監督 シーロ・ゲーラ
公開 2015年
原案 リチャード・エヴァンズ・シュテルス
テオドール・コッホ = グリュンベルグ
出演 二ルビオ・トーレス ( 若きカラマカテ )
アントニオ・ボリバル・サルバドール ( 年老いたカラマカテ )
ヤン・ベイヴート ( テオドール )
ブリオン・デイヴィス ( エヴァン )
ヤウエンク・ミゲ ( マンドゥカ )
ニコラス・カンチーノ ( 救世主 )
ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。
1章 原住民の方へ
この映画は、より先住民族の方へと観客の視点を移動させている作りになっていますね。シャーマンや先住民族をテオとエヴァンとの対話・交流を通じてよりクローズアップさせている訳です。実在したドイツの民族学者、テオドール・コッホ = グリュンベルグ ( 1872 ~1924 ) とアメリカの植物学者、リチャード・エヴァンズ・シュテルス ( 1915 ~2001 ) がアマゾンを探検する中で、幻の植物ヤクルナをシャーマンのカラマカテと共に求めるという話です。
テオドール ( 5. ) はこのアマゾン探検中にマラリアで亡くなるのですが、そのテオドールが残した手記の内容を確認しようとエヴァンズ ( 8. ) もアマゾンにやって来る。彼らと偶然に邂逅し、行動を共にするのがコイワノ族の生き残り ( コイワノ族は侵入してきた白人たちによって滅ぼされた ) のシャーマンであるカラマカテなのですが、テオドールの時には若かったカラマカテ ( 1~6. ) も、エヴァンズが来た時には年老いていた ( 7~12. )。それどころか、彼は自分のシャーマンとしての特質も、テオドールとの記憶も半ば忘れかけていた。
( 19~20. ) でカラマカテが言う 白人の精霊の夢 というのは、かつてのテオドールとの出会いの事を言っている。もちろん、ここでいう 夢 とは、現実ではない儚いものという意味で私たちが用いるのとは違い、夢の中にこそ真理があるという先住民族の〈 神話論理 〉としての夢 です。この意味で、カラマカテはエヴァンに "君も夢を欲するか?" 、つまり、真実を知りたいのか、と聞いているのですね ( 23. )。しかし、エヴァンはその問いを無視して、即物的にヤクルナを求めようとする ( 23~25. )。
この映画はテオドールの探検とエヴァンの探検の時系列が移動・往復する事によって話が進められるのですが、以下は、カラマカテが自分の姿が写った写真を眺めて、テオドールと会話するシークエンス ( 27~38. )。写真の中の自分を見て、カラマカテはテオドールに聞く、"チュジャチャキか?" ( 31. ) と。
カラマカテは チュジャチャキ についてテオドールに説明する。曰く、自分とそっくりだが中身はない、記憶を持たない、世界中をさまよい、幽霊のように実体がない、と ( 33~38. )。ここで考えるべきは、物語の重点として、後にエヴァンと出会った時、カラマカテ自身がチュジャチャキになっていたという事です( シャーマンとしての記憶を失っていた )。エヴァンと出会うというのは、カラマカテが自分を取り戻す、チュジャチャキからシャーマンに戻る旅でもある のです。そして、その目的はカラマカテがテオドールに伝える事の出来なかった真実、生命が生まれる前の太古の世界があるという真実 ( あくまで映像的脚色が施された ) をどうにかして誰かに伝えなければならない事だった ( 53~62. )。もちろん、この脚色は先住民族の文化遺産に対する過度の幻想が現れたものなのですが、人類学的遺産相続の困難さを十分に代補する設定として機能させたいというシーロ・ゲーラの欲望が現れていると考慮すべきなのでしょう。
2章 原初の世界へ
エヴァンの来た本当の目的は、ヤクルナではなく、ヤクルナが咲く木の方だった ( *A )。これに怒ったカラマカテをナイフで殺そうとするエヴァンだが、あきらめる ( 39. )。にもかかわらず、カラマカテは、夢を見れずに悩んでいると以前にいったエヴァンに薬を飲ませる ( 薬というより幻覚剤なのですが )。ここで彼はエヴァンに言う、"恐れずに抱擁してもらうんだ" と ( 42. )。南米の生命の源であるアマゾン川は天から降りた蛇の化身だという言い伝えにあるように、生命以前の原初の象徴である蛇に抱擁してもらえと言っているのですが、ここにおいて映画の原題『 El abrazo de la serpiente ( 蛇の抱擁 ) 』が生きてくる。
自責の念にかられたエヴァンはヤクルナを断ろうとする ( 45~46. ) が、カラマカテは言う、"私も同じだ。昔、君を殺した。だが君は帰ってきた。私が伝えるべきなのは同胞ではなく君だ" ( 47~51. )。つまり、カラマカテは、エヴァンとは夢 ( 真実 ) を教えてもらうために還ってきたテオドールの姿なのだ、と考えているのですね。命を救ってやれなかったテオドール / エヴァン に夢 ( 真実 ) を伝えるためにだけ自分はチュジャチャキとして生き延び、今まさにシャーマンとして蘇った という訳です。
以下は、エヴァンが、夢の中で、生命以前の原初の世界に触れるのをサイケデリックな映像で表したもの ( 53~62. )。正直、ここの下りは少し危険な面があるといえるでしょう。先住民族の思考体系が、世界に蔓延しているニューエイジ的スピリチュアリティに回収されかねない危険性です。いうまでもなく、ニューエイジ思想の正体とは、隠れた自己本位主義、つまり、他者性を無視した自己閉塞的な意味での自分中心主義でしかありません。自己実現、自立性、精神性、といった口当たりの良い言葉で偽装された欲望の快楽に浸る事でしかないのです。
そこには先住民族における人間や生命の意味がいかなるものであるのか、私たちのそれとどう違うのか、などという 他者性を考える知 が入る余地はありません。その知は、他者の思考を理解すると共に、私たち自身を支配している人間観や生命観を露にするのです。事実、最近の人類学者の フィリップ・デスコラ や ヴィヴェイロス・デ・カストロ などは、偉大なる先人たち ( クロード・レヴィ=ストロースなど ) の研究に 哲学的視座を徹底的に持ち込む事によって 人間概念それ自体を脱構築的に考察する議論 ( 人間 / 非人間 の問題など ) を生んでいる のです。
だからといって、シーロ・ゲーラとニューエイジ思想を短絡的に結びつけるべきではないでしょう。そうでないからこそ、彼は登場させた二人の人類学者にエンドロールでオマージュを捧げ、彼らの記録にある先住民族の実際の写真を引用している ( *B )。それはシーロ・ゲーラが 人類学的遺産の継承の大切さ を考えている事の証であり、映画のストーリー自体もカラマカテがエヴァンに "夢" を伝えるという "継承物語" になっている事からも分かりますね〈 終 〉。
( *A )
エヴァンがカラマカテを殺そうとする事とヤクルナは映画的脚色なのですが、彼がゴムの木を探していたのは事実。第二次大戦時に軍需転用出来るゴムを東南アジアに依存していたアメリカは、日本の東南アジアでの進攻による供給不安から脱却するためにアフリカに供給源を求めた。エヴァンはその為のゴム開発会社で働きながら、アフリカの植物探究にも勤しんだ。
( *B )
記録という事でいうと、テオドール・コッホ = グリュンベルグ、 と Alexander Hamilton Rice Jr. ( 1875~1956 ) らの探検隊の様子を 撮影家の Silvino Santos ( 1886~1970 ) が記録した貴重な動画が YouTube で見れる ( 2021年5月現在 )。この探検 ( 1924~1925年 ) 自体は、リオブランコ周辺の地図作成が目的だった ( 探検隊を率いた Rice は医者であると同時に地理学者でもある探検家だった ) ため、ひたすら川を船で進む様子が映されるという地味なものですが、 岩場を避けて人力で進めるのに先住民族の人たちが手伝う様子が見れたり、彼らのちょっとした生活が窺えたりする。
No Rastro do Eldorado - Expedição do Dr. Hamilton Rice ao Rio Branco em 1924-1925 - YouTube