〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ブライアン・シンガーの映画『 ユージュアル・サスペクツ 』( 1995 ) を哲学的に考える

 

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監督 : ブライアン・シンガー  
公開 : 1995 年
脚本 : クリストファー・マッカーリー
出演 : ガブリエル・バーン      ( ディーン・キートン
   :ケヴィン・スペイシー      ( ヴァーバル・キント )
   : ベニチオ・デル・トロ     ( フレッド・フェンスター )
   : スティーヴン・ボールドゥイン  ( マイケル・マクマナス )
   : ケヴィン・ポラック      ( トッド・ホックニー
   : ピート・ポスルスウェイト    ( コバヤシ )
   : チャズ・パルミンテリ     ( デヴィッド・クイヤン捜査官 )

 



 1章  カイザー・ソゼの謎

 

この映画のラストでは左側の手足が不自由な詐欺師のヴァーバル・キントこそが謎の黒幕カイザー・ソゼであったと分かりますが、哲学的にはカイザー・ソゼの正体は誰なのかという見方よりも、カイザー・ソゼという "虚像" がいかにして出現したのか という考え方が哲学的には重要でしょう。

 

ヴァーバル・キント ( Verbal・Kint ) という名前から分かる通り、"おしゃべりな ( Verbal )" キントは、巧みな話術でカイザー・ソゼの事をクイヤン捜査官に語りますが、カイザー・ソゼとは事件の黒幕としてのおしゃべりな自分をドイツ語とトルコ語で言い換えたものなのですね。"Kaiser" はドイツ語で "皇帝"、"Soze" はトルコ語で "おしゃべり"、を意味するので、黒幕としての自分を "おしゃべりな皇帝" と称したブラックジョークな訳です。

  

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勘のいい人はここでカイザー・ソゼのみならずヴァーバル・キントという名前もおそらく偽名に過ぎないんだなと気付くでしょう。そうすると、カイザー・ソゼの正体がヴァーバル・キントであるという言い方自体に意味が無い事が分かりますね。両方とも偽名なのだから。

 

確かに私達は映画のストーリーを把握する上で、便宜上、カイザー・ソゼの正体がヴァーバル・キントだと理解するしかないのですが、両方とも偽名であるならば、カイザー・ソゼ ( ヴァーバル・キントでもいいのですが ) なる人物の正体には、近づけていない のです。その人物の名前は本人にしか分からないのですから ( 少なくとも映画の中には出てこない )。

 

それでもストーリーの中で出てくる幾つかのカイザー・ソゼのエピソードによって、彼の本当の名前は分からなくても、私達は彼の本質に近づく事は出来ているのではないかと思う人もいるでしょう。例えばカイザー・ソゼが対立する組織に妻と娘を人質に捕られても彼女らを先に撃ち殺し、相手に恐怖を与えるというエピソード ( ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクがよく引用するもの ) がありますが、それも正直どこまで本当か分からないですね。

 

これもキントが目の前のクイヤン捜査官にカイザー・ソゼの存在を印象付けるために話している事を考慮に入れるならば、全くの嘘ではないにしろ、話を盛っていると考える方が自然でしょう。個人的にはその話が全くの嘘である方が面白いですけどね。

 



 2章    実在の効果を生む言葉の魔力

 

今一度言うなら、カイザー・ソゼあるいはヴァーバル・キントを名乗る男は誰なのかという問いは本質的なものではないという事です。おそらく彼が真実を語ることはないでしょうから。せいぜいのところ、また偽名と嘘を語るくらいです。そうすると、ここで有効な哲学的問いとは、1章で既に述べたように、カイザー・ソゼという虚像がいかにして出現したのか、という事になる訳です。

 

この問いを考えるには、カイザー・ソゼを名乗る男が 自らの名前において何をしようとしているのかを哲学的に考える必要があるでしょう。通常、名前とは特定の対象を名指すものであり、それによって特定の対象を周囲のその他の対象から区別する事が出来るようになりますね。いわゆる "言葉の名指し機能" です。もっと端的に言うなら "固有名詞" という事になります。

 

その名指し機能は、通常の状態だと、特定の対象が判別されるような "狭い生活圏" でしか機能していません。通常の状態というのは、例えば A という人物が周囲の人達から具体的な特性を持ったものとして、認識されていなければならないという事です。A は誰々の家の息子だという具合に。その時に初めて言葉の名指し機能が、名指しされる対象の特性と共に機能するのです。

 

しかし、そこには "言葉の流通機能" が不足しています。それでは名前は狭い生活圏でしか機能せず、その生活圏から外れてしまえば意味が無くなってしまう。A という名前が挙がったとしても、一体それが誰を名指ししているか分からないから です。私達の大部分はそのような狭い生活圏の中で名指し機能による自己同一性を保持して一生を過ごします。

 

ところが一部の有名人 ( 様々な分野における ) は "言葉の流通機能" によってその名前を広める のです。そのためには狭い生活圏における名指し機能による自己同一性を脱する必要があります。狭い地域における属性の "直接的認識 ( 名指し機能 )" は、言葉と映像による "間接的属性 ( 流通機能 )" に取って代わられ拡散していくのです。

 

ここは大切なところです。というのも "同じ名前" でも、限定的な生活圏においては "固有名詞" として機能するけど、より広い圏域においては固有名詞ではなく、"記号表現"  として流通して機能するのです。おそらく哲学や言語学を学んでいる人でも 名前=固有名詞 でしかないと思い込んでいる人もいるでしょうが、『 ユージュアル・サスペクツ 』はそんな思い込みを裏切ってくれます。固有名詞は、記号表現に対して常に優位に立っている訳ではないのです。ここで起こっている現象は 固有名詞の記号表現化 といえるものでしょう。

 

"記号" ではなく、"記号表現" としたのは、フェルディナン・ド・ソシュール言語学以来、記号表現 ( シニフィアン ) / 記号内容 ( シニフィエ ) という言語学的区分による組合せがかつて現代思想を席巻し、ラカン精神分析で頂点に達した 記号表現 ( シニフィアン ) を念頭に置いているからです。最近ではその事を問題にする人はほとんどいませんが、そういう状況だからこそ、記号表現 / 記号内容 の概念を道具として使い自由に考える余地が残されているといえるのです。

 

カイザー・ソゼと呼ばれる男は、自分を名指す固有名詞としてカイザー・ソゼを使っている訳ではありません。誰がカイザー・ソゼなのか皆知らないし、彼自身も自分を特定させるつもりもありません。彼は、その名前を記号表現として流通させているのです。それはただたんに浮遊しているイメージとしての記号表現ではなく、恐怖というソゼの内実を伴う記号表現として機能するのです。

 

その事を図式を使って考えていきましょう。まずは記号表現 / 記号内容 の関係性とそれをカイザー・ソゼに当てはめた場合です ( 図 A )。

 

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一見すると分かりやすい図式に思えますが、この 図 A には問題があります。というのも記号表現 / 記号内容 の組合が、暗黙の内に了承されたものになっているからです。私達は図式の 下段の記号内容の方を中心だと無意識的に思い込んでいる記号内容を名指すために記号表現を探して適用しなければならないという訳です。

 

しかし、これでは名指しが機能する狭い圏域の話になってしまい、そこでは当然、カイザー・ソゼと名指される事になる男の正体は知れ渡っていてる。つまり、カイザー・ソゼの謎めいた神秘さは出現する事はない。

 

カイザー・ソゼの存在を理解するには、記号表現を対象物を示す言葉としてではなく、それ自体としてある言葉、つまり、口から発せられた言葉の物質性 として考え直す必要があります。一端それが名前として発せられ流通すれば、後は不足する内実性 ( 記号内容を含めた ) を引き寄せるようになる。ここでは、名指しを待つ記号内容ではなく、流通する言葉としての記号表現がまず最初にあるのであり、その後に記号内容や内実性、そしてそれらを語る者、などの属性が引き寄せられるという "逆転現象" が起こるのです。

 

これを再び図式によって考えてみましょう。お分かりのように、通常の 記号表現 / 記号内容 の1対1対応の組合せは名指し機能に基づいた恣意的なものなので、カイザー・ソゼの存在を説明出来ない。なのでカイザー・ソゼという記号表現が様々な属性を引き連れて流通していく謎を図式で示しますね ( 図 B )。

 

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図 B において大切なのが、3. の『 ただし彼は自らを記号内容として正体をさらす事はしない 』です。この他の属性と違う点が、自らの存在を神秘的にしている訳です。逆に言うと、名指しの対象として自らの存在を明らかにしなくても自らの名前を記号表現として流通させる事が出来る という事です。これがカイザー・ソゼの秘密といえるでしょう。

 

これらは、『 ユージュアル・サスペクツ 』が公開された1995年の当時より、インターネット社会 ( 特にSNS ) が発達した現在においてこそ、より理解出来るといえるでしょう。ある人間に対する噂や中傷が何の確証も無く ( 確証がありそうな雰囲気だけで ) 拡散するし、何らかのニュースでさえ、当事者しか分からない詳細が省かれてると、偏った受け止め方をされ、非難が起こるという具合ですからね。そのように記号表現とは 人間を幻惑させ、行動を誘発するという意味で、人間主体を越え出て私達を規定する謎めいたもの だと言えます。そして、そこに人間の〈 欲望 〉が絡んでいるのは間違いないのです ( )。

 

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