公開 2016 年
監督 ポール・バーホーベン
原作 フィリップ・ディジャン
出演 イザベル・ユペール ( ミシェル・ルブラン )
ジュディット・マール ( イレーヌ・ルブラン )
ジョナ・ブロケ ( ヴァンサン・ルブラン )
ロラン・ラフィット ( パトリック )
ヴィルジニー・エフィラ ( レベッカ )
クリスチャン・ベルケル ( ロベール )
アンヌ・コンシニ ( アンナ )
ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。この出会いをもっと味わうべきでしょう。
1章 B級映画監督ポール・バーホーベン ?
ポール・バーホーベンといえば、エロティックかつグロテスクなシーンを得意とし、面白い作品 (『 ロボコッ プ』、『 トータル・リコール 』など ) を創ったかと思えば、こき下ろされるような作品 ( 『 ショーガール 』) を創るという意味で、B級映画監督という印象を抱いている人がほとんどではないでしょうか。
これほど評価の浮き沈みが激しい監督も珍しい。この安定感の無さは何に起因するのでしょう。これを単に映画監督としての力量が足らないからだと結論付けてしまっては話は終わるのですが、彼の作品にはそう思わせない何かがあります。
それについて考えるには、やはり彼特有のエログロを強調したシーンの意味を分析する必要があるでしょう。彼の作品のエログロシーンが定番なのは何故か? バーホーベンはどのような意図でそのシーンを使うのか? その問いについて考えていく事がバーホーベンの映画の特徴を明らかにするのに繋がるでしょう。
2章 ストーリーが二転三転する『 ELLE 』
『 ブラックブック 』など比較的エログロシーンが押さえられた最近の作品から一転して『 ELLE 』にはエロどころか批判を浴びかねないイザベル・ユペール ( ミシェル・ルブラン役 ) がレイプされるシーンが登場します。
ここで、これまでの彼のエログロシーン ( *1 ) について考えてみると、それは明らかに観客の性的嗜好や嫌悪感などのリアクションを掻き立てる機能を果たしていてバーホーベンの意図的な操作の結果な訳なのですね。でも間違えないでほしいのは、バーホーベン自身が欲情的であるからエログロシーンを撮るのではありません。そこには、性的嗜好を刺激して観客の心情を操作しようとする無意識的試みに取り憑かれたバーホーベンの制作スタイルが現れている訳です ( *2 )。
さて、これまでのエログロシーンならば観客の欲望を刺激してそこで終わりだったのですが、『 ELLE 』のレイプシーンはその先に行ってしまっているのです。つまり、レイプシーンは仮に欲情する者がいたとしても、大多数はそのシーンに道徳的批判の声を挙げてしまうという事です。
しかし、レイプシーンに対する道徳的非難、これをバーホーベンが予測していないはずがない。いや、正確に言うならば、道徳的非難を引き起こすレイプシーンを見せながらも、すぐにそれを打ち消すようなミシェル ( イザベル・ユペール ) の振舞いを演出するのです。レイプというトラウマになりかねない出来事にショックを受けた女性が、そこから立ち直るというような紋切型の話とはバーホーベンは縁を切る事によって、観客が普通の反応 ( ここでは道徳的非難 ) が出来ないように操作しているという訳です。 ではレイプされた後のミシェルの振舞いとはどのようなものか見ていきましょう。
護身用グッズを買うミシェル。しかし小型の斧はもう護身どころか殺傷能力があるので、この時点で彼女にはレイプ犯への復讐心が芽生えているのが読み取れる・・・あくまで上辺だけですけど。
レストランでの友人たちとの食事のシーン。レイプされた事実をあけすけに語り、彼らを引かせてしまう。
そして最も重要なのは、ミシェルがレイプされた後、警察に通報しなかった事 です。この映画のストーリーを設定する上で、その事はレイプされた事よりも大切な要素になっているのです。それは不謹慎だという感情レベルでの反応以前に、観客の通常の解釈と反応を斥けるあらゆるストーリー設定が可能になる条件 であると言えるでしょう。
事実、警察に通報しなかった事 ( これを便宜上 A とします ) により、そこに 幾つ物の話を差込んで接続する ( 以下の ①~④ ) 事 をバーホーベンはやってのけています。
① A それ自体は、まず過去の父親の犯罪を巡って警察への不信感があるという話によってまず固定される。
② さらに A の背景には、犯罪者の父の存在自体がミシェルのトラウマになっていて男自体への憎しみがあるので、ミシェルが自分自身で犯人に復讐しようとする意図が隠されているかのように話が進む。
③ ② の話を強化するかのように、ミシェルは度々襲われるレイプのフラッシュバック的妄想の中で、犯人に抵抗し傷を負わせるシーンが差し込まれる。
④ しかし、ミシェルは再び襲われた時に、犯人が向かいの家に住むパトリックだと分かったにも関わらず、そのまま放っておく。この流れの伏線としては近所付き合いのあるパトリックに恋愛感情を抱いていたミシェルの振舞いがあります。パトリックを挑発したり、自宅から向かいの家のパトリックを見ながら自慰行為をするなど。
① から ③ で積重ねられたトラウマによる復讐行為という筋書きは ④ によってあっさりと覆されます。これについては、ミシェルはレイプのトラウマより彼女の中の欲望が勝ってしまったんだ と解釈するしか出来ないでしょう。ただし、この解釈では、A の時点で 実はミシェルは再びレイプされる事を望んでいたかもしれない ( バーホーベンならそう考えていても不思議ではない ) というとんでもない帰結が導きだされる可能性がありますね。
そこでバーホーベンはそれをはっきり言明せず曖昧なままにする ( 正面切って主張するにはスキャンダラスであるので ) ために、ひねりを加えた次の展開に移行します。
事件の後、パトリックの妻だったレベッカが引っ越すシーン。
驚くべきは、レベッカは夫のパトリックがミシェルを襲っていた事を知っていた のです。レベッカの設定は敬虔なキリスト教徒だったのですが、彼女の発言 ( シーン10. ) によってその背景に 夫の病的な性癖 ( レイプすることでしか女性とSEXすることが出来ない ) に悩んでいた 事が推測出来るというオチが付くのです。
レベッカの "彼に応えてくれて感謝している" というセリフは一見するとミシェルの立場を考えない身勝手なものに思えるかもしれませんが、レベッカは日常近所付合いでのミシェルのパトリックへの恋愛感情に気付いていたし、だからこそレイプも彼の性癖を分かった上での "ゲーム的行為" であると考えていたと解釈出来る訳ですね。
つまり、ここでのレベッカは、ミシェルの隠された欲望の真実を明らかにする役割を果たしているのです。だからこの時のミシェルは自分の本質を見抜かれてしまったとして普通ならば驚きや気恥ずかしさを表現しそうなものですが、そうはならない。
そこで終わらせないためにバーホーベンは事をさらに曖昧すべく、冗長なひねりを加えます。物語の核心を担うはずのミシェルとパトリックの組合せから、ラストにおいてミシェルとアンナの女性同士の組合せを登場させるのです ( *3 )。それによって ミシェルの欲望の対象がパトリックからアンナへ移行している 事を示そうとします。
もちろんこの女性同士の組合せはレズビアンに他ならないのですが、このミシェルの振舞いはスキャンダラスというよりは、ほとんど支離滅裂なものになっていますね。果たして、このミシェルとアンナの組合せを登場させる必要があったのでしょうか。映画の前半にはミシェルとアンナが、かつてレズビアンであった事を仄めかすシーンがあり、バーホーベンは最初からこのラストのオチを考えていたようですが散漫な印象になっている事は否めないでしょう。何せ、このラストのシーン ( 22~26. ) においてすら2人が仲睦まじくし過ぎているという事で控えめな演技をさせたとインタビューで語っていたくらいですから。
結果としてバーホーベンは、より曖昧な方向に進む事を自ら選択しているのであり、その曖昧さはストーリーを練り上げる上で必要な複雑さから来ているというよりは、観客に解釈させず宙吊りにする事を好む彼の欲望から来ているといえるのです。
( *1 )
『 スターシップトゥルーパーズ ( 1998 ) 』のグロシーン。ブレイン・バグスに脳みそを吸い取られるザンダー ( パトリック・マルドーン )。
( *2 )
『 氷の微笑 ( 1992 ) 』でシャロン・ストーンが足を組みかえる有名なシーン。
( *3 )
『 氷の微笑 ( 1992 ) 』にもシャロン・ストーン演じるキャサリン・トラメルとレイラニ・サレル演じるロキシーのレズビアンの組合せが登場する。
3章 バーホーベンの映画の本質である倒錯的形式
ようやくここから本題に入れるのですが、以上で述べてきたように、バーホーベンの映画の特徴は、エログロシーンと二転三転するストーリーの組合せという事で大方説明が付くでしょう。そしてその組合せが上手く機能すれば面白い作品 ( 『 ブラックブック 』) になるし上手くいかなければ駄作になるという具合です。
しかし、エログロシーンと転調的ストーリーとは結局の所、観客の目を引く事と、観客の解釈を拒否する事 ( 事実、バーホーベンはインタビューで映画を解釈する事に否定的な発言をしている ) であり、その観客の鑑賞スタイルを操作しようとする製作スタイルにこそバーホーベンの欲望が潜んでいるといえます。
このバーホーベンの欲望について考える上で "倒錯" の概念を参照しましょう。倒錯といっても、一般的には "正常な状態から逸脱した" という意味ですが、精神分析的に考えると、通常なら性器における直接行為で得られる快楽が、性器に辿りつく前の別の箇所あるいは状況における行為によって得られてしまう事を意味します ( まあこの考え自体が精神分析において古いことは否めませんが )。
もちろん、そのままではここでの展開に適用出来ないので、哲学的に考え直す必要がありますね。映画を製作する人間は、通常は自分の考え方や主張なりを提示する事に満足を見出すのでしょうが、バーホーベンは違う。彼は観客に対して提示したい考えや主張などのメッセージ性が最初にあるのではなく、まず 観客の視線や反応、解釈などの他者の即物性 を想定して、それを 裏切る映画を作る事に快楽を見出している。
だから彼の映画にはいつもエログロシーンが登場して観客の反応や欲望を誘導しようとするし、観客の解釈を裏切るべく二転三転するストーリー ( 時として不必要だと感じる時があるくらい ) を展開させるのです。
つまり、観客の反応や解釈などの他者の即物性を先取りしている事こそがバーホーベンのスタイルの本質になっている のであり、通常ならば映画の根幹である脚本はそんな彼のスタイルの中に溶かされていく。そのような 偏執的な先取りが既に本質になっている彼のスタイルは倒錯的である ( 気を付けなければいけないのは彼の人間性が倒錯的なのではなく、映画の製作スタイルが倒錯的であるという事 ) と言う他はなく、映画自体が倒錯的形式で構成されてしまうのは必然的であると言えるでしょう ( 終 )。