哲学的考察と備忘録

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ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(3)

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ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー( 2 )からの続き。

 

 

3.   主体の真実としての対象

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a.   ヘーゲルの哲学において、〈 精神 〉は〈 主体 〉として自己展開する。だが見かけ上は主体はその姿を直接的に見せる事はない。主体 ( 精神 ) は別の何物かに他在するという形で自己を展開する主体は見かけ上は消滅している事こそが、主体としての精神の運動が論理的に機能している事を示している。つまり主体は単独的な実在ではなく、常に移行しているものであり、もっと言うならば移行それ自体という表象不可能なものなのですそれ故にヘーゲル"真理は全体である"というのですね。

 

b.   主体が自己を回復する事こそ精神の運動の本質であるので、それは主体の反対物である対象 ( 自己が失われているという意味での ) において開始される運動の始めから主体がいきなり自らを何らかの主体であると意識することはない、赤ん坊が自らを赤ん坊という主体であると自覚しないように。しかし、それは主体性が排除されているのではなく、主体はそれが最初に関わる事になる対象の中に意識として溶け込んでいるという事なのですその時点での対象とは自分が見るだけで、見られている事に気付かないという主体の姿であるのです。

 

c.   それは対象としての主体であり自らの意識の由来に気付かないという意識の "無意識的形態" でもあるといえますその対象が自らも見られている事に気付く時、そこには意識の二重性としての自意識が既に働いている。未だ対象に過ぎない未発達の主体が外界に向かって自らの感覚性を振りかざすだけから、自分自身も見られる対象である事を受け容れた証明として自意識は作動し始めるのです。

 

d.   だから自意識とは主体が最初から備えているものではなく、対象が主体に移行する時に手に入れるものであり、それは意識による外界の捉え方自体が自らへの定義となって自身に跳ね返り差し込まれた結果としての事なのです。

 

e.   この意識の基本的な在り方としての自意識は、対象という主体において経験される超越論的なものであり、その超越的論的なものの経験とは主体には理解出来ないが受け容れるしかない出来事 ( 誰も自分に意識というものがある事に疑問すら抱かないでしょう ) なのですこれこそ主体において経験される外部から到来する非人間なものであるのですその意味で反照規定とは外部から対象という主体に作用する非人間的なものとしての精神の作用であるといえます

 

f.   これに対して精神がもし人間的なものに過ぎないというのであれば、精神の活動領域が人間的なものに限界画定されているという事であり、それは人間的なものとは何であるのかという事が精神の運動以前に強制的に決定されているという意味で不可能だという事になりますもし〈 人間性 〉というものが私達の中に無条件に書き込まれているのならば始めから〈 精神 〉の必要性などないのですが、人間性に先立つものがなければ〈 人間性 〉を書き込む事すら出来ない 1

 

g.   人間的なものの概念が曖昧であるという事は外部から人間的なものを形成する精神の運動があるという事でありその非人間的なものとしての精神がなければ人間的なものに辿りつけない。人間的なものの概念が不安定であるのは、それが精神の運動の過程にあるものだからなのです。

 

 

 

1

これが宗教的な方向に走ると、人間に先立つ〈 神 〉の概念が出てきてしまう。

 

 

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続きは以下の記事を参照。 

 

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