ヘーゲルにおける精神と幽霊 -幽霊の哲学ー(1)からの続き。
2. 非人間的な物としての精神
a. 〈 精神 〉という概念の本質、ヘーゲル的に言うとそれは〈 運動 〉です。それも自己を取り戻す運動です。精神が自己外化した結果としての〈 対象 〉を、実はそれが自己の実在としての真実である〈 他在 〉で あったと認める形で自己を取り戻すのです。この精神の本質である〈 運動 〉を哲学的に発動させた所が、それまでの哲学者とは違うヘーゲルの凄さなのですね。
b. ヘー ゲルはそれまでの哲学において探求の対象として固定されていた〈 精神 〉のピン留めをはずして自由にした。つまり精神を〈 主体 〉として扱い、そしてなおかつ動かし始めた。それまで主体といえば哲学的対象を扱う人間主体であったのだが、ヘーゲルはそこに哲学的対象であった〈 精神 〉を主体に並ぶものとして加えたという事です。
c. それは 非人間的な物であり、そのような物が〈 対象 〉として捕獲される時、既にそこでは精神が動き出しているという論理でヘーゲルは精神の運動と共に人間概念の境界画定をも秘かに脱構築していたとさえ言えるのです。〈 主体 〉を人間的なものとして理解し限定している限り、〈 精神 〉の論理は作動しない。対象物に作用する反照規定の論理は、非人間的な物、つまり人間的なものの外部の方向から由来すると理解されて始めて意味を持つ。
d. そのような人間的なものの外部から作用する精神の運動の最も恐ろしい極端な帰結を、ヘーゲル以上にヘーゲル的に述べるとすれば、それは人間的なものの形成( それがどのようなものであるのかは問題含みではあるが )でさえ精神の運動の過程に過ぎないものであるという事です。
e. では人間が〈 精神 〉の過程の産物に過ぎない時、人間的なものは一体どのような取扱いを受けるのか。歴史において精神の過激さを体現する革命的主体が人間をどのように扱ってきたかを振り返れば、それは言うまでもない事でしょう。マルクスは現実の諸問題に取り組むに当たって、ヘーゲルの弁証法を実践に適用すべく批判的に継承したが、それは精神の運動を過激に推し進める事でもあったのです。資本主義の諸問題への取組の裏で 哲学の名の下で制御されていた精神の獰猛さが、現実に解放されてしまったのです。
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