはありませんが、"ユダヤ人は石だ" ってそんな子供でも思わないような考えをハイデガーがしたというのは無茶苦茶です。この場合、ハイデガーが "ユダヤ人は世界がない" と言うのは、人間主体を構成する次元のひとつとしての世界との関わり方、つまり、"世界 - 内 - 存在" ( ハイデガーの概念 ) へと至る事が、根無し草として古来から放浪してきた ( 世界に場所を持たない ) ユダヤ人には出来ない、というユダヤ的特殊性に言及している と哲学的に考えなければ、ただの罵詈雑言でしかなくなってしまう。マルクス・ガブリエルはその辺が全く理解出来ていない、というか理解するつもりもないのでしょう。
5 その後も、かつてシナゴーグ ( ユダヤ教の教会 ) が放火された時、その燃える様子を見ながら大学の講義でハイデガーは炎とヘラクレイトスについて語ったとか、などゴシップ的な話のオンパレードで、ハイデガーの根源に犯罪性があるかのような誘導をしていく。もうそれは哲学者というよりかは週刊文春の記者なのかと思わせる様子です。しかもハイデガーだけでなく、ハーバーマスについても同じようにゴシップ的な囲い込みをして、ナチスとの近さを読者に印象付けようとする ( 読者の中にはこの話を衝撃の事実として "無反省に" 受け入れている人もいる )。
ハーバーマスとナチズムという議論は常にありました。彼は少年時代、ヒトラー・ユーゲントのメンバーでしたし、博士論文の指導教員はさっき言ったようにナチ系でした。もちろん、ハーバーマスがナチだと言おうとしているわけではありません。しかし、控えめに言って、「 問題のある環境にかなり近いところにいた 」のです。
p. 81
6 たしかにマルクス・ガブリエルの言うことは、全くのデマではないのですが、彼のたちが悪いのは、そのような事実、あるいはグレーな話、を持ち出してハイデガーなり、ハーバーマスなりの思想の正体が極めて怪しいものであると誘導的に思わせる穏健的陰謀論を巧みに演出するところです。哲学に詳しくなくとも、読解力のある人ならば、この章における彼の振舞いがおかしなものである事が見抜けるはずです。なぜなら、ハイデガーやハーバーマスの思想について決定的な哲学的見解を彼は述べず、ゴシップしか話していないのですから。彼が政治的であるといっても、それはハイデガーをナチズムに関わらせた政治的思想性とは程遠い、たんなるポジショントークしか語っていないという意味です。ここには陰謀論とポジショントークが結びついた奇異な言説の中に、主体の自己実現の欲望が転移してしまっているという現代の症候 ( 最近のアメリカ大統領選挙に関する SNS などで見受けられる ) が現れているといえるでしょう。
Chapter2 何物も "意味しない" ガブリエルの新実在論
1 マルクス・ガブリエルがいかにポジショントーク的修正主義に拘泥しているかを露にしてくれる所があります。これも新書なのですが『 世界史の針が巻き戻るとき 』( マルクス・ガブリエル PHP 新書 ) の最期で、新書の編集部がマルクス・ガブリエルに改めて新実在論は何かを講義してもらう「 補講 新しい実在論が我々にもたらすもの 」の箇所です。
編集部は最初に次のように聞きます。
「 現実は複数あり、視点も複数ある 」とおっしゃっていましたね。「 我々それぞれに、それぞれの現実がある 」と。でも、あなたは「 世界は存在しない 」とも言う。そして人間は同じ種の動物であるから、普遍的な道徳的価値観を共通して持っており、お互い理解し合えるとも、この三要素の関係性について、改めて解説していただけますか。
p. 209
2 最初の質問は至極真っ当なものでしょう。"現実及び視点の複数性" と "世界は存在しない" が どうして両立するのか、一方が存在して、他方が存在しない、という "両立性" とはどういうことなのか と聞きたい訳です。ガブリエルは多くの人が抱くであろうこの疑問の意図 ( 両立性 ) を上手く汲み取れずに、グラスの例を持ち出して、グラスはそれを見る人たちの視点の中にそれぞれ存在するのであって、そういう視点から独立したグラスそれ自体は存在しない、世界が存在しないというのはそれと同じだ、といつも通りの他所でもよく披露する新実在論の説明をする。彼は世界の不在とは、ただひとつの意味の場ではなく、複数の意味の場で "現実" が起きているという事を示すテーゼだと言うのですが、この説明では "両立性" についての疑問は解消されないでしょう。
3 この編集部の素朴な疑問に込められた両立性はガブリエルの新実在論がいかにおかしなものかを露呈させている。そもそも、まずグラスが存在しなければ、そのグラスに対して幾つもの視点を持つ人たちという見取図自体、ガブリエルが言う意味の場が成立しません。そうすると、考え直すべきは、最初のグラスがどのように存在するのか、という事であり、その存在をいきなり否定してしまっては、グラスを見ているであろう人たちは、自分が一体何を見ているのか さえ分からなくなり、そこでは "複数の視点という構図自体" が成立しなくなる。複数性とは、何らかの対象に対するアプローチであるからこそ可能になるものであるので、その何らかの対象を抹消してしまっては、もはや "何に対して複数であるのか" すら分からなくなる のです。対象が特定されなくなると、私はグラスを見ているが、別の人はお皿を見ている、また別の人は料理を見ている、という具合に、意味の場は拡大し、やがては舞台は食卓から家の外へと 無差別的に ( 複数的とは違う ) 乱立する だけなのです。
4 とするならば、最初のグラスはそれを見る幾つもの立場の人たちとっての暗黙の了解 ( 自分たちがグラスを見ているという ) を可能にする対象として存在していなければなりません。それはまさにグラスがヘーゲル的意味での "抽象" として存在する、つまり、たんなる物質で構成された具体物から、人間に共通の理解を無意識的に可能にさせている抽象物への "知的移行" がグラスという対象物それ自体において起こっている ( 正確に言うなら 人間の反省性が対象物に差し込まれている ) という事なのです。グラスとは、人々の視点の中の日常的具体物である事と、人々に自分はグラスという対象を認識しているという抽象化作用を促す抽象物との両極で移行を繰り返す普遍物として存在するのですね ( この運動は意味の場を横断して行われる )。そうすると、グラスも存在するし、世界も存在する。ただし、それらはグラスと名指されるもの、世界と名指されるもの、として存在すると言う方が正確かもしれません。抽象化作用としての記号化、概念化が施されることで認識される何物かがそこにはある という事です ( グレアム・ハーマンやカンタン・メイヤスーの新実在論のように )。
5 ガブリエルが複数の現実と言う時、彼は現実を表象として考えている。というか、現実という概念を表象においてしか考えることが出来ない (『 世界史の針が巻き戻るとき 』の7章 "表象の危機" 参照 )。物の存在を、ジャック・ラカンが言う意味での現実界 ( ありえないものが存在する ) として思考する能力がないから 物自体に思考の照準を留まらせる事に耐えきれず表象の世界に逃げ込んでいる。この点、物へのアクセス不可能性を説きながらも物の "圏域" に何とか留まろうとするグレアム・ハーマンとは対照的です。以上のように考えると、両立性という疑念を引き起こすガブリエルの新実在論が適当なものである事が分かるでしょう。実際、( *1 ) の記事で指摘したように、彼は世界は存在しないというテーゼについての当初の説明を秘かに修正し、微妙に主張を変化させてきていますから。それに、意味の場における複数の現実・複数の視点を持ち出す事自体が、彼が最初に批判したはずの構築主義における世界に対する人間側からの解釈的思想と重なり合っている事に彼自身が気付いていないのが問題です。
6 複数の現実が政治的表象として現れる時、その問題が回帰して来る。意見の異なる者同士における衝突の可能性を、中立性のプラットフォームを構築する事によって避けようとガブリエルは提案します。これは複数の政治体制の共存が非常に緊張を伴うものである事を認めているという事ですね。この政治的表象を出現させているものこそ、国家の存在です。つまり、"国家 ( 物 )" は存在する。グラスや世界がそれ自体で存在する "抽象的 / 具体的な物" であるのと同様に。それ自体で存在する事を否定するというのは、国家の消滅であり、それを進んで受け容れる事など出来るはずがないでしょう ( いかなる政治体制であれ )。ガブリエルのように、理論において世界の独立的実在を否定しておきながら複数の現実があると言うのは、現実において国家 ( 物 ) 同士の対立が、まさにひとつの世界に同時に存在する事の困難さに起因する戦いである のをオブラートに言い換えている に過ぎないのです。それは現状追認であり、何も言っていないのに等しい、いくら口当たりがよくても。
7 なので、ガブリエルが複数の現実という一見、真性な哲学概念に言及する時、果たしてそれが彼の哲学的思考においてどれだけ意義を持つものなのか、正直、疑問に思います。確かに彼は世界で何が起こっているのか、どんな現象があり、どんな流行が発生しているのか、東洋の哲学、また科学やポップカルチャーなどについてもよく知っていることが、著作やインタビューなどから分かるのですが、"複数の現実" がそういう事柄に通じている事それ自体に止揚されているとしたら、彼の思考における哲学性はそこから疎外されたままになっているかもしれない。多様な現象に通じていることが、彼の思考原理に深みに与えるほど哲学的に還元されていない と感じるのは僕だけではないでしょう。ハイデガーをいかに批判しようとも、ハイデガーの哲学が倫理的に正しいかどうかと糾弾する以前に、どうしようもないくらいに哲学的力量差があることは彼らの著作を読み比べれば明らかです。これでは他人を真に哲学的意味で納得させるのは難しい。もしかすると、彼のハイデガーへの敵対性は、ハイデガーの哲学を自分が十分に理解出来ない ( それは私たち自身についても言えるのですが ) のを無意識的に知っている事の苛立ちから来ているのかもしれません。次の発言に、そのような彼の知的ヒステリーの無意識的側面が現れていると解釈する事も出来るでしょう。
「 黒ノート 」にまつわる議論はとても複雑ですが、ざっとまとめると、こういうことです。ハイデガーは膨大な量のノートを遺していて、そのほとんどを「 存在 」について考えるのに費やしています。つまり、後期ハイデガー哲学の曖昧なバージョンのように読めます。後期のハイデガーは、そもそも曖昧模糊としているのですが、ノートに書かれているのは言葉そのものも非常に曖昧で、よくわからない思考が延々と続きます。
『 全体主義の克服 』p. 88