〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー〈 9 〉

 

f:id:mythink:20181007025757j:plain

 

    ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)からの続き。



 9.   複数性としての幽霊 ①

 


a.   精神は移行の運動という全体性において自らの真理を知る、つまり精神は知となる。しかし、移行に抵抗する個物が自らの中に収縮する時、精神は知に至らず、個物から離れる事が出来ず、個物の影として幽霊となる。最も個物的である人間という存在の最も人間的なものの表象が幽霊なのです。精神の側から見ると、幽霊とは 知へと至る事の出来ない精神 であり、人間が自らの存在をひとつの知としては理解出来ないものなのです。

 

b.   ヘーゲルの『 精神現象学 』が英語版において、ゲルマン語系の ghost ではなく、ラテン語系の spirit が採用されているのは、精神が知的なものという意味での一般性として了解されている事以外の何物でもないでしょう。しかし、もしその精神を個別的なものとしての ghost とするならば何が見えてくるのでしょう。ただし、既に述べたように、Ghost は個別的なものでもあるので、一般性としての精神が展開されるという現象性を意味するPhenomenology ではなく、『 Philosophy of Ghost ( 幽霊の哲学 ) 』という仮タイトルを付けた場合に何が見えてくるのだろうかという事です。

 

c.   これを別の言い方をするならば『個物の哲学』という事が出来るでしょう。個物は自らにこだわり、自らの中に収縮する。これに対して哲学はひとつの知として個物の外へ出て行こうとする。知は移行を積み重ね、自らがたんなる個物ではなく、絶対知である事を知る。つまり、哲学は人間という個物の中に収まりきれるものではなく、知の移行の運動として "人間的なものを越え出る非人間的なもの" なのです( これが反-人間的なものや野蛮なものではない事は既にヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(6)で述べました )。

 

d.   ではこの相反する組み合わせの哲学的言説をどう考えるべきでしょう。個別から一般性へのヘーゲル弁証法的移行でなければ、個別それ自体についての存在論的言説だというのでしょうか。しかし、 ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(8)で述べたように、ハイデガー存在論的言説も一般性から個別への崩壊である限り、一般性についての別ヴァージョンに過ぎません。

 

e.   そうすると考えられるのは、個物が自らを一般性との関係性において掴むのではなく、自らをひとつの "形象" として、つまり "一者" として掴む事 です。それこそ人間的なものの形象に固執する幽霊的な身振りだといえるでしょう。

 

f.  人間が自らの存在を知として理解するのを止める時、そこにあるのは一般性の残滓にしがみつく幽霊としての人間です。幽霊は消えてしまう事に抵抗し、何度でも回帰して現れ、あたかもずっとそこにいるかにように同じ〈 私 〉として振舞う。同じ〈 私 〉がそこにいて、しかも 一人であるかのように振舞う。肉体が滅びても、それは続く。

 

g.   この終わる事のない〈 私 〉の振る舞いこそが幽霊としての人間の本質なのです。幽霊は自らの居場所である〈 個物 〉を全力で支え、維持しようとする。ここにおいて幽霊は〈 個物 〉を "一者" として支えるべく複数的な可能性となる。複数的なものが同時に同じ場所にあるという事ではなく、違う時間、違う場所に散在するという意味での複数可能性です。この複数性を束ねる一者において作用しているのが離接的綜合の論理である訳です。

 

h.   ここでの重要なポイントは、複数性が最初からあるのではなく、〈 人間的形象 〉が常にバラバラに分割され、引き離され、散在している事の結果として生じるという事 です。もっと言うならば、分割されるのではなく、引きちぎられ、奪われ、食べられるのです。人間が集団である限り、誰かと共にいる限り、他者を見る視線、他者についてしゃべる事、他者に何かする事などの日常的なささいな事から既に、他者の存在を引き裂く簒奪行為が始まっている。ここから倫理的なものとしての人間的形象、つまり他者を支える〈 幽霊 〉が動き出す。

 

i.   この人間的形象である他者を最大限に高める行為のひとつが喪に服す事です。フロイトからデリダを経由する〈 喪 〉についての概念の作業は、他者の体内化の失敗、あるいは体内化に抵抗する他者を示している。しかし、それは果たして最初から他者であったのでしょうか。我々に対して〈 他者というもの 〉は最初から無条件に完成されてはいないのではないでしょうか。私達が持つ相手の〈 断片的表象 〉を相手の〈 全ての人間的形象 〉として形成する事の不可能性こそが他者の体内化の失敗の真実ではないでしょうか。

 

j.   そうすると他者という人間的形象とは何でしょう。 人間的なものを全て網羅する形象が不可能であるならば、他者とは何でしょう。それは我々の中にある相手の断片が帰っていこうとする〈 宛先 〉としての〈 一者だと考えられないでしょうか。 その相手が実際に生きていようが、いまいが、断片が帰っていこうとする他者は実在の人物とはおそらく違う。実在の人物がいなければ、他者はありえないが、それでも他者は実在の人物とは違う。

 

k.   バラバラに散在する相手の断片的表象が帰っていこうとする場所がもし実在の人物のみであるならば、実在の人物が亡くなると、我々の中の断片的表象も帰るべき場所をなくして消滅してしまうかもしれない。しかし、実在した人物が既に亡くなった後でも、他者の断片的表象が一者の元に帰っていこうとする動きがあるという事は、幽霊的なものとしての他者が消滅する事なく彷徨っている という事なのです〈 続く 〉。

 

 

 

 続きは以下の記事を参照。