■ 父親はファシストの報復で殺された、という推理を一旦はしたアトスですが、父親が、劇場での『 リゴレット 』上演中に殺されたのと、ムッソリーニ暗殺計画の舞台が同じ劇場での『 リゴレット 』上演中であること ( アトスの父親は爆弾での暗殺を提案したが、三人は劇場での暗殺を主張した ) に偶然にしては一致しすぎていると疑問を抱く。
■ そんな疑問をドライファに打ち明けるアトス ( 78~91. )。三人を擁護するドライファ ( 82. と 90. )。しかし、別の場面では、彼女は三人をアトスの父親殺しで非難したり一貫性がない事が分かる ( つまり、嘘をついている )。そのドライファに対しても疑念があることを示すアトスの身振り ( 93~95. )。
■ 三人組が父親殺しの犯人であること見抜くアトス ( 96~100. )。しかし、それくらいお見通しであろう父がなぜ殺されたのか。アトスはここで父も三人組と共犯関係にあったのではないかと考える。一見、突拍子もない考えに思えますが、父親が自ら死んだのであれば納得できる、とアトスは考えたのかもしれない ( 101~103. )。
■ ほとんどの人は、ここでようやく、この映画のオチが明らかになったと思い込むでしょう。町全体を巻き込んで、裏切者が英雄という装いのままで殺される事によって伝説になるという巨大演劇が実行された・・・・・( 105~122. )。この壮大な真実がヴェルディのオペラ『 リゴレット 』と共に、私たち観客に映画的快楽をもたらすのだ、という気持ちのいい解釈に浸る人は多いはずです ( そういう批評も多い )。
■ しかし …… ベルトルッチは映画の "真実" に関して分かりやすい映画的快楽を提示する監督ではない。ストーリーに関係ない所で自分が見てきた映画をポスターとして貼り出すなど "小ネタ" の類を差し挟むことはあっても ( *A ) 。この先を考える事を要求する監督なのだと思い直すべきです。実際、映画はここで終わらず、次に場面が続くのですから。
( *A ) このような小ネタの有名な例としては、『 暗殺の森 』のクアドリ教授の電話番号がベルトルッチの敬愛するゴダールの電話番号だったり、『 ドリーマーズ 』で、これまたゴダールの『 はなればなれに 』でのルーブル美術館を走り抜けるシーンを再現するなど、がありますね。
■ その前に、いや、この映画の "真実" に考える前に、この映画の "オチ" について整理しておく必要があるでしょう。アトスの父親を殺したのは三人組の男たち ( ガイバッティ、コスタ、ラゾーリ ) であるのは間違いないのですが、なぜ殺したのか。4章 で既に述べましたが、端的に言うなら、三人組はアトスの行動についていけなかった、という事ですね。アトスの父はラディカル過ぎた。"暗殺" と言われて怖気づいた三人を責めることは出来ない。反ファシズム活動家であったアトスの父とは違い、彼らは普通の市民だったのだから。あくまでも普通の市民のままであったならばの話ですが …… 。
■ ここで、何が言いたいかというと、彼らが、おそらく普通の市民 ……ではなかった、いや、ではなくなった可能性が高いという事です。普通の市民ではない …… のなら一体何なのか。答えは、アトスの父ではなく、彼らこそが "裏切者" だという事です。彼らがムッソリーニの暗殺計画を聞いた時、真っ先に自分たちの身の安全を心配した ( シーン 61~62. ) ことを思い起こすならば、ファシストによる報復を恐れて暗殺計画を止めるためにアトスの父を殺したのでしょう。彼らは、アトスの父に頼まれたから殺したのではなく、自分たちの意志で、アトスの父を殺して裏切者になったのですね。
■ そうであるならば、場面 107~122. は三人が説明するのとは全く違うように解釈出来るでしょう。おそらく三人は、アトスの父にムッソリーニ暗殺計画を止めるように言った ( 報復を恐れて )。それに対してアトスの父は、三人に裏切りの兆候を読み取り、暗殺計画を止めたいのなら "俺を殺せ" と迫ったのではないかと推測出来ますね。裏切りの気配を忍ばせる三人に "裏切者は死んでも裏切る" と非難したのだ ( シーン 112. ) と考える方が筋が通るでしょう。アトスの父が、自分のことを "裏切者は死んでも裏切る" と言うのは不自然すぎますからね ( そもそもムッソリーニ暗殺計画を提案したアトスの父本人が、それを密告するという裏切り話自体に無理がある )。
■ 以上の話は、この映画における "オチ" に過ぎません。もちろん、その "オチ" に満足して、そこで終わることも出来ます ( 何せ、そのような "オチ" にすら気付かない人がほとんどでしょうから )。しかし、ここからは哲学的考察によってさらにその先に進みましょう。この映画には、哲学的考察を要求する余地が残されているのですから。